日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

動物であることを忘れずに。

2020-06-09 08:06:00 | 発達応援
今日は養生の勉強に行くので、積込みの仕事はお休みをいただきました。

それでも朝は5:00に起きるのですが、ゆっくりできる朝はやっぱりいいですね。土日みたいです(笑)




神田橋先生の本を読んでいます。

この本の中で、根底に胎生期の愛着障害を持っている人が素晴らしい理論構成を作り上げ、精神療法家になり、その理論構成に魅了されて、お弟子さんや追従者があらわれ、流派ができる(大意)というような記述があります。

その流派の理論構成を学ぶことが、愛着障害による自分の生きづらさをカプセルに入ったような感じにしてくれて、安定し本人的にはめでたいことになる。

要するに、愛着障害を自分で四苦八苦したり、試行錯誤して乗り越えるのではなくて、あたかも克服したかのような錯覚を起こさせるということなのかな、と私は読んだのですがどうなのでしょう。

それで、そういう心理学的な理論構成で愛着障害のカプセル化に成功した人が子どもを育てようとすると、子どもたちは動物としてのお父さん、お母さんに会えないことになり、生まれたときから人間文化の権化であるお父さんお母さんに会うことになる、と述べられています。

この生まれてきて動物としてのお母さんと会うのでなく、理想的な母親像と会うことは別な言葉で言うと「親ばか」に会わないということで、なんとなく甘えの関係が構築されないそうで、優れた育児機械によって育児されている感じだそうです。

それは赤ちゃんが見てるものをなんとなく眺めて「何見てるの〜、ワンワンだねぇ」とか「んー、おもしろいねぇ、ろろろろろ〜」とか赤ちゃんが喋るわけではないけれど、見ながらお母さんが喋って、赤ちゃんも呼応するそんなお互いやりとりをし、お互い変化していく関係性ではないということのようです。

だから、依存欲求を満たし、ちゃんと育てているのだけど、動物としての触れ合いの部分が欠如した育児になり、子ども自身に生後の愛着障害が生じたりする、ということのようです。

この本のその辺りのことを読みながら、これまで出会った、私などより余程たくさん色々なことを学んで、それでも教室に体験に来られた親御さんの顔が浮かびました。

そして、そういう子育てとは真逆のこよりさんの本に書かれた子育てや先日の廣木先生の子育てを思い出しました。

昨日、廣木先生がZoomで紹介しきれなかった体を整えるための実践を公開してくださいました。

一人でできることを試すと、体の中に芯ができて、ブレないけれど、すぐ動ける、そんなものが通るのがわかりました。

親も支援者も、頭で理論武装するのではなく、無様でも自分で動き、ぶつかって自分の中の生きづらさは克服していく、克服できなくてもどうにかしようともがく、そのもがきそのものが、自分のブレない軸を作るのに必要なのかもなぁと思った朝でした。



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