日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

子どもの紡ぐ物語。

2016-08-25 21:12:05 | 発達応援
 この夏は、氷をたくさん入れた水筒を積込みの仕事に持っていきました。
旦那どんのアイス珈琲の分、水の分、私のでかめの水筒の分と朝から氷がたくさんいるので、
気がついたときに、せっせと氷を作っていました。

 そんな日も、もうすぐ終わりかと思いましたが、
そんな気配はない、日中の暑さです。

 今日、積込みの仕事場で「さるのこしかけ」の話になり、
「近ごろみないよね。」というようなことをワイワイと言い合っていました。

 でも、ふと、話しながら、大人になった私は、
通りがかりの大きな木に目を奪われて、じーっと見たり、
緑の中に見え隠れする色とりどりの花に立ち止まる、
そんな日は、あまりたくさんんはないような気がします。

 子どもの頃は、上を向いたり、下を向いたり、
きょろきょろきょろきょろしながら歩いたものです。

 だから、色々な発見が日々あって、
歩いても、止まっても楽しい毎日だった気がします。

 また、頭の中にはいろいろなでたらめなお話が詰まっていて、
お人形を並べては、そんな頭の中の物語にのせて遊んだり、
頭の中だけでは足りずに、何か絵にして描いてみたり、
そんなこともしていたように思います。

 そんなことを思い出したのは、
昨日の算数での子どもの発する色々な話しや動作に、耳を傾けて、見入っていたからでした。

 伸びる粘土を「はい、マヨネーズ」「はい、わさび」と分けて置く子どもを見ていると、
それは伸びる粘土ではなく、まぎれもなく、マヨネーズであり、わさびなんだんぁ、と
思えました。

 そして、あまり器用ではないその子の指先から、粘土でつくる
一貫のにぎり寿司が出来上がり、おにぎりも三角や四角のバージョンをつくり、
「はい、食べてみて!」と渡すときの嬉しそうな顔。

 かつて、私が庭先で泥でつくったおにぎりを「はいどうぞ」と、
父に食べてもらっていたときも、きっとこんな期待に満ちた顔をしていたんだろうなぁ、と
思うことでした。

 こんなままごとのようなことでも、
「お父さんにだから、大きいのを3個にしよう」とか「お団子風の小さいのをつくろう」とか、
色々なことを考えていたように思います。

 それがやがては、重さや量につながっていっていたのでしょうね。

 うちにやってくるお子さんの頭の中にも、物語がいっぱい詰まっています。
色々なことに取組みながら、その子の物語が算数とピタリと寄添ったとき、
ポンと次の所に行けるのだろうなぁ、と思った今日でした。


 

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