日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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凧揚げは遠州人の気風です

2018年05月12日 19時29分08秒 | 日記
 横須賀凧の歴史は古く、戦国時代、武田方と徳川方による高天神合戦の際に、敵の陣地の測量や通信手段などに利用されたのが、その始まりといわれています。

 いっぽう横須賀凧が祝凧として多彩になったのは江戸時代になってからです。元禄年間(1688~1703年)、時の城主西尾隠岐守忠尚公の加増を祝って、家臣たちが凧を揚げたことに由来すると伝えられています。そして正徳年間(1711~1715年)には、広く城下町の庶民の間でも凧を揚げるようになりました。

 そして凧揚げはますます盛んになり、しばしば凧に関する城役からの注意書(うなりのついた凧や大凧の禁止令)が発布されたほどです。このように人々が競い凧揚げを重ねた結果、様々な意匠のものが誕生しました。このため凧の種類は多く、20種類以上にもなるといわれています。

 やがて、凧揚げは4月20日過ぎから5月までという期限が定められ季節がら男児の節句祝品として用いられるようになり、今日に継承されています。(遠州横須賀凧遊風会より)

 巴・とんがり・べっかこう・ぶか・奴など20種類以上もの形があります。

「べっかこう」は、大きな赤い舌が特徴で、目は銀色で揚げた時、ぐるぐると回る仕掛けがされています。一説にはかつてこの地方にも訪れていた三河万歳の演者の姿を模したものともいわれています。


「巴」は、上部に初代横須賀城主・大須賀康高公率いる徳川方の「三つ巴」。中段に武田方の菱紋、遠州灘の荒波と風紋、下段に徳川家康の軍扇を配し、遠州灘のこの地で徳川方が武田方を挟み撃ちにしている様子を表しているといわれています。

「とんがり」は、武器の鉾(ほこ)になぞられ尖っているため「とんがり」と呼ばれ、その図柄は鶴、亀、松、竹、梅に波間のほら貝、昆布とめでたいものばかりです。突き進む意で祝凧として人気があります。

「せみ」この形は全国各地に点在しています。大胆な配色と、鮮やかな色彩が特徴です。

「のし」は、古来から、おめでたいときに使われる「熨斗」をあしらった凧です。  

役に立つ犬の悉平太郎です

2018年05月12日 13時06分29秒 | 日記
 平安時代中期に遠江国の国府が置かれ、江戸時代には東海道28番目の宿場町として賑わった静岡県磐田市見付。その宿場町を小高い丘の上から見守るかのように鎮座しているのが「矢奈比賣神社」です。
 
 御祭神は矢奈比賣命(やなひめのみこと)・菅原道真公(すがわらみちざねこう)・霊犬悉平太郎(れいけんしっぺいたろう)です。

 矢奈比賣神社の社務所からぐるっと裏手に回り境内を出てると、そこはつつじ公園。この公園の一画に霊犬・悉平太郎を御祭神とした霊犬神社があります。 

 悉平太郎は生まれ故郷の長野県では早太郎と呼ばれ、鎌倉時代後期に次のような伝説を残しました。

 見付の里では毎年8月10日の天神祭の夜に村娘を1人、生きたまま棺に入れ人身御供として見付天神へお供えしていました。供えられた娘は怪神に食い殺されてしまうのです。

 ある年、祭りの日に通りかかった旅の僧がこの話を聞き里人を助けようと考え、娘が供えられた神社の様子をこっそりと覗き見ました。すると轟音とともに現れたのは怪神ではなく恐ろしい妖怪。

 この妖怪が「信濃の国にいる悉平太郎には知らせるな」と、悉平太郎を怖がっていることから、旅の僧は信濃(現在の長野県)へ彼を探しに行きました。

 旅の僧が根気よく探した結果、悉平太郎は人間ではなく光前寺で飼っている逞しい犬と判明。そこで旅の僧は悉平太郎を借り見付の里へ。祭りの晩になると人身御供の娘の代わりに棺へ入れ、妖怪が出てくるのを待ちました。

 やがて妖怪と悉平太郎の死闘が繰り広げられ、翌朝、里人が神社を訪れると、そこには年老いた巨体の狒々(ひひ)が血まみれで息絶えていました。一方、悉平太郎は重症を負いつつも生きていました。

悉平太郎の見事な働きぶりに感謝した里人は、光前寺へ大般若経六百巻を書き写し奉納。その後、悉平太郎は無事に帰山したとされています。

 霊犬神社では見付の里を救ってくれたことから、悉平太郎を「神様」としてお祀りしています。