横須賀凧の歴史は古く、戦国時代、武田方と徳川方による高天神合戦の際に、敵の陣地の測量や通信手段などに利用されたのが、その始まりといわれています。
いっぽう横須賀凧が祝凧として多彩になったのは江戸時代になってからです。元禄年間(1688~1703年)、時の城主西尾隠岐守忠尚公の加増を祝って、家臣たちが凧を揚げたことに由来すると伝えられています。そして正徳年間(1711~1715年)には、広く城下町の庶民の間でも凧を揚げるようになりました。
そして凧揚げはますます盛んになり、しばしば凧に関する城役からの注意書(うなりのついた凧や大凧の禁止令)が発布されたほどです。このように人々が競い凧揚げを重ねた結果、様々な意匠のものが誕生しました。このため凧の種類は多く、20種類以上にもなるといわれています。
やがて、凧揚げは4月20日過ぎから5月までという期限が定められ季節がら男児の節句祝品として用いられるようになり、今日に継承されています。(遠州横須賀凧遊風会より)
巴・とんがり・べっかこう・ぶか・奴など20種類以上もの形があります。
「べっかこう」は、大きな赤い舌が特徴で、目は銀色で揚げた時、ぐるぐると回る仕掛けがされています。一説にはかつてこの地方にも訪れていた三河万歳の演者の姿を模したものともいわれています。
「巴」は、上部に初代横須賀城主・大須賀康高公率いる徳川方の「三つ巴」。中段に武田方の菱紋、遠州灘の荒波と風紋、下段に徳川家康の軍扇を配し、遠州灘のこの地で徳川方が武田方を挟み撃ちにしている様子を表しているといわれています。
「とんがり」は、武器の鉾(ほこ)になぞられ尖っているため「とんがり」と呼ばれ、その図柄は鶴、亀、松、竹、梅に波間のほら貝、昆布とめでたいものばかりです。突き進む意で祝凧として人気があります。
「せみ」この形は全国各地に点在しています。大胆な配色と、鮮やかな色彩が特徴です。
「のし」は、古来から、おめでたいときに使われる「熨斗」をあしらった凧です。
いっぽう横須賀凧が祝凧として多彩になったのは江戸時代になってからです。元禄年間(1688~1703年)、時の城主西尾隠岐守忠尚公の加増を祝って、家臣たちが凧を揚げたことに由来すると伝えられています。そして正徳年間(1711~1715年)には、広く城下町の庶民の間でも凧を揚げるようになりました。
そして凧揚げはますます盛んになり、しばしば凧に関する城役からの注意書(うなりのついた凧や大凧の禁止令)が発布されたほどです。このように人々が競い凧揚げを重ねた結果、様々な意匠のものが誕生しました。このため凧の種類は多く、20種類以上にもなるといわれています。
やがて、凧揚げは4月20日過ぎから5月までという期限が定められ季節がら男児の節句祝品として用いられるようになり、今日に継承されています。(遠州横須賀凧遊風会より)
巴・とんがり・べっかこう・ぶか・奴など20種類以上もの形があります。
「べっかこう」は、大きな赤い舌が特徴で、目は銀色で揚げた時、ぐるぐると回る仕掛けがされています。一説にはかつてこの地方にも訪れていた三河万歳の演者の姿を模したものともいわれています。
「巴」は、上部に初代横須賀城主・大須賀康高公率いる徳川方の「三つ巴」。中段に武田方の菱紋、遠州灘の荒波と風紋、下段に徳川家康の軍扇を配し、遠州灘のこの地で徳川方が武田方を挟み撃ちにしている様子を表しているといわれています。
「とんがり」は、武器の鉾(ほこ)になぞられ尖っているため「とんがり」と呼ばれ、その図柄は鶴、亀、松、竹、梅に波間のほら貝、昆布とめでたいものばかりです。突き進む意で祝凧として人気があります。
「せみ」この形は全国各地に点在しています。大胆な配色と、鮮やかな色彩が特徴です。
「のし」は、古来から、おめでたいときに使われる「熨斗」をあしらった凧です。