日々是好舌

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ご近所に秤の老舗ありました

2020年10月05日 16時47分26秒 | 日記
 私が通院している静岡厚生病院(北番町)近くの若松町に老舗の秤屋があるのことを最近知った。河瀬衡器製作所である。
 社史によれば、真田弾正幸隆を祖先に持つ初代川瀬(河瀬)光通は、承応二年(1653年)に秤屋を創業しました。その孫河瀬源右衛門が駿府(現在の静岡市)の七間町に秤座を開き、駿府秤所の初代名代になりました。
 真田幸隆は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
 出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
 幸綱の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
 真田家の旗印である「六文銭」は三途の川を渡るための船賃という不吉な意味であるが、幸綱はかつて仕えていた山内上杉家を見限り、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟で、この旗印を用いたとされる。 
 天文年間(西暦1550年)甲州は名将武田信玄の治政のもと、その希有な政治的才能も相まって、大いなる繁栄をとげつつありました。
 当時領国内に甲斐金山を有し、産出する黄金のために精密なる秤が必要とされていたこと、その反面、領国内に横行する種々雑多、粗悪な秤が、商取引の円滑な交流を妨げることを憂え、長男義信の長子(信義)を吉川守隨家へ養子に下し、秤の製造専売権を与え(秤座の誕生)、規格の統一と品質の均一、向上を図り、黄金掛引秤を製造せしめたことにはじまります。
 天正十年(西暦1582年)勝頼亡びて、家康公甲府に入った折、吉川守隨家を呼び秤座の家職を特許しました。
 その翌年家康公、江戸に幕府を開くや直ちに江戸に出府し、家康公より御朱印を允可され、金座、銀座とならんで守隨秤座を創業いたしました。
 甲斐国内で使われていた秤を、家康が領国の公定秤と認定し各地の秤量を統一した。製造・販売者の守隨義信は信玄の孫で、前年の武田家滅亡後、家康の庇護を得た。
 長さや重さなどの「単位」の安定は人々の生活や経済活動に欠かせないものでした。徳川幕府も社会の安定のため、単位の統一と計量器具の統制を図ります。当時、重さを量る道具には桿秤と天秤があり、幕府は桿秤における秤座の特権を江戸の守随家と京都の神家に与えました。これにより両家は製造・販売・修理を独占し、秤の検査として秤改を実施しました。
 秤座は、戦国大名が領内の衡制統一のため設置したものもあるが、江戸幕府の秤座がよく知られる。江戸幕府は守随(しゆずい)家の江戸秤座(東33ヵ国)、神(じん)家の京秤座(西35ヵ国)を置いて,両家に秤の製作,販売,補修の特権を与えた。守随家は1874年の段階で東日本一帯41ヵ所・・・設立順に、甲府、名古屋、津、高田、敦賀、会津、柏崎、大津、駿河府中、丹波亀山、高崎、彦根、秋田、金沢、川越、長岡、下野佐野、遠江中泉、信濃下越、松本、善光寺、富山、宇都宮、三河泉村、八王子、新潟、三河吉田、磐城瀬之上、米沢、加茂、出羽庄内、福井、津軽、上野原、松代、上田、仙台、箱館、相模横山宿、木更津、松坂・・・に出張所を置き、その管掌者を名代(みようだい)役と呼んだ。河瀬源右衛門は守随(しゆずい)家江戸秤座の名代ということなのであろう。