大川地区では崩野や楢尾や大間で仕事をしたので湯ノ島温泉や玄国茶屋はよく利用した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/dd/bf924933762e6facc9483b77bbc5e4c6.jpg)
【湯島玄国和尚伝説】
県道大川村地内湯島橋のバス停留所付近からの四十度の急坂を登る高台に曹洞宗に属する「湯峯山宝積寺」がある。この寺は、昔は日向にある陽明寺の末寺として上湯島の宮ノ段の飯綱神社左隣に建立しあるも、ある年寺の裏山が崩壊して土砂に埋まったので現在の寺の屋敷に再建したと伝う。湯峯山の名号は最初の上湯島付近が温泉多量に湧出した処から湯峯山と称したという。同寺は明治初年頃までは住職が住んでいて、法事を営みしも現今は無住寺となり、戦後改築して公民館として現在に至る。この公民館より右方百メートルの山腹に建てたるお堂が玄国和尚を祀れる玄国堂で毎年春の彼岸の中日に例祭を執行し、彼岸の行事として遠近の参詣の人々で賑う。
従前は玄国和尚の命日旧暦二月二十七日に行われ、その後に変更せられて旧暦二月十日なりしを最近彼岸の中日春分の日となった。
玄国和尚さんは、今から二百年前に甲斐国八代郡大島の生れ(現在の南巨摩郡身延町大島)。幼少にして仏門に入りしが長じて後ち大川村に来たりて日向陽明寺の住職となる。学徳共に高く大いに檀家の景仰する処たるも晩年職を後嗣に譲り、静かに老を湯島の宝積寺に養ひしが玄国和尚はいつの頃からか瘡腫にかかり、日夜病魔に悩まされ闘病生活幾年月の永きにわたりたるも治療方法のない昔、漢方薬草の投薬や禁厭、または祈祷によって根治すべし全精魂を傾注したるが肉体の力や薬物及び霊の術は人界のものだから祈祷禁厭または呪詛の類が迷信だして一切を断定したと伝う。
玄国和尚は自ら悟りし村人を頼んで生き埋めにしてもらうことを決意した。人々も和尚さんの酷い姿を見るに忍びず、嘆願について相談すること句日「人命」小田原会議に終始したのでまとまらないが和尚さんを苦しみから救うためならと相談が一沢し、和尚の申し出の通り生き埋めにした。
玄国和尚は村人と最後の別れを告げて墓穴に入る時に村人から渡された若干のお菓子をおし頂いて仏具を片手に持ちたという。
不治の病にかかり不遇の和尚さんも埋められた墓の中から念仏の声が一週間続いて聞こえたと言い伝えられている。
時に安永四年末二月二十七日行年八十二才。(安永四年は一七七五年。)
玄国和尚入寂後既に二百年に及び村人が病気治癒の祈願をなし、應病成就すると。就中皮膚病、乳幼児湿疹、膿皮症、痤瘡に霊験あらたかく、今尚霊前に香華の絶えたることなく以てその学徳の如何に崇高であったかを窺われる。
玄国堂は最初は墓所の下に建立したが腐朽甚だしくかつまた狭隘のため宝積寺境内に移したるも現存する金毘羅権現の神社と並ぶので再び移転して今ある屋敷に建立し現在に至る。祠堂には土地の人の敬いで一体の尊像、高さ五十センチの座像を安置す。これ座像は名古屋市の某仏具店で謹作したもので、最近塗替補修を施したが近郷にはない彫刻とも云う。では目下二百年の遠忌の祭典の計画中ある。祈願成就のお礼参りのおはたしは菓子類の供物、おふきん、えま等が供えてある。
戦前までの村人の病気平癒祈願の例を挙げると、先ず病人の隣り近所の人達が集りて相談して玄国堂に会合して霊前に車座を作りて誓願を各個人個人が唱え祈祷する。その経文眞言宗の和諧文で例示すると
おんあぶきゃぴ、るじやのわかもだら、まにはんどま、じんぼら、はらはりたやおん。
の唱えごとを繰り返す。その際の時間は約一時間、戦前中市販されて居った線香約五センチのもの二本程度でその線香の絶える時間継続して唱和するもその途中に線香の煙が中絶すると願事が不成就といい伝う。
眞言宗派の和讃文の唱え事が湯島の人々に充許されたのは年代不詳なるも、昔安倍郡玉川村桂山の某寺に大持会を開いた時に許されてから玄国和尚への集団祈願の例としたという。個人参拝は従前の方の方式が行っている。
本堂改築に際して従前からの堂の建築古材を村人が譲り受け物置小屋にして使用したるに、霊験の具現によるものか穀物貯蔵中「ネズミ」その他の侵害なし。永年保存するも味の変質もなく収穫期と同様で戸締一切無用であったと伝う。『大川の風土記』(小沢慶一.1966)より転載。
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【湯島玄国和尚伝説】
県道大川村地内湯島橋のバス停留所付近からの四十度の急坂を登る高台に曹洞宗に属する「湯峯山宝積寺」がある。この寺は、昔は日向にある陽明寺の末寺として上湯島の宮ノ段の飯綱神社左隣に建立しあるも、ある年寺の裏山が崩壊して土砂に埋まったので現在の寺の屋敷に再建したと伝う。湯峯山の名号は最初の上湯島付近が温泉多量に湧出した処から湯峯山と称したという。同寺は明治初年頃までは住職が住んでいて、法事を営みしも現今は無住寺となり、戦後改築して公民館として現在に至る。この公民館より右方百メートルの山腹に建てたるお堂が玄国和尚を祀れる玄国堂で毎年春の彼岸の中日に例祭を執行し、彼岸の行事として遠近の参詣の人々で賑う。
従前は玄国和尚の命日旧暦二月二十七日に行われ、その後に変更せられて旧暦二月十日なりしを最近彼岸の中日春分の日となった。
玄国和尚さんは、今から二百年前に甲斐国八代郡大島の生れ(現在の南巨摩郡身延町大島)。幼少にして仏門に入りしが長じて後ち大川村に来たりて日向陽明寺の住職となる。学徳共に高く大いに檀家の景仰する処たるも晩年職を後嗣に譲り、静かに老を湯島の宝積寺に養ひしが玄国和尚はいつの頃からか瘡腫にかかり、日夜病魔に悩まされ闘病生活幾年月の永きにわたりたるも治療方法のない昔、漢方薬草の投薬や禁厭、または祈祷によって根治すべし全精魂を傾注したるが肉体の力や薬物及び霊の術は人界のものだから祈祷禁厭または呪詛の類が迷信だして一切を断定したと伝う。
玄国和尚は自ら悟りし村人を頼んで生き埋めにしてもらうことを決意した。人々も和尚さんの酷い姿を見るに忍びず、嘆願について相談すること句日「人命」小田原会議に終始したのでまとまらないが和尚さんを苦しみから救うためならと相談が一沢し、和尚の申し出の通り生き埋めにした。
玄国和尚は村人と最後の別れを告げて墓穴に入る時に村人から渡された若干のお菓子をおし頂いて仏具を片手に持ちたという。
不治の病にかかり不遇の和尚さんも埋められた墓の中から念仏の声が一週間続いて聞こえたと言い伝えられている。
時に安永四年末二月二十七日行年八十二才。(安永四年は一七七五年。)
玄国和尚入寂後既に二百年に及び村人が病気治癒の祈願をなし、應病成就すると。就中皮膚病、乳幼児湿疹、膿皮症、痤瘡に霊験あらたかく、今尚霊前に香華の絶えたることなく以てその学徳の如何に崇高であったかを窺われる。
玄国堂は最初は墓所の下に建立したが腐朽甚だしくかつまた狭隘のため宝積寺境内に移したるも現存する金毘羅権現の神社と並ぶので再び移転して今ある屋敷に建立し現在に至る。祠堂には土地の人の敬いで一体の尊像、高さ五十センチの座像を安置す。これ座像は名古屋市の某仏具店で謹作したもので、最近塗替補修を施したが近郷にはない彫刻とも云う。では目下二百年の遠忌の祭典の計画中ある。祈願成就のお礼参りのおはたしは菓子類の供物、おふきん、えま等が供えてある。
戦前までの村人の病気平癒祈願の例を挙げると、先ず病人の隣り近所の人達が集りて相談して玄国堂に会合して霊前に車座を作りて誓願を各個人個人が唱え祈祷する。その経文眞言宗の和諧文で例示すると
おんあぶきゃぴ、るじやのわかもだら、まにはんどま、じんぼら、はらはりたやおん。
の唱えごとを繰り返す。その際の時間は約一時間、戦前中市販されて居った線香約五センチのもの二本程度でその線香の絶える時間継続して唱和するもその途中に線香の煙が中絶すると願事が不成就といい伝う。
眞言宗派の和讃文の唱え事が湯島の人々に充許されたのは年代不詳なるも、昔安倍郡玉川村桂山の某寺に大持会を開いた時に許されてから玄国和尚への集団祈願の例としたという。個人参拝は従前の方の方式が行っている。
本堂改築に際して従前からの堂の建築古材を村人が譲り受け物置小屋にして使用したるに、霊験の具現によるものか穀物貯蔵中「ネズミ」その他の侵害なし。永年保存するも味の変質もなく収穫期と同様で戸締一切無用であったと伝う。『大川の風土記』(小沢慶一.1966)より転載。