日々是好舌

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弥次喜多の作家は駿府生まれです

2021年03月06日 14時46分49秒 | 日記
十返舎 一九(じっぺんしゃいっく)明和2年(1765年) ~ 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。

駿河国府中(駿府:現在の静岡市葵区)で町奉行の同心の子として生まれた。葵区両替町一丁目に、生誕の地の碑が建っている。本名は重田貞一(しげた さだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す。
江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大坂へ移り、大坂町奉行・小田切直年に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作した。
寛政6年(1794年)(30歳)、江戸へ戻り、通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)の版元・蔦屋重三郎方に寄食して、用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った。寛政7年(1795年)、蔦屋に勧められて黄表紙『心学時計草』ほか2部を出版し、以降は生活のため、20年以上にわたり、毎年20部前後の新作を書き続けた。一九は文才にくわえ絵心があり、文章だけでなく挿絵も自分で描き、版下も書くという、版元に便利な作者であった。狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳などに詳しく、狂歌を寛永期に修業し、それらを作品の素材にした。享和2年(1802年)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となった。当時の生活について「最近ではいつも出版元から係の人がきて、机の横で原稿ができあがるのを待ってます」と、現代にも通じる作家生活を描写している。
文政5年(1822年)までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き継ぎ、頻繁に取材旅行に出かけ、山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴、鈴木牧之らとも交わった。また並行して出した『方言修行 金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ)も広く読まれた。
辞世の句は「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら 」。
浅草の東陽院に葬られた。『心月院一九日光信士』。墓碑は、東京都中央区勝どき四丁目に移転した同院に残る。

天保3年(1832年)、遺族・門弟らによって、長命寺に建てられた記念碑が、今も残る。また、静岡市葵区研屋町(とぎやちょう)の医王山顕光院には重田一族の墓が建ち、一九の戒名が刻まれている。
名香「黄熱香」は十度焚いても香を失わないところから、「十返しの香」とも呼ばれる。後の筆名「十返舎」はここから、「一九」は幼名の市九から来ている。初めは十遍舎一九であったが、十偏舎、十偏斎、重田一九斎なども用い、享和ころから十返舎一九に定まった。
父親が元八王子千人同心の重田与八郎の次男であるため、墓石や過去帳には元八王子千人同心の子と記載されている。本文の出典はウイキペディア。写真は伊藤彰氏撮影。