日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

鬼平の先祖は焼津小川です

2020年06月07日 09時38分22秒 | 日記
 静岡県焼津市坂本の曹洞宗 高草山 林叟院(りんそういん)は、室町時代(戦国時代初期)の文明3年(1471年)に法永長者と呼ばれた小川城主・長谷川次郎左衛門尉政宣が、賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)を開山として小川(こがわ)に創建した林雙院が始まりです。開基家である長谷川家の“左三つ藤巴”が寺紋とされている。

 修験者の勧めで寺を高草山山麓の坂本に移転したため、明応7年(1498年)8月25日に発生した明応地震(めいおうじしん)の津波被害を免れました。

 境内には、市指定文化財の経蔵・鐘楼(しょうろう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)、市指定天然記念物 ホルトノキ、林叟院開基 長谷川次郎左衛門尉政宣夫妻の墓などがあります。

 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で有名な、江戸時代中期に火付盗賊改役を務めた長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)は長谷川氏の子孫です。長谷川家は藤原秀郷の流れを組む名家で戦国時代に今川家から徳川家へと主君を変えた一族でした。徳川家では三方ヶ原(元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。)以来の旗本で、家禄は石高400石だが将軍近習の御書院番組の家として続く。

 以下の記述はウイキペディアに拠る。

 長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため、延享2年(1745年 - 寛政7年5月19日(1795年6月26日))は、江戸時代中期の旗本で、火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。幼名は銕三郎、あるいは銕次郎(銕は鉄の異体字)。家督相続後は父・長谷川宣雄と同じく平蔵を通称とした。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られている。
 延享2年(1745年)、400石の旗本である長谷川宣雄の長男として生まれる。母の名は不詳で、『寛政重修諸家譜』には「某氏」と記されているが、研究家の滝川政次郎・釣洋一・西尾忠久は宣雄の領地の農民・戸村品左衛門の娘ではなかったかとしている。明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見し、長谷川家の家督相続人となる。時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。
 青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある。父の宣雄は火付盗賊改役を経て安永元年(1772年)10月に京都西町奉行の役に就き、宣以も妻子と共に京都に赴く。安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去した。宣以は父の部下の与力・同心たちに「まあ皆さんがんばってください。私は江戸で英傑といわれるようになってみせる」と豪語して江戸に戻り、同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下となった。
 父がためた金も使い果たし、遊廓へ通いつめて当時はやりの「大通」といわれた粋な服装をしていたと伝えられる宣以であるが、安永3年(1774年)、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、翌年には西の丸仮御進物番として田沼意次へ届けられたいわゆる賄賂の係となり、天明4年(1784年)、39歳で西の丸御書院番御徒頭、天明6年(1786年)、41歳で番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられ、順調に出世していった。火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)9月9日、42歳の時である。
 寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。しかしこの時、上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく宣以は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。辣腕とも言えなくはないが、当時の道徳的には認められるようなものではなく、またこのような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるようなものであり、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。定信は自伝『宇下人言』において敢えて名を呼ばず「長谷川某」とまで記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。また前述のように清廉潔白というわけでもなかったので、『よしの冊子』(定信の元に集まってきた隠密情報を整理した文書)によると「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという。
寛政元年(1789年)4月、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる。また、寛政3年5月3日(1791年6月4日)には、江戸市中で強盗および婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、斬首した。逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑している。
非常に有能だが、幕閣(特に前述の松平定信)や同僚(同じ火附盗賊改役の松平定寅・森山孝盛ら)からはあまり信頼されていなかったようで、出世はままならなかった。しかし的確で人情味溢れる仕事振りに、庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。宣以も出世できないことを愚痴っていることもあったが、「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという。
 寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去した。死の直前、11代将軍・家斉からねんごろな労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」を下賜されている。東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。戒名は「海雲院殿光遠日耀居士(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)」。長谷川家の家督は嫡子宣義が継いだ。次男・正以は長谷川正満の養子となった。
なお、長谷川宣以の住居跡には、数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えた。
閑話休題。
 平蔵の剣の師匠は一刀流の剣客で高杉銀平といい、十九歳の平蔵が入門したころすでに五十をこえていたが、この人が亡くなったことを平蔵は京都で耳にしている。同門の剣友・岸井左馬之助が知らせてくれたからだ。
 当時、本所の出村町に道場を構えていた一刀流の剣客・高杉銀平は、下総の佐倉の出身で、長谷川平蔵にいわせると、「高杉先生は、江戸も外れの出村町へ、百姓屋を造り直した藁屋根の道場を構え、名も売らず、腕を誇らず、自然にあつまって来たおれたちのような数少ない門人を相手に、ひっそりと暮しておられたが・・・・・名流がひしめく大江戸の中でも、おれは屈指の名人であったと、いまもおもうている」とのことだ。平蔵の愛刀は「粟田口国綱」「井上真改」、脇差に「備前兼光」。師匠高杉銀平から餞別として近江守久道作・一尺七寸四分の脇差をもおくられた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿