京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

スムシがいないと地球はミツバチの巣盤で溢れる!

2024年10月16日 | ミニ里山記録

 

 スムシはミツバチに付き物の寄生者である。種類としてはハチノススズリガ(Galleria mellonella)やウスグロツヅリガ(Achroia innotata)などがいる。

ホンミツバチの巣が突然、オオスズメバチの群れに襲われて逃去した。重箱式巣箱の上段3個は蜂蜜が詰まっていたので、これを収穫し、下段2個をスムシの分解実験に使った。そこには幼虫や花粉の入った巣盤が詰まり、巣の底には、うろうろする小さなスムシの幼虫が2-3匹いる状態だった(写真 1)。

(写真1.)

 

3週間ほどたって、どうなっているか見てみると、巣盤のほとんどが解体されており真ん中は抜けていた(写真2.)

(写真2)

 

 

さらに1週間後には、中の巣盤はほぼ完全に分解されて、巣の底に黒い細かな糞が大量に溜まっているのが観察された(写真3)。おそるべき消化分解力といえる。雑食性で木材やプラスチックなども分解するらしい。庵主はスムシが発泡スチロールをボロボロにしているのをみたことがある。

(写真3)

 

肝心のスムシはどこにいっかたというと、上に重ねておいた最上段の重箱の天井に何十頭も繭を作りそこに入りこんでいる(写真4)。蟻を防御するためか頑強な繭で、ペンチで引きはがすのに苦労する。こんな数のスムシがいままでどこに隠れていたのだろ?

(写真4)

ミツバチの巣盤はワックス(炭化水素)だから、カビや微生物では分解は困難で、スムシの迅速・完全な消化がなかったら、おそらく野山の営巣場所では使いものにならない古巣がいつまでも残っているだろう。おまけにスムシの幼虫は木材に朽ちこみをいれるので、巣穴の拡大にもなる。

 スムシは養蜂の嫌われ者のように扱われているが、生態系の重要なリサイクラーなのだ。そもそも、スムシがわくからミツバチが逃げるのではなく、なんらかの理由でコロニーが弱体化するのでスムシが繁殖するのである。それまではおとなしい掃除屋として、隅のほうで共生しているのだ。ミツバチ弱体化の原因を取り除かなければ、これを排除しても解決にはならない。スムシはミツバチの有益な共生者である。

 

 

 

 

 

 

 

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ルネ・デュボスの健康思想: 幸福な健康とは?

2024年10月14日 | 環境と健康

   

 ルネ・デュボス(René Jules Dubos、1901-1982)はフランスのサン・ブリス・スー・フォレ生まれ。1921年にパリ国立農学研究所を卒業し、当初は科学ジャーナリストとして働いた。1924年に渡米し、1927年にラトガース大学からPh.Dを取得した。その後はロックフェラー研究所に所属し、1957年に教授となり1971年に退職した。主として微生物学を研究。環境生理学関係の多くの啓蒙書を著す。ここでデュボスの名著「健康という幻想」(Mirage of Health)の読解を行う。現代における人類の健康と幸福を考える上できわめて重要な書の一つである。デュボスは病気の原因は主因(病原菌)と人の生理状態を規定する遺伝子要因と環境要因の二つが重要なことを主張している。主因の科学的研究は格段に進歩したが、背景の環境作用についてはあまりわかっていない。

(1)健康とは環境により規定される相対的な状態である。

 古代人類が地球で活躍していたころ、まず大自然があり、その円環の中に人類社会の小さな円環が包摂されていた。自然の円環はある周期で回転し、それにカップルして社会も人も連動して活動しいてた。ギリシャや中国の哲学者は、古代においては「人々は愉快に飲み食いし、好きに働き好きに飲み食いし、病気で苦しむこともなく、いつか眠るがごとく大往生をとげていた」という黄金伝説を考えた。ジャンジャック・ルソーも自然に反する生活や社会が人を不幸にしていると考え「自然に帰れ」と唱えた。

 しかし、デュボスはそんな神話はなかったと言う。現生の原始未開民と同様に、ドップリと自然にひたって暮らしていたが、彼らは様々な苦難を体験していた。避妊や堕胎の知識はなかったので、多くのケースで人減らしのための間引きがおこった。誕生がすなわち死を意味する過酷な時代であった。その第一関門を潜り抜けてきても、文明社会ではかからないような皮膚病、寄生虫、土着病(マラリアなど)に苦しみ、ケガによる破傷風、毒虫と蛇などの害や捕食者のリスクに日常的にさらされていた。現代の感覚や考え方では、「古代=自然=幸福」とはとてもいえな状態であった。ただ、赤ん坊や幼児期における最初の「間引き」で生き延びた人々は、その環境に遺伝的適応をしていたので、文明人が辟易するマラリアなどの疾病に耐性をもって延びることができた。人間(生物)の健康は、それぞれの環境への適応によって違った仕方で維持されているのである。平均寿命は短かかったが、その生涯は自然との「交流と戦い」という波乱にみちたもので、ビルの谷間でなんとなく年老い死んでゆく現代人よりも充実したものであったかもしれない。「古代=未開=みじめ」とは言えなかったのである。

 デュボスはタンネスの書いたの次のような記事を引用している。

 「エスキモーは太陽の下にある、一番貧乏で野蛮な国民の一つだが、彼らは自らとても幸福で世界で最高に恵まれた人間だと信じている。かれらは他の人たちには耐えられないような不断の悩みや苦しみを、ちっとも気にしてない。かれらの生活の大部分は衣食に関する絶対的必要物の獲得に費やされたがたいしてめんどうと思っていない」

 未開人が文明社会に投げ込まれたり、反対に文明人が熱帯や極地で生活すると、急性あるいは慢性の病気にとりつかれる例が、たくさん紹介されている。ルソーの「自然への回帰」の掛け声は、ある意味自己撞着の思想で、人間を本性にひきもどす自然などはなかった。

 

(2) 病原菌は必要条件で発病には十分条件が必要である

 19世紀の終わりまで、病気の原因は人とその環境の間の調和が欠ける為と考えられていた。古代ギリシャのヒポクラテスによると四つの体液間のバランスの崩れが病気をおこすと唱えた。中国では陰と陽の組み合わせがその原因であるとした。しかし近代になって、ルイ・パスツールローベルト・コッホおよびその後継者達は、唯一特別な微生物によって病気が生ずるとした。この特異的病因論が、その後の医学の理論的支柱となり治療の実践の要諦となった。

 ところが病原体を摂取したり、感染しても発病しない例がたくさん見つかった。1900年ごろドイツのベツテンコーファーやフランスのメチニコフはコレラ菌をたっぷり飲んだが、発症しなかった。コレラ菌がまず腸管に定着し、発症するために幾つかの条件が必要と思われる。感染症の発病には、まず必要条件としてウィルスや細菌のような微生物が要求され、さらにそれが体で増殖、発病するための十分条件が整わなければならない。必要条件の研究はやりやすいので進んでいるが、十分条件の生理的研究はあまり進んでいない。たとえばCovid-19についても原因ウィルスのSARS-Cov-2の分析はさかんになされているが、発症のメカニズムはよくわかっていない。ウィルス感染者の8割が無自覚ないし軽症なのに、2割が重症になる理由は体質的なものか患者の内部環境の問題かは、大いなる研究課題である。

(3) 医学の進歩が疾病を減らしたのではなく公衆衛生学が環境を改善したからだ。

産業革命以来、都市の悲惨な生活は結核、麻疹、天然痘、コレラなどを蔓延させた。このような文明病を抑えたのは、医学の進歩ではなく公衆衛生学であった(「スノーの井戸ポンプ」)。血清、ワクチン、抗生物質は2次的なもので、これらが発明される以前に、これらの病気は撲滅とは言えぬまでも、かなり減っていた。医学が病を撃退したというのは、潮が海辺から引き始めているときに、バケツで水をくみだして大洋を空にしていると主張するようなものである。

(4)健康のプロセスは二つの生態的(複雑系)システムの相互作用で成り立っている。

二つの生態システムとは内部環境と外部環境の事である。内部環境は個体における細胞、体液さらに組織というお互いが平衡メカニズムをもった複雑な網状構造を通じて相互に関係しあっている。一方、外部環境も予測出来ない複雑なもんで、物理化学的なものだけでなく、社会的、生物的な要因も含んでいる。これ自体が相互作用をもち、その一つの波乱が一方に多大な影響を及ぼす。

(5) ある地域に特異的な病気には、それを治す自然の仕組みがどこかにある。

エドワード・ストーンはこのような哲学から、柳の外皮のエキスに含まれるサリチル酸が低湿地の住民のリュウマチに効くことを発見した。これのアセチル化合物がアスピリンである。

 

参考図書

ルネ・デュボス 『健康という幻想-医学の生物的変化』田多井吉之介訳、紀伊国屋書店1983

 

追記(2024/11/31)

アンドレ・ゴルツ「エコロジスト宣言」(高橋武智訳1980)でも同様に、結核なのど疾病が近代において減少したのは医療のおかげでなくむしろ生活習慣や衛生環境の改善によるとしている。

 

 

 

 

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悪口の解剖学 : Nature誌なんかぶっ壊せ!

2024年10月11日 | 悪口学

 DNAの増幅法であるPCR (polymerase chain reaction)の発明者でノーベル化学賞受賞者 (1993)であるキャリー・マリス博士(Kary Banks Mullis 1944-2019)の伝記「マリス博士の奇想天外な人生」(福岡伸一訳、早川書房2000)はとても面白い。マリスはアメリカの生んだ型にはまらない破格の科学者で、その破格ぶりはこの書にいかんなく披露されている。

 

       

  (1993年キャリー・マリスノーベル化学賞受賞)

 マリスは1966年に「時間逆転の宇宙論的な意味」というタイトルの論文をNature誌に投稿した。当時、彼はカリフォルニア大学バークレー校の生化学専攻の無名な大学院生にすぎなかった。天文学や宇宙論の専門でもなく、ひやかしのつもりで投稿した論文がNatureに採択されるなどとは、まったく期待していなかった。しかし、驚くべき事にそれは掲載と判断され堂々とNatureの数ページを飾ったのである。世界中から、その論文別刷りの請求が届き、通信社は「奇想天外なSF小説に聞こえるかもしれないが、マリス博士の鋭い洞察によれば宇宙に存在する物質の半分は時間に逆行しているという」と報じた。まだ大学院生だったマリスは面食らって科学の世界はどこか狂っていると感じたそうだ。

 後にPCR法を開発したマリスは、このときも意気揚々と原稿をNatureに投稿した。この本によると方法はデートの最中に思いついたそうである。革命的な発明とおもえたので(実際そうだったが)、この論文はすっきり採択されると思い込んでいたのである。しかし、Nature編集部の返事はなんとreject(掲載拒否)であった。彼は仕方なくScience誌に再投稿したが、ここでも掲載拒否。ごていねいな事に、「貴殿の論文はわれわれの読者の要求水準に達しないので別のもう少し審査基準のあまい雑誌に投稿されたし」という嫌みな手紙がそえられていた。結局、それは「酵素学方法論」というあまり名の知られない雑誌に掲載されたが、それが1993年のノーベル賞の受賞論文となったのである。マリスは金輪際、これらのNatureやScienceに好意をもつことはしないと誓ったそうである。

  Nature誌やScience誌に研究論文や記事が掲載されたりすると、日本では赤飯を炊いてお祝いすると言う。それほど、これらはインパクトの高い権威ある雑誌として認定されている。新聞記者も掲載後、いそいそと著者のところに記事をとりにくる。「Natureなんて、昔はデモシカ雑誌だったよ」という年寄りの先生がいたので、1950年以前はたいした雑誌ではなかったようだ。ところが1953年にワトソンとクリックによるDNA二重螺旋の論文が発表されたころから、急に掲載が難しくなった。ワレモワレモとうぬぼれ屋が投稿し始めて掲載率が低くなったせいもある。しかし、激しい競争と厳しい審査の眼をくぐり抜けて掲載されたはずのNature論文の信憑性に疑義が投げかけられた例は、STAP細胞のみならず枚挙にいとまがない。売れる雑誌をモットーにする商業主義が、大事な基礎研究を無視し見てくれのインチキ研究をたくさん拾うといった構造を生んでいるようだ。

 

追記(2024/10/11)

 マリス博士はHIVはAIDSの原因ではなく、結果であるという説を持ったいたので、医学界でのあらゆる講演が拒否された。彼は免疫不全は不健康で不自然な生活が引きおこすものであると主張した。これは間違っていたが、「人のいうことを鵜呑みにしない」を人生の主義にしていた博士らしいエピソードである。多分、彼の言うことは半分ぐらいは真実で半分はとんでもない間違いのようである。毒蜘に刺されて皮膚が化膿しペニシリンの助けをうけるまでのエピソードは、マリスの「とんでもない」の側面を物語っている。また思念をこらすと身体の電気抵抗が変わるので、電気スイッチになるという挿話はほんとうなんだろうか?

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悪口の解剖学 IV フランシス・クリック、おまえもか!

2024年10月07日 | 悪口学

  

 

 遺伝子DNAの二重螺旋構造を解明したジェームズ・ワトソン(1928年 - )とフランシス・クリック (1916年- 2004年)は、「ワトソン・クリック」としてまとめて称せらえるが(一人の科学者だと誤解している人もいる)、アインシュタインとともに20世紀のもっとも著名な科学者である。ワトソンはノーベル賞受賞後、教科書を書いたり、アカデミーのマネジメントに力を注いだ。しかし、Wikipediaの記事を読むと、晩年になって人種差別発言を繰り返すなど、とんでもないジイサンになってしまったようだ(当年96才)。ノーベル賞受賞後に『二重螺旋』という本を書いた若い頃から、すでに「データー泥棒」とか「セクハラ野郎」とか批判されていた。一方、クリックの方は、意識(脳)の問題に取り組んで比較的まじめに研究を続けていた。マット・リドレーの著「フランシス•クリック:遺伝子暗号を発見した男」(勁草書房)では、クリックも個性の強い人物に描かれていが、ワトソンのような「露悪家」のようではない。庵主も、やはりイギリス紳士はヤンキーとはだいぶ違うと思っていた。

 ところが最近、ドナルド・R・キルシュとオギ・オーガス(この人はライター)が書いた 『新薬の狩人ー成功率0.1%の探求』を読んで、クリックに関してとんでもない悪口が書かれているのを読んで仰天した。以下、その部分を転記する。

 『私(キルシュ)はニューヨーク州ロングアイランドで聞かれた、とある一流の生物学学会に出席したときの出来事を思い出す。その学会はDNAにほぽ的を絞ったもので、ある若い博士研究員が、きわめて長い人間のDNA鎖(長さは三メートルあまりに及ぶが、幅はわずかニナノメートル)が、どのようにして極微の細胞核の狭い空間に詰めこまれるのかについて発表した。その若者は、自信なさげで発表はしどろもどろだったが、今日では彼が得た知見は基本的に正しかったことがわかっている。ポスドクが発表していると、突然、フランシス・クリックが演壇の前に歩いていった。クリックはDNAの構造を発見した研究者の1人で、世界でも特に名高い生物学者だ。クリックは演壇の真ん前に立って、その若者と向き合った。二人の鼻先はわずか三〇センチほどにまで近づいた。ポスドクは、この科学界の伝説的人物の異様な出方に落ち着きをなくしていったが、急いでなんとか話の最後までこぎつけた。発表が終わるやいなや、クリックが大声で言葉を発した。

  「きみの話は本当に終わりましたかね?」

 若者はうなずいた。クリックはゆっくりと聴衆のほうに顔を向け、こういい放った。

  「みなさんはどうなのかわかりませんが、これはまったくアマチュアの話であり、私はこの会議でこれ以上我慢したくありません」。

想像するに、センメルヴェイスも、あの向上心に燃えた若い生物学者と同じような屈辱を昧わったにちがいない』(以上)

  イグナーツ・センメルヴェイスはハンガリーの医師で産褥熱の原因が、分娩中の細菌感染であるという仮説を主張した人である。センメルヴェイスは誰からも相手にされず、最後は精神病院に入れられて亡くなった。19世紀末の話である。キルシュは現代においても、学会の権威者というものが、いかに新規の学説に対して保守的であるかを示すエピソードとして、クリックを登場させたのである。否定は弁証法の魂といわれるので、学説に反論したり否定すること自体は問題ではないが、その非人間的で強圧的な態度である。庵主が学生の頃、分子生物学の勃興期には、ワトソンとクリックは燦然と輝ける星のようであった。年老いるということはまことに悲しいことではある。

参考図書

ドナルド・R・キルシュ、オギ・オーガス 『新薬の狩人ー成功率0.1%の探求』(寺町朋子訳)2018 早川書房 

 

追記 

 ワトソンの「二重らせん」(1968)を読み返してみると、クリックはもともと思慮深いイギリス紳士ではなく、真逆の人間だったことが書かれている。この本の書き出しが「フランシス・クリックがおとなしそうに控えていたことはない」で始まることから、その事はわかる。ブラック卿とヘモグロビン分子の構造をめぐるアイデアの優先権で争った下り(完全にクリックの失態)などから分かるように、「壊れた蓄音機」と当時から呼ばれていた。老化が上のようなハラスメントを引き起こしたのではないのだ。

 

 

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悪口の解剖学:酒飲みが歴史を変える?

2024年10月03日 | 悪口学

酔っぱらいが変えた世界史:アレクサンドロス大王からエリツィンまで ( 2021) 原書房

ブノワ・フランクバルム (著), 神田 順子 , 村上 尚子, 田辺 希久子 (訳)

 

  この著は人類の飲酒が歴史ではたした役割を軽妙な語り口で述べている。これを読むと西洋史に登場する重要な人物(男)のほとんどはアル中のように思えてくる。たとえば、第4章に書かれているアレキサンドロス大王も酒乱の人で、宴会において酔った勢いで口論のあげく大事な部下のクレイトス(この男も結構な酒乱だったが)を槍で突き殺してしまう。酔いが醒めて、えらい事をしたとオロオロしても後悔後に立たず。

 

 過度のアルコール摂取は体に良くないし、精神にも障害を与える事が多い。抑制が解けて言わないでも良いことを口走り、人間関係が大抵、悪くなる。酒は「気違い水」といわれるいわれる故である。作家アーサー・ケストラーの自伝「The invisible writing」にも、親友であったピーター・チャールズ・ミッシェル卿と酒の上で決定的な仲違いをした事件が次にように書かれている。

 私たちはかなり景気がついていた。突然、ピーター卿が「あの小説(真昼の暗黒)は好きになれないよ。たった30枚の銀貨でわが身を売るとは、君も情けない男だね」私は、最初、彼が冗談を言っているものと思った。だが、それは冗談ではなかった。ワインが彼に私について思っている事を言わせたのである。私たちはガタガタと音を立てる地下鉄の中でかなり大声を出して言い合った。「よそうよ。そうでないと僕たちはもう会えなくなってしまう」 だが彼は止めようとしなかった。結局、私は途中で地下鉄を降りた。それがピーター卿の見納めとなった。

 しかし、たまには飲酒が人間関係で生産的な事もおこすという。その例として、第13章「マルクス主義は10日間続いた酒盛りの結実だ」がある。1844年にマルクスとエンゲルスははじめて知り合ったが、パリでのビールの酒盛りで意気投合し生涯の友情を得た。この出会いの10日の酒盛り議論をもとに書き上げたのが有名な「聖家族」である。もっとも、この頃はマルクスもエンゲルスも、根っからのアルコール漬けの生活で、エンゲルスは売春婦を相手にしていたという。そのような証拠を示す手紙が残っている。この本の著者は、もともとマルクス主義なんか認めてないので、結局は二人の淫蕩な生活を暴露する悪口を書きたかったようだ。

 ここからは庵主の試論。人はアルコール(エタノール)を代謝するのにALDHという酵素を必要としている。これにはI型とII型がある。II型は活性が強くI型は弱い。遺伝的にII型をホモで持つ人は酒につよい。ヘテロの人やI型のホモの人は弱いか全然飲めない。とくにI型ホモの人はちょっと飲むだけで気分が悪くなる。ようするに、この遺伝子型の人々は飲んでも楽しくはならない集団である。日本人や中国人などのモンゴロイド系ではII型ホモの人は56%でI型ホモは5%である。残り39%がI型とII型のヘテロタイプである。一方、白人や黒人は、ほぼ100%がII型ホモで、どいつもこいつも酒に強い。フランス人なんかは、子供でも水がわりワインを飲んでいる。

 ようするに、「なんでそんな酒ばかり飲んで」と批判したり馬鹿にする抑止力集団が社会に存在しないので、とことん飲んでしまうことになる。なにせ、庵主を含めてII型ホモにとって酒は飲んでるときは無闇に楽しい。ここでは酒に強いことが一元的な価値基準なのだ。スターリンの宴会パーティーの話(18章)のように、酒豪が政治的勝者になるケースが多い。

 遺伝学者のマシュー・キャリガンによると約1000年前に人類の祖先が、II型酵素(変異型)を手に入れたそうである。サルの仲間には自然発酵した果実を好むものがいる。日本ではII型ホモのアルコール耐性群(A群)とI型ホモ、ヘテロの不耐性型(B群)がほぼ半々まざっているので、話が複雑になる。AとBの会食ではだいたいBの方が寡黙になってAの人々だけが乗りまくって話をしている。これが男女の婚姻や親子関係、会社や組織の人事構成に影響なしとはいえないのではないか。夫がA型で妻がB型の場合(A=B型)の離婚率はA=A型やB=B型より高いのではないだろうか?

 

  カール・ジンマーの著わした「進化:生命のたどった道」(2012 岩波新書 長谷川真理子訳)によると、アルコールの選好選択によってショウジョウバエを、そうでないものとわけて累代にわたり遺伝的にわけていくと、アルコール好きの系統ができる。これは、そうでない集団と生殖隔離がおこるらしい(P215)。はたして人間社会ではどうなっているのか?酒好きどうし、酒嫌いどうしが結婚する傾向があるのか?その子孫への影響は?

 こういった事を述べた酒飲みの社会学とかいう本はありませんか。

 

参考図書

アーサー・ケストラー「真昼の暗黒」中島賢二訳 岩波文庫



 

 

 

 

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絶望的状況を生き延びた人々の記録:抵抗 La résistanceー風は自ら望むところに吹く

2024年10月03日 | 絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録
 
1956年フランス映画:ロベール・ブレッソン(Robert Bresson、1901- 1999)監督、脚本。1957年カンヌ国際映画祭監督賞受賞作品。
 

 
 
 1943年リヨン。第二次大戦中、実際にフランスであったレジスタンス闘士の脱獄劇をドキュメント風に描いている。映画は白黒画で観るべしと思わしめる佳作の一つである。
 
 素人を俳優にしてモノログで淡々と話が展開してゆく。独房の壁越しに主人公が隣の囚人とモールス信号で連絡することや、窓越しに下の中庭の仲間を観察する光景はアーサー・ケストラー著「真昼の暗黒」 (1944年)に出てくる挿話でもある。私服の男と大男の軍人が囚人の尋問や連行に登場する場面も同じ。全体主義の特務機関は同じシステムのようだ。この映画ではクローズアップを多用し、短いカットをつなぎあわせることで死と隣り合わせの緊張感を描く。巨匠ブレッソンの「シネマトグラフ」を代表する作品である。 
 
 ただ不自然なシーンもいくつかある。ろくに食い物も与えられず栄養失調でヘロヘロの主人公が、素手でドイツ軍の歩哨を殺して脱走する。この場面では主人公が画面から消えさった通路の壁を映すだけで映像は出て来ない。スタローンのランボーでもあるまいし、これはいくらなんでも無理だろう。それと、独房の下の広場にいる別の囚人と、窓越しに結わえた袋で物を交換する場面。厳しい監視のもとで、とてもありえない話だ。
 
 脱出に成功した主人公と同房の少年の二人は鉄道の線路沿いに、悠々と歩み去るが、あんな格好ですぐに捕まらなかったのは、仲間のレジスタンスと連絡がついていたのだろうか?主人公が何度もつぶやくように「運がついていた」ということであろうが、ともかく大事なことは、殺される前に逃げよ!ということ。逃げても失敗するかもしれないが、逃げなければ100%殺される。どの人も人生では一度はそれに類した切所はある。
 
 追記:ケストラーの「真昼の暗黒」は「ブハーリン裁判」をモデルにした政治小説である。庵主はむかしこの作者の「サンバガエルの謎」という科学ドキュメントを読んだことがある。ケストラーは「権力は必ず腐敗する」という原理をテーゼにしていた(石破茂が総理になった途端に「石破」でなくなったように)。彼はヒトラーやスターリンの全体主義を憎悪するとともに、ブルジョワ民主主義の堕落をも透視し、庶民や一般大衆を美化するのを止めていた。
 
 
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東繁彦著「全訳:家蜂蓄養記ー古典に学ぶ二ホンミツバチ養蜂」

2024年09月29日 | 評論

(農文協:2023)

 久世松菴の「家蜂蓄養記」についての解説を中心に和蜂に関する著者の蘊蓄を披露したものである。

 著者の東繁彦氏は1974年生。一橋大学商学部卒。ミツバチ関係の著書だけでなく、「柑橘譜」「鯨譜」「麻疹備考」などの博物学的著作がある。投資家にして養蜂家と自己紹介する不思議な人物である。この書は久世松菴(くぜしょうあん)の「家蜂蓄養記」を解説したもので、最近の文献から古典といえる書籍まで広く渉猟して、様々な考察を加えている。よくぞ、これだけ調べあげたものだと感心する。巻末には丁寧なことに索引までつけられている。

 久世松菴は江戸期元文3年(1738)生まれで、紀伊藩の医師であった。当時、多くの医師がそうであったように本草学に造詣が深かく、二ホンミツバチの飼育も行っていた。当時、蜂蜜は薬として使用されていたようである。紀伊は昔から和蜂の飼育で伝統がある地方であった。松菴は「耳之を聞けども目未だ之を見ず」という実証見聞の立場をとっていたそうだ。ただ何か画期的な発見をしたかというと、そうゆう事もない。たとえば「ミツバチには王がいる」という記述があるが、これは宋代の古典「小畜集」に記載されており、これを李時珍が「本草綱目」(明代)に引用していたので広く知られていた事実だ。歴史的にはギリシャのアリストテレスがすでにそれについて述べている。

 ただ李時珍が王蜂の色を「青蒼」としたのに、松菴は「温色」とした点が違ったりする。女王バチはどうみても青っぽくはない。巣箱のキャパを分蜂の原因としたのも、まあまあの松菴のオリジナルかもしれない。またオオスズメバチの侵入防止のために、巣穴の大きさを約6mmにせよという指示は、実際的で現場をよく知っている感じがする。彼もきっと痛い目にあったのだろう。

 

 松菴の説話は、当時はどうだったか知らないが、いまではほとんど常識で目新しものはない。むしろ東氏の注解の方に「おや?」と思える箇所がある。たとえば「喧嘩」という項目で、分蜂群が出てきた巣の群れと相互識別する過程や(p99。これの文献が抜けている)、日本の養蜂が秀吉の文禄の役のころから始まったという説である。それまでは、日本列島にはミツバチはいなかったいう大胆な主張である。そんな馬鹿なとおもうのだが、存在した確かな証拠を出せといわれると困ってしまう。それほど日本の昔の自然学記載は希薄だった。

 

 

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京都の子規と俳句

2024年08月31日 | 文化

 

 旅人の京へ入る日や初時雨

 川一つ処々の紅葉かな    

 老僧や掌に柚味噌の味噌を点ず   子規

 

 明治25年11月10日子規は京都に来て麩屋町の柊家(ひいらぎや)に泊まる。虚子が旅館を訪れると、子規が庭に降りて砧を使って何か作業している。

「何をおいでるのぞ」

昨日、高尾に行って取ってきた紅葉の色をハンカチに移しているのよ」と子規は嬉しそうに答えた。

 

(柊家旅館)

 前日、子規は人力車を雇って京都の高尾、槇尾、栂尾で紅葉狩りを行った。子規は高尾の売店で、紅葉の形を染め付けた手拭をみかけ、それをヒントにしてハンカチに染めることを思いついたようである。紅葉の色素はカロチン系のもので木綿に染めるのは無理なので、多分うまくいかなかったのではないか。「老僧や」の句はその後、天田愚庵をおとずれたときのものだ。

  ちなみに子規の泊まった柊家旅館の座敷は、その後、漱石や川端康成をはじめ多くの文豪が宿泊した歴史的な場所となり、いまでも使われている。

  同年11月14日。子規は母の八重と妹の律をともなって京都観光をおこなった。松山をひきあげて東京で家族で暮らすために、二人を迎えにきた途中の観光旅行であった。この時も3人で柊家旅館に泊まっている。

 

参考図書

  坪内稔典 「俳句で歩く京都」淡交社 (2006)

  森まゆみ 「子規の音」新潮社 (2017)

 

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朝日俳壇に入選するコツ

2024年08月28日 | 文化

 朝日俳壇は一般俳人のあこがれの新聞投句欄である。これに入選すると、赤飯を焚いてお祝いするほどのすごい事らしい。庵主は昔、何の気なしに次の一句をここに投稿したことがある。

  去年今年貫きとうす放射線  楽蜂

 ちょうど東北大震災で東電の第一原発事故がおこった頃の話だ。高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」を本歌取りした時事俳句にすぎない。これを、なんと金子兜太さんが採ってくれたのである。以来、気をよくして何十回も投句したが、まったく音沙汰がない。結局、止めてしまった。

金子兜太 (1919-2018)

  ところで2010年の雑誌「くりま」(文芸春秋増刊)5月号に次の記事が載っている。

『六千句から四十句が残るまでの過酷なサバイバルを実況中継(ルポルタージュ)朝日俳壇の入選はこうして決まる:選者◎稲畑汀子/大串 章/金子兜太/長谷川櫂』

 この記事によると、毎回とどいた約6000通のハガキから4人の選者が各自10句を選抜する。入選確率は単純計算で150分の一である。選者全員が朝日新聞の本社会議室に集まり同時に個別で作業し、午前中約3時間程で終えるようである。1分で約23枚を読み込んでいく計算になる。超人の荒業というほかない。そして最後に選んだ句の評をまとめる。これを毎週繰り返すというから、想像をこえる体力と気力の4人組である(現在は大串、長谷川、高山れお、小林貴子)。多分、それなりの報酬があるのだろうが、朝日の俳壇選者になることは、囲碁や将棋の名人戦リーグに入るのとおなじく、その実力と名声を認めれらえたことになる。

 ところで、この人たちはどのような基準で選句してるのだろうか?共通の基準があるのか、ばらばらの好きな基準でやってるのか?ここでは「選者同士で重なりあった選句の数」(平成21年の1年間)がデーターとして出てるのでそれを見てみよう。

稲畑  X 金子   0

稲畑  X   長谷川 4

金子  X 大串    4

長谷川 X  大串   6

稲畑  X 大串    8

金子  X    長谷川     8

       計 30句

 

  何も考えずにランダムにハガキを選んだ場合は、A氏とB氏の重なる確率は600枚に一枚の割合である。一年を50週として年間の一人の選句総数は10X50で500枚になる。これから年間の重なり枚数は1枚弱。それゆえ稲畑さんと金子さんの重なり0枚は、必ずしも「お互いの好みの違い」とは言えず、統計的にありうる事である。あとの重なり4は好みか偶然かは計算しないと微妙なところだが、6や8は偶然とはいえず、かなり好みがあっていた結果と思える。ただ合っているといっても、500枚のうちの高々6-8枚で、後の大部分はお互いにちがった作品を選んでいることになる。どうも選句は共通した基準で選んでいるのではなく(それならもっと重なりが多いはず)、自分の好みで選んでいることになりそうだ。

 ほかの新聞投句欄では選者が複数の場合は、投句者が選者を指定する事になっている。たとえば京都新聞の場合は選者は坪内捻転さん岩城久治さんらで、自分の好きな人を選んで投句する。そうなるとその選者の好みそうな俳句を作るのが人情となろう。結局、朝日俳壇の場合も4人の選者の誰と絞った作風の作品を投稿するのが入選の確率を高めそうである。さらに「サブリミナル効果」を狙って同じ句を10枚ぐらい送る人もいる。また、一人で100句も同時に送ってくる人もいる(規約がないから違反とはいえないようだ)。

 ただ、こんな手間と経費をかけて、この新聞欄に自分の俳句を掲載することに、どれだけの意義や価値があるのだろうか?つらつら、駄句・凡句の並んだこの欄を眺めているとかなり疑問に思えてくる。



 

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ドクロの面を持つ蛾がミツバチを襲う

2024年08月21日 | ミニ里山記録

 

 学名 Acherontia styx。スズメ科メンガタスズ属。英名はdeath-head hawkmoth.

 ロンドンの郊外にあるシルウッドパークという学園都市に立ち寄った時、多くの民家の花壇に、ミツバチの巣箱が置かれているのを見た。趣味と実益といった事もあるのだろうが、ヨーロッパにおける養蜂の長い歴史文化を垣間みた気がした。イギリス人にならったわけではないが、定年後、ニホンミツバチを飼い始めた。いま住んでいる家は京都市の真如堂のそばにある。庭に待ち箱を置くと、ほとんど毎年、ニホンミツバチの分蜂群が入る。

 ある夜、巣箱でギギギ•••といった異様な音がするので、巣の蓋をはずし、懐中電灯で中をのぞくと大型の蛾がいた。ミツバチの巣を襲って蜜を盗むメンガタスズメガ(面形雀蛾)の成虫だ。背中にドクロのような不気味なマークを持っているので面形という。おまけに体のどこを振動させるのか、蛾のくせに鳴くのである。口吻は短いが強靭でミツバチの巣に入り込んで巣盤に穴をあけて蜜を盗み取る。ときどきミツバチの返り討ちにあって巣箱の傍に死骸が転がっている。

 セルゲーエフ・ボリス・フェドロヴィチという人の書いた本「おもしろい生理学」(東京図書:金子不二夫訳、1980)によるとメンガタスズメの出す音は、女王バチが巣内で出す音と同じ声色で門番バチをだますそうだ。擬態ならぬ擬声か?ただし、この話を文献検索しても、これに関する論文は見当たらなかった。ちょとあやしい。

 

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頭が良いと短命になるという生物学的証明

2024年08月19日 | 評論

<頭が良いと短命になるという生物学的証明>

 

 スイスのフリプール大学のタデウシュ・カベッキーはショウジョウバエを用いて学習行動が強化される選択実験を行ない、それがどの様な特性(形質)をもたらすか調べた。ハエにオレンジとパイナップルのゼリーを選択させるが、一方のゼリーにキニーネを加えておく。数時間でハエは苦いキニーネを避けて、もう一方のゼリーを好む様になる。この学習を3時間行なったのち、選んだゼリーに生んだ卵を取って育てる。このような操作を15代続けると、短い時間で学習できるハエが選抜でき、普通は3時間かかる学習が1時間でできる「かしこい」ハエの系統ができる。

 しかし、このハエはその代わりに短命という代価(トレードオフ)を支払っていることが分かった。美人(ハエ)薄命というが賢人(ハエ)薄命となっていたのである。人間でも勉強ばかりしていると、青成ひょうたんのようになって、健康を害することはあるが、単に遺伝的に「かしこく」なっただけのハエの寿命が短縮する理由はよくわかっていない。なにか生理的に潜在ストレスがかっているのか、ニューロンの結線構造におかしな事がおこっているのだろうか?

 一方、栄養価の低い餌でハエを育て、集団の中で比較的発育の速い個体を何代にもわたり選抜する。これを先ほどのような学習実験で学習能をみてみると、選抜する前のものより格段に低下していた。この実験段階では餌は普通のものを与えているので餌の影響ではない。この系統は多産になっており、「貧乏人の子沢山」のような家系になっていた。人の場合、そのような家の子の頭は、いいのか悪いのかという統計は無論ない。

 

参考文献

カール・ジンマー「進化:生命のたどった道」(2012 岩波新書 長谷川真理子訳)

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「古池や蛙飛びこむ水のをと」は名句か駄句か?

2024年08月19日 | 日記

「古池や蛙飛びこむ水のをと」は名句か駄句か?

 

 

 小学校の教科書にも載っている有名な俳句である。

この句は知られる限り3種類の表記がある。(芭蕉句集:日本古典文学大系 岩波書店1979)

古池や蛙飛びこむ水のをと(波留濃日:蛙合あつめ句)

ふる池やかわず飛こむみづの音 (芭蕉図録)

古る池や蛙飛込む水のおと(池田市「柿右衛門文庫」所蔵の芭蕉真筆の短冊)

 この中で真筆の短冊の表記が一番この句にふさわしく思える。

 

 小西甚一によると、これの初案は「古池や蛙とんだる水の音」だそうだ。天和元年(1681)か2年の頃の話である。上五をどうするか芭蕉が迷っていると、其角が「山吹や」はどうかと提案したのに、芭蕉はそれを採用せず「古池や」としたそうだ。支考の「葛の松原」という俳書に書いてある話だから本当だろう。小西によると「飛んだる」は当時の段林派の影響がみえるという。貞享(1684) 三年三月に芭蕉庵で催した「蛙合」二十番の際に「飛び込む」に改作したらしい。

 古池にカエルが飛び込めば、ポチャンと水音がするのはあたり前だから、其角は山吹の取り合わせで景色に奥行きを与えようとした。それを拒否して芭蕉はあえて「古池や」とした。池を注視させることにより、水と空気の波紋を視覚と聴覚で表したのであろう。まあまあの写生句ではあるが、いまでは小学生でもこんな句は作らない。どこの句会に之を出しても誰も採らないだろう。しかし、当時はこのような「斬新」な作品はまったく見当たらなかった。

   正岡子規も「古池の句の弁」で同様の趣旨のことを述べている。子規はその時代の蛙の俳句を多数ならべ、「悪句また悪句、駄洒落また駄洒落、読んで古池の句に至りて全くその種類を異にするの感あらん」と述べている。

ただ、この俳句は作られてから、芭蕉自身もコメントしたことはなかったし、弟子はだれも言及しなかった。ようするに完全に無視されていたのに、どうして人口に膾炙し俳句の代表のようになったのか?子規も不思議なこととしており、芭蕉はあの世で不満を述べているっだろうと言っている。

 江戸期の前衛的俳句、現代のただ事凡句といえよう。

 

参考図書

小西甚一 「俳句の世界ー発生から現代まで」 講談社学術文庫1159( 2010)

正岡子規 「古池の句の弁」(明治38年10月「ホトトギス」)

 

 

 

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「蕪村評論」の評論

2024年08月13日 | 評論
(呉春筆 蕪村像)
 
 蕪村の俳句を評論した文集は多い。江戸期後半には、俳人として、ほぼ無視されていた蕪村俳句を掘り起こしたのは、明治になって正岡子規である。以来、多数の俳人あるいは評論家が蕪村の俳句を独自の視点で解釈・評論している。それぞれの特徴を取り出し、その評価と批判を行なった。
 
1) 中村稔「与謝蕪村考」(青土社)2023 
 著者は弁護士さんのようである。弁護士の俳句評論とは、かかるものかと納得した。著者は、まず他の評者の意見を紹介し、裁判における相手側の陳述書に対するように、これに反論していく。たとえば蕪村「春風馬堤曲」の章では尾形功の解釈を紹介し、たまに同意することもあるが、ほとんどケチをつけている。その立場は、有体に言って弁護士リアリストとしてのもので、揚げ足取りで面白くない。たとえば、俳詩「春風馬堤曲」に登城する主人公を軽佻浮薄な女の子の道行ととらえている。中村は、「尾形は学者のくせに想像力が過剰すぎる」と批判してるが、尾形の解釈の方が、ずっと豊かで楽しい。ようするに面白くないのだ。かといって弁護士的リアリズムに徹しているかというと、そうでもない。たとえば、蕪村の「離別(さら)れたる身を踏込んで田植えかな」の解釈を、離縁された女性が田植え時期に員数合わせで婚家に呼び寄せられ手伝う情景としている。これは、珍しく尾形の「蕪村全集」での校註に従ったようだが、常識的にはありえない話だ。藤田真一は、出戻ってきた娘が実家の田植えの作業に参加するときの複雑な心境としている。これが普通の解釈であろう。また、蕪村「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の句でも、中村は「くれて」と「過行く」の措辞が矛盾していると述べている。しかし「過行く」は家に入らないでという意味に決まっているではないか。それに、この句の主人公は友人でも家の主人でもなく「鮎」であることを忘れている。釣り上げて足の速い鮎を配る友人の心遣いが、よみとれないようでは駄目だ。ただ、本書は、蕪村の生活句を「境涯詠」などに分類するなど、いままでにみられない新たな分類を行った点で評価できる。子規や朔太郎は生活者としての蕪村の句をまとめなかった。100点満点で65点。
 
2)藤田真一 「蕪村」(岩波文庫705)2000
 これは蕪村俳句の評論集ではなく、俳人蕪村を多角的に分析した評伝のような構成になっている。藤田は当時、京都府大の教授であった。春風馬堤曲の鑑賞においては、藪入り少女のちょっとはしゃいだ気持ちと故郷への想いが錯綜した道行きとして無理なく解説されている。「融通無碍な発想があって、そのくせ人間らしい心が、ふわっと伝わる蕪村の俳諧世界を紹介したい」と著者はいっている。学者の評論であるが、蕪村のほのぼのとした人柄を伝える佳作である。藤田には他に「蕪村の名句を読む」(河出書房)や「風呂で読む蕪村」(世界思想社)がある。いずれも蕪村自身の独白でもって、代表句を紹介するユニークな著書である。この中の蕪村「滝口に燈を呼声やはるの雨」は、貴人と武士が経験する時間の対比論で鑑賞した名解釈である。90点。

 

3)正岡子規 「俳人蕪村」(講談社文芸文庫)1999
 明治30年4月13日から11月15日まで、子規が「日本」及び「日本付録通報」に連載したものである(底本は明治32年「ほととぎす発行)。子規によると生存中、蕪村は画人としてより俳人として有名だったそうだ。それが死後、画人蕪村として知られ、その俳句はほとんど評価されなかったそうだ。しかし子規派の再評価により、その俳名が再び画名を上回ってきたと自画自賛している。ここでは、蕪村の俳句を「積極的美」「客観的美」「人事的美」「複雑的美」「理想的美」などに分類し、用語の自由性、句法の革新性、句調の斬新性、味のある特殊な文法(間違った文法なのに句に趣をあたえている)、材料の特殊性を挙げている。そして、それぞれの項目で該当する例句を挙げている(材料の特殊性では「公達に狐ばけたり宵の春」など)。すべての句をくまなく読み込んで整理したのであろうが、おそるべき気力と分析力である。春風馬堤曲に関しては、あまり詳しい解説はないが、「蕪村を知るこよなきもので、俳句以外に蕪村の文学としてはこれ以外にはない」としているが、一方で新体詩の先駆けを開けなかったことを惜しいんでいる。
 
 この著の圧巻は蕪村の「創造的文法誤謬」論である。蕪村は結構、文法を無視した作品を作った。「をさな子の寺なつかしむ銀杏かな」の「なつかしむ」について子規は次のように語る。
 「これは蕪村の創造した動詞であろう。果たしてそうとすると蕪村は傍若無人の振る舞いをした者といえる。しかしながら、百年後の今に至ってこの”なつかしむ”を引き続き用いている者は多数いる。蕪村の造語はいつか辞書にも載るようになるだろう。英雄の事業というものはこのようなものである」(筆者口語訳)
 
 ともかく、この評論や他著「蕪村と几董」などによって、埋もれていた蕪村俳句は、近代によみがえった。只一点ケチをつけると、子規は最後の方で「蕪村の悪句は埋没して佳句のみのこりたるか。俳句における技量は俳句界を横絶せり、ついに芭蕉其角の及ぶ所に非ず」としているが、蕪村俳句全集をみるに必ずしもそうでない。駄句、凡句も結構ある。99点。
 
4)萩原朔太郎 「郷愁の詩人・与謝蕪村」岩波文庫 1988
詩想(ポエジイ)にあふれたセンチメンタリストとしての蕪村を定着させた朔太郎の有名な書である。個人誌「生理」に昭和8-10年連載された。ここでは、まず子規派が、蕪村俳句を写生主義として規定してしまったことを批判している。しかしこれは明らかに誤解である。前の「俳人蕪村」を読んでも、たしかに「直ちにもって絵画となしうべき」ような作品を「客観的美」として分類しているが、それは蕪村俳句のジャンヌの一つにすぎない。ほかに人事句など、あまりロマンにみちたものではないのも子規は紹介している。朔太郎も「我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす」を紹介しているが、これなんかロマンどころか生活がにじみ出た俳句だ。むしろ、リリシズムの極致である「花茨故郷の路に似たるかな」の引用を抜かしている。これを抜かしてはいかん。蕪村はクリスタルグラスのような多面体である。時代のせいかも知れないが、朔太郎の読みは浅いのではないか。ただ蕪村の飄逸な書体を評して、彼を「炬燵の詩人」としたのは慧眼である。90点、
 
5) 竹西寛子「竹西寛子の松尾芭蕉集 与謝蕪村集」集英社 1996
 竹西寛子は原爆体験をもった小説家であり文学評論家である。ここで竹西寛子は蕪村の俳句を一句づつ解釈していくが、その内容は極めて良識的で納得できるものである。壮大な「菜の花や月は東に日は西に」から生活句「菜の花や笋見ゆる小風呂敷」まで蕪村世界を無難にこなしている。「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の夜半は夜中ではなく、夜半亭の事だとする宮地伝三郎(京大教授で動物学者)の説も紹介している。それなりに勉強したということであろう。ただ驚くほど新鮮な解釈を披露しているわけでない。80点

6) 小西甚一 「俳句の世界(第七章 蕪村)」 講談社学術文庫 1995
 俳諧の起源から説きはじめた俳句の歴史書における蕪村論である。「樟の根をしずかにぬなすしぐれかな」の「しずかに」の用法が当句を名品に仕上げたという解説には感じいった。断章での解説であるせいか、評論対象の選句が自由で斬新な雰囲気ではあるが、短いのでものたりない。75点。
 
7) 森本哲郎 「詩人与謝蕪村の世界」講談社学術文庫 1996
 森本哲郎(1925-2014)は)新聞記者を経て評論家となり東京女子大教授。「世界の旅」など多数の著書がある。俳人でも文学者でもない政治畑のジャーナリストの蕪村論である。雑誌「国文学」に掲載されたものをまとめたらしいが、理由はあとがきを読んでもよくわからない。ただ「私は蕪村が好きだ。蕪村の世界をこのうえなく美しいと思う」と述べている。好きでなかったら書けない。テーマ別に18章で構成されている。どれも蕪村俳句を様々な角度から解説するが、著者の博覧強記にはおどろくほかない。「島原の草履にちかきこてふかな」の句について、プラトンのイデア論を挽きつつ、「世界は仮の相であり、夢であり、幻であり、影であるというあの荘子の哲学は、蕪村の芸樹の中では独特の美学となり十七文字に結晶している」と述べている。子規、朔太郎の評論に次ぐ記念すべき書である。95点。
 
8)高橋治 「蕪村春秋」朝日文庫 2001
高橋治(1929-2015)直木賞作家、映画監督。「蕪村に狂う人、蕪村を知らずに終わる人。世の中には二種類の人間しかいない」と強烈なフレーズで始まる映像作家の蕪村論。「鮎くれてよらで過行く夜半の門」は夜釣り、火振り漁としているが、鮎を渡す手元から家の門を遠景にしたズームアウトの手法が凄いと言っている。また「花野」の項で日本人は本当は自然を大事にしないのに、その美を「仮託」する悪いくせがあり、近代においてはさんざん環境破壊を繰り返してきたと述べている。同感である。85点
 
9)稲垣克己 「蕪村のまなざし」 風媒社 2009
作者は1929生まれの銀行勤務経験者。「守ろうシデコブシ」(中日新聞)などの著書がある。前半は句評で後半は蕪村の事績の紀行集になっている。蕪村は京都で四条烏丸東イル、室町綾小路下ル、仏光寺釘隠町に転々と寓居を変えたそうである。
 
 蜻蛉や村なつかしき壁の色
 いな妻や波もてゆえる秋津島
 屋根ひくき宿うれしさよ冬ごもり
 咲くべくもおもわであるを石路花
 
これらの句は他の評者は取り上げていない。これをみても庶民派蕪村を現代の蕪村が誠実に紹介している。80点。
 
10)佐々木丞平、佐々木正子、小林恭二、野中昭夫 「蕪村:放浪する文人」新潮社
蕪村句の評論集というより蕪村作品(絵画を含む)の写真集といった本である。蕪村句そのものの評論は中村氏による1章「俳人蕪村の実力」という短い一章がある。蕪村句はほとんど駄句であるが、中にはホームラン級のがあると言っている。駄句や凡句もあるが、言い過ぎだろう。あまり元気のでる話ではない。70点。
 
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コノプカの法則ー不思議なビギナーズラックと連続の法則

2024年08月11日 | 評論

  人生いろいろ経験を積むと、ビギナーズラックといった事を経験したりする。麻雀を初めてやった人が役満を上がり、それですっかり病みつきになったりする。あるいは、不運や幸運が連続して起こる事もよく見聞きする。宝くじなど普通は(庵主の場合は特に)、当たったためしがないのに、連続して高額賞金の当たる人がいて、まったくうらやましい。初心者(ビギナー)には大きな幸運が起こりやすく、不運や幸運はそれぞれ連続することが多い。

  1960年代末のことである。カリフォルニア工科大学で行動遺伝子学の研究を目指していたシーモア・ベンザー(Seymour Benzer:1921-2007)の研究室にロナルド・コノプカ (Ronald Konopuk :1947-2015)という大学院生がいた。この研究室は、ショウジョウバエにおける行動遺伝学の分野でめざましい成果をあげていた。コノプカはショウジョウバエを突然変異剤のEMSで処理し、羽化リズムの異常な時計ミュータントを作成しようと試みた。当時は、体内時計の突然変異体などは絶対に作れないと考えられていたので、研究室の先輩達はコノプカに「それこそ時間の無駄だからやめた方がいいよ」と忠告したそうだ。ところがコノプカは、わずか200本目の培養瓶で、羽化リズムの異常なハエを見つけ、最終的には3種類(短周期、長周期、無周期)の体内時計ミュータントをつぎつぎ作成する事に成功した。通常は何千本もの培養瓶のハエをスクリーニングしても取れるかどうかわからケースが多い。それにはものすごい退屈な時間と経費がかかるものだ。

   これらのミュータントの遺伝子座位はいずれもX染色体のwhite (白眼) 遺伝子のすぐ近くに位置し(これも遺伝子座を解析したりするのに幸運な位置)、period遺伝子と命名された。この結果はベンザーとの共著で、権威ある米国科学アカデミー紀要(PNAS誌 1971)に掲載された。これは、動物における時計遺伝子の最初の発見であり、分子レベルでの体内時計研究のビッグバンとなったものである。

  日本人の堀田凱樹博士(後に東大教授)はその頃、ベンザー研究室に留学していた。彼はコノプカのために、ショウジョウバエの歩行活動リズムを測定する装置を開発した。しかし、この論文(PNAS)の共同研究者とはならなかった。同一の遺伝子部位に3箇所も変異を起こしたミュータントがほぼ同時に取れる確率を計算し、「これはやばい話ではないか」と感じ、辞退されたそうである。それほど、低い確率のことが同時に起こっていたと言えよう。研究における「ビギナーズラック」と「連続の法則」の典型的な例であり、科学史家はこれをまとめて『コノプカの法則』とよんでいる。これはジョナサン・ワイナーの著『時間・愛・記憶の遺伝子を求めて―生物学者シーモア・ベンザーの軌跡』にも出てくる有名な話である。

 

 

   コノプカの発見したピリオド遺伝子 (period)は、その後の時計生物学におけるイコンとなり、分子レベルの研究はこれを原点に発展したと言える。period遺伝子は数グループの間のデッドヒートの末に1984年に完全配列があきらかになった。一昨年 (2017)、ジェフリー・ホール、マイケル・ロスバシュ、マイク・ヤングの3人が「概日リズムを制御する分子メカニズムの解明」によりノーベル賞を受賞したのは記憶に新しい。

   ただ、その後のコノプカ博士の研究者としての人生はそれほど幸せなものでなかったようだ。時間生物学者のピッテンドリク教授の博士研究員を経たのち、母校のカリフォルニア工科大でassistan professor(助教授)になったが、完璧主義であったことや分子生物学の潮流に乗り遅れたこともあり、あまり論文が出ずに失職した。米国の研究大学では6年毎に教員への厳しい査定があり業績が少ないと辞めさせられる。別の大学に移ったが、そこでもうまく行かず、結局、研究の継続を断念した。人生の後半では「不運の連続の法則」がつきまとった人と言える。彼は素晴らしいチョウのコレクターであったという。

   『コノプカの法則』については、似たようなことを古生物学者の瀬戸口烈司さん(京都大学名誉教授)も述べている(1999年9月3日京都新聞朝刊「現代の言葉」)。瀬戸口さんのグループは、南米でサル類の化石の発掘調査を行った。調査機関は約3か月である。化石は見つかる時は別々の場所で同時に複数個見つかることが多いそうだ(良い事の連続の法則)。一方で、調査隊員から腎臓結石と急性肝炎といった確率の低い病人が同時に出る事もある(悪い事の連続の法則)。そして化石調査に初めて参加した学生が、まぐれで立派な化石を発見する事がある(ビギナーラックの法則)。この学生は大喜びして、ますます化石研究にはまりこみ、活動量が増えてどんどん成果が上がる。すなわち正のフィードバック効果が起こる。こういった化石の発見には運がつきもので、特定の人について回る性質があり運の良い人は次々貴重な化石を見つけるが、悪い人はなかなか見つからないそうである。これも連続の法則の一種である。

 ロブ・ダン著『家は生態系』(今西康子訳)白揚社 2021にも同様のビギナーズ・ラックの例が書かれている。高校生のキャサリン・ドリコスがダンの研究室にボランティアでやって来た。彼女はタイガー(トラ)に興味をもっていたので、ダンは「タイガーアント(トラ蟻)」を調べたらとアドバイスした。そうすると彼女はたちまち、ラボの裏で「タイガーアント」(ディスコシレア・テスタシモ)の巣を発見してしまった。それまでは、誰もこの種の巣や女王を見た事がなかったのに。

 

参考図書

 ジョナサン・ワイナー (2001) 時間・愛・記憶の遺伝子を求めて―生物学者シーモア・ベンザーの軌跡、 早川書房

松本 顕 (2018) 時をあやつる遺伝子、 岩波書店

Michael Rosebush (2017)「Ronard Konopka 1947-2015) Cell 161, April 9, 187.

 

追記(2024/08/11)

コノプカのperiodの発見とよく似た話を、ショウジョウバエで「睡眠」を研究している粂和彦氏が「時間の分子生物学」(講談社現代新書)で述べている(p121)。不眠症のハエを偶然発見したのであるが、ビギナーズラックであったとそうだ。ついている人は幸せなりきである。

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今年の二ホンミツバチ分蜂

2024年08月05日 | ミニ里山記録

2024年3月 越冬2群の二ホンミツバチうち1群はアカリンダニのために消滅。

4月22日 生き残った群から、午前11時ごろ第一回分蜂(写真1)。庭の桜の幹に蜂球を作る(写真2)。網で捕獲し、別の巣箱に取り込む。中群で順調に営巣している(写真3)。

 

(写真 1)

 (写真 2)

(写真」3)

 

  4月24日 第二回分蜂群。シロバナキンリョウヘンを傍においた丸胴の巣箱の外側サイドに自然分蜂群がきて、蜂球形成(写真4)。巣に入れるが、再びもとの場所にもどり蜂球形成。そのまま放置する。由来不明。

 

 (写真 4)

 

4月25日 翌日、13時ごろ、隣の別の巣箱に集団で移動。小群ながら順調に巣盤を作りはじめている (写真5)。

 

 (写真 5)

7月中旬

 

 

第三回分蜂 シロバナキンリョウヘンに。小群。ミカン箱の巣箱にとりこむ。由来不明。

7月中旬

 

5月11日アカバナキンリョウヘンに第4回分蜂群(中群)。重箱巣にとりいれる。、おそらく野生の他群由来。

 

8月3日重箱巣に夏分蜂

1000匹程度の小群なり。

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