京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

今年の二ホンミツバチ分蜂

2024年08月05日 | ミニ里山記録

2024年3月 越冬2群の二ホンミツバチうち1群はアカリンダニのために消滅。

4月22日 生き残った群から、午前11時ごろ第一回分蜂(写真1)。庭の桜の幹に蜂球を作る(写真2)。網で捕獲し、別の巣箱に取り込む。中群で順調に営巣している(写真3)。

 

(写真 1)

 (写真 2)

(写真」3)

 

  4月24日 第二回分蜂群。シロバナキンリョウヘンを傍においた丸胴の巣箱の外側サイドに自然分蜂群がきて、蜂球形成(写真4)。巣に入れるが、再びもとの場所にもどり蜂球形成。そのまま放置する。由来不明。

 

 (写真 4)

 

4月25日 翌日、13時ごろ、隣の別の巣箱に集団で移動。小群ながら順調に巣盤を作りはじめている (写真5)。

 

 (写真 5)

7月中旬

 

 

第三回分蜂 シロバナキンリョウヘンに。小群。ミカン箱の巣箱にとりこむ。由来不明。

7月中旬

 

5月11日アカバナキンリョウヘンに第4回分蜂群(中群)。重箱巣にとりいれる。、おそらく野生の他群由来。

 

8月3日重箱巣に夏分蜂

1000匹程度の小群なり。

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地球温暖化とナガサキアゲハの「江戸参府」

2024年08月03日 | ミニ里山記録

 

   ナガサキアゲハの雄(2023年8月京都市内で撮影)

 

  庭の山椒の枝に大型の黒蝶が悠然と止まっているのを見つけた(上写真)。ナガサキアゲハ(Papilio memnon)の雄である。このチョウはアゲハチョウ属に分類され成虫の前翅長は60-80mmに及ぶ。関西地方で観られる黒色系のアゲハ蝶はこのチョウの他に、クロアゲハ、カラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、ジャコウアゲハ、オナガアゲハがいる。ナガサキアゲハの雄はクロアゲハに、雌はモンキアゲハに似ているが、このチョウは後翅に尾状突起が無いことが特徴である(後述するがメスには尾を持つものがたまにいる)。雌雄とも前後翅の裏面基部に顕著な赤い斑点がある。このチョウは東南アジアインドネシアの島嶼から、中国台湾を経て日本まで広く分布しており、いくつかの亜種に分かれている。

 ナガサキアゲハは、そもそも南方系のチョウで、1980年頃までは九州全県および四国南部の平地から低い山地帯にかけてふつうに見られたが、本州では山口、広島でまれに観られる程度であった。しかし1980年代半ば頃から、近畿地方でも目撃と捕獲の記録が出始め、1990年に岐阜県、1992年に愛知県で、さらに2000年ごろには横浜や東京都内でも見られるようになった。白水隆の蝶図鑑には2006年に、三浦半島で定着し普通に見られるようになっていると記載されている。このチョウの北進は東京で止まることはなく、2007年に茨木、2009年に福島、宮城でも確認されるようになった。2012年には仙台市で、ナガサキアゲハの5齢幼虫がカラタチに定着していたというインタネット情報もある。ナガサキアゲハ以外にもモンキアゲハ、クロコノマチョウ、イシガケチョウ、ヤマトシジミなどのチョウ類も同様に分布を北に広げている。その原因は、地球温暖化により平均気温がどこも昔より高くなっているためである。急速に分布を広げるナガサキアゲハは地球温暖化の「環境指標生物」とされている。今後、青森さらには北海道でも目撃される日が来るかもしれない。          

 江戸時代、長崎出島に常駐していたオランダ人は、将軍を表敬訪問するため江戸参府を行うのを習わしとしていた。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも1826年2月15日、商館長のシュツルレルに随伴して長崎を出発し江戸に向かい、4月10日に到着している。こういった歴史的事実をなぞって、このチョウの東京までの北進を「ナガサキアゲハの江戸参府」とマスコミは報じた。     

 日本に棲息するナガサキアゲハP. memnon thunbergii の亜種名 "thunbergii"は、シーボルトが命名したもので、18世紀に来日した長崎のオランダ商館医で植物学者のカール・ツンベルクに敬意を表したものである。シーボルトは1823年8月12日出島に上陸し、わずか二か月後に小論文[DieDe historiae naturalis in Japonia statu(日本における自然史の現状)]をラテン語で書き上げている。これは翌年、バタビアで出版されたが、そこで紹介されたのは哺乳類5種、鳥類2種、爬虫類1種、魚類1種、甲殻類14種、昆虫2種の25種類の動物である(植物は含まれていない)。この2種の昆虫の一つがナガサキアゲハであった。もう一種はタテハチョウ科のルリタテハ(Kaniska canace)で、この蝶は北海道を含めて日本列島に広く分布している。記載された標本のいくつかは、それまで商館長であったブロムホフが集めていたものをシーボルトに託したものである。                     

 ナガサキアゲハが緯度の高い比較的寒冷な地域に分布を広げていくメカニズムが研究されている。それは、どうやら1年中の最寒月の最低気温が地球温暖化で次第に高くなり、冬眠している蛹の凍死率を下げたためのようである。化性(発生回数)や光周性(季節情報の受容能)を遺伝的に変化させるまでには至っていない。すなわち、集団として昆虫の生理生態的な形質が変化しているのではなく、温暖化にともなって冬季の生残率が高まったことで、寒冷な地方に分布が拡大していると考えらる。 チョウ類の分布拡大は、蝶の愛好家には好ましい事態かもしれないが、熱帯の感染症を媒介する昆虫も拡大・繁殖することで公衆衛生的な問題が生ずる可能性がある。例えば、重症性のマラリアを媒介するコガタハマダラカである。これは日本では、沖縄の宮古・八重山諸島にのみ分布しており、今のところ沖縄本島では見つかっていない。しかし、温暖化が進めば、沖縄から、九州南部、四国の太平洋地域まで拡がると言われている。植物は昆虫に比べて移動・分散が遅いので、このような急速な水平分布の変動は知られていないが、高山植物の生息域が温暖化で狭めらえている例がある。桜などの開花日が平均移動統計によると次第に早くなっているのも、その影響と考えられる。         

 産業革命以来、地球の平均気温は1.5℃ほど上昇している。京都では1881年以来の統計データーで約2.2℃上昇している。これは、どんなに頑迷な温暖化陰謀論者でも認めざるを得ない事実であろう。この6月中旬には、イスラム教徒がサウジアラビアの聖地メッカを訪れる大巡礼で、巡礼者1300人以上が熱中症で死亡したと報じられている。メッカでは6月17日に気温52度を記録し、おそるべき酷暑が続いていた。国連のグテーレス事務総長が、いまや「地球温暖化」ではなく「地球沸騰化」であると述べる事態になっている。その原因については諸説があるが、工業活動に伴う温暖化ガスの増加や原子炉の廃熱が、その主要原因であるとする考えが主流である。

  京都は盆地で冬は寒く、夏はことさら暑い。伝統的な町屋は夏の暑さ対策のために工夫がなされていたが、最近はどのビルや家屋にもクーラーを取り付けているので、それが出す廃熱のために街はますます暑く住みにくくなっている。温暖化に加えて、こういった都市熱の影響もあって、京都では気温が35℃以上の猛暑日が年々、増加している。ナガサキアゲハの北進で最低温度が生物の生存率を支配する例をみたが、京都の夏場における酷暑日の増加は、老人や病弱者の熱中症を増やすだけでなく、全体の平均余命の縮小を引き起こしているかもしれない。気温の平均値よりも暑さの突出日に注意しないといけない。

 このように、ナガサキアゲハは環境指標生物として有名なチョウになったが、分子生物学の分野でもスーパージーン(超遺伝子)を持つチョウとして注目を浴びている。最後にこの「超遺伝子」について簡単に述べておく。熱帯にはオオベニモンアゲハという色鮮やかな毒蝶がいる。そして、これにそっくりベーツ型擬態したナガサキアゲハがおなじ場所にすんでいる。これは全てメスで、色彩だけでなく、有尾で形態もよく似ている。しかも、ゆっくり飛ぶといった行動までまねる。非擬態型のメスもいて、これは無尾で、オスの擬態型はまったく観られない。これを発見したのはダーウインとともに進化論を提唱したアルフレッド・ウオーレスである。最初は、複数の擬態遺伝子がまとまって、性染色体に存在するのかと考えられていたが、常染色体上に逆位や組み換えの起こりにくい構造で存在することが分かった。こういった遺伝子セットを「超遺伝子」というらしい。その遺伝子構造にトランスポゾンを含むことから、ひょっとすると相手の毒蝶の遺伝子から。なんらかの仕組みで飛んできたのかもしれない。日本列島を北上するナガサキアゲハには擬態型のものは観られない。温度感受性の違いが議論されているが、出たとしても真っ先に鳥に食われてしまうからであろう。

 

参考文献

P.F Siebold(1824) De historiae naturalis in Japonia statu, nec non de augmento emolumentisque in decursu perscrutationum exspectandis dissertatio : cui accedunt spicilegia faunae Japonicae.

(日本における自然史の現状ー調査の進行に伴う増加と利益についての論文:日本動物相に関する摘録を付す)Batavia

北原正彦, 入來正躬, 清水 剛 (2001) 「日本におけるナガサキアゲハ(Papilio memnon Linnaeus) の分布の拡大と気候温暖化の関係」蝶と蛾 52 巻 4 号 p253-264

古屋政信、石井実 (2010) 「気候温暖化とナガサキアゲハの分布拡大」{地球温暖化と昆虫:  桐谷圭治、湯川淳一編}p54-105, 全国農村教育協会

藤原晴彦 (2020) 「超遺伝子」光文社新書 

 

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分蜂:連作俳句

2024年07月08日 | ミニ里山記録

 

 目出度さも知らで荒ぶる箱の蜂

 春疾風への字くの字とハチは飛び

 待箱を置けば我が家は里めきぬ

 分蜂の山越えて来る羽音かな

 楠樹の蜜蜂共に博士号

 蜜蜂の滅び行く日も梅雨やまず

 蜂の巣もメルトダウンの暑さかな

 巣の奥で面型雀蛾(メンガタスズメ)鳴く夜かな

 蜜房を割く丸く小さな背を曲げて

   廃兵となって巣を出る蜂を追う

 

 シャーロック・ホームズがそうしたように、ちょっとした庭のある英国人は、退職後、庭で養蜂を行う。ロンドン近郊のシルウッドパークという学園都市に立ち寄った時、多くの民家の花壇に、ミツバチの巣箱が置かれているのを見た。趣味と実益といった事もあるのだろうが、ヨーロッパにおける養蜂の長い歴史文化を垣間みた気がした。

 イギリス人にならったわけではないが、定年後、ニホンミツバチを飼い始めた。幸い、現役時代にミツバチの行動研究を行っていたので、飼育のノウハウは分かっている。いま住んでいる家は京都市の真如堂のそばにある。庭に待ち箱を置くと、ほとんど毎年、ニホンミツバチの分蜂群が入る。付近の吉田山や京大構内には、いくつもコロニーが存在する。それは時計台前の楠のウロ、神社の古い井戸、墓の下、民家の床下などに見られる。これらミツバチコロニーが、我が家に飛んで来る分蜂群のソースになっている。

 春先、分蜂の季節になると、待ち箱にニホンミツバチの偵察蜂がやって来る。偵察蜂は候補となる巣の位置、大きさ、巣口の広さ、内部温度などを総合的に判断して、そこが定住するのに好適であると判断すると、もとの巣や蜂球でダンスを踊り、他の仲間にアピールする。そのうち偵察蜂の数がどんどん増え、巣口の出入りだけ観察していると、すでに分蜂群が入ったのかと錯覚する程になる。これは。だいたい二〜三日かけて行われ、いい場所には占有権を主張するためか、偵察蜂の一部が夜中も居残るケースがある。同じ箱の中で違ったコロニーの蜂同士がであった場合、取っ組み合いのけんかが始まる。

 そのうち、ニホンミツバチの分蜂群がやって来る。無数の蜂の羽音で、あたりに異様なうなりが溢れる。彼等は、女王を中心に一旦集結するか、あるいはすでに入居を決定している場合は、直接そこに向かう。集結しても大抵、数時間以内に新たな巣を見つけて、全員が飛び去ってしまう。この時期のミツバチは刺さないモードになっているので、刺激を与えないで静かに見守るのがよい。殺虫剤などをかけて追い払おうとすると、かえって興奮し飛び回り収拾が付かなくなる。

 丸胴の巣に、分蜂が入居すると、日ごとに巣盤が大きくなっていく。働き蜂は毎日、半径約二〜三キロ以内に餌を探しにでかけ、花粉と蜜を集めてくる。時期によって、咲く花が変わるので、足についている花粉の色が変わる。花粉分析をすると、周囲にどのような花資源があるかわかる。

 京都の夏は、彼等の元のすみかである熱帯林よりも高温多湿である。ミツバチにとって、この暑さはまことに要注意で、巣盤が融けて崩落することがたまにある。出入り口で何匹もの働き蜂が扇風行動をおこして空冷するのだが、あまりに暑いと追いつかないのだ。こういった崩落を防ぐために、巣を二階建にして、上下の通気をよくしてやる必要がある。

 今世紀初め頃から、米国各地で養蜂用のセイヨウミツバチが、巣箱から逃亡してしまう現象が、頻繁におこりはじめ、これは CCD (蜂群崩壊症候群) と呼ばれている。この現象の特徴は、働き蜂の大部分が逃去し、しかも死骸が巣の周りに見当たらないことである。女王と幼虫が巣にとり残されているが、働き蜂がいないので、コロニーはすぐに全滅してしまう。今までのミツバチの行動に関する知識からすると、常識はずれの不可解な現象といえる。比較的病気に強いと言われるニホンミツバチでも、原因不明で、コロニーが次第に弱り消滅する事例が多くなっているそうだ。

 ミツバチは、狭い空間に密集してくらしている社会性昆虫である。このような生活形態は、迅速な情報伝達を含めた効率の良い生活を営む基盤となっているが、一方で病原体や寄生虫に感染すると、たちまち巣全体に広がるという弱点を備えている。これはヒトを含めた社会性の特質であるが、風通しの良さが災いして病気が短期間に蔓延する傾向がある。

 ある秋の夜、巣箱でギギギ•••といった異様な音がするので、巣の蓋をはずし、懐中電灯で中をのぞくと大型の蛾がいた。ミツバチの巣を襲って蜜を盗むメンガタスズメガ(面形雀蛾)の成虫だ。背中にドクロのような不気味なマークを持っているので、面形という。おまけに体のどこを振動させるのか、蛾のくせに鳴くのである。こんな不気味な特殊な蛾が、近所に生息している事が信じられなかったが、ある日、石崎先生(名大名誉教授)のお宅にうかがったとき、庭の花壇にこの幼虫が発生するとお聞きした。我が家は、白川通りをはさんで、先生宅とは五百メートルも離れていない。

 ニホンミツバチは、西洋蜜蜂に比べて温和で、取り扱やすいと言われている。テレビでも、養蜂家が素手で巣盤をさわっている映像が流されたりする。しかし、これは春や夏の季節の事で、越冬中の連中は極めて神経質になっており、少しでも巣箱に刺激を加えると興奮し、頭を狙ってブンブン攻撃してくる。野外で熊にさんざん襲われてきた種の習慣が、遺伝子に刷り込まれているのだ。

 京都美山町の里山でフィールド調査したことがある。このあたりの農家は、ミツバチの巣箱を置いてくらしている。孫が来たときに、瓶に詰めてもたせるぐらいしか蜂蜜は、とれないそうだが、分蜂群の飛来を吉兆として大切に保護している。筆者のように、京都の街中でも、ニホンミツバチの自然群を飼育できるのは、たいへん幸運なことと思う。

 

追記(2024/07/08)

セルゲーエフ・ボリス・フェドロヴィチという人の書いた本「おもしろい生理学」(東京図書:金子不二夫訳、1980)によるとメンガタスズメの出す音は、女王バチが巣内で出す音と同じで、門番バチをだます声色だそうだ。擬態ならぬ擬声?

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サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』を読もう。

2024年06月26日 | 評論

サイモン・シン Saimon Signh (1964-)著『フェルマーの最終定理』( Fermat's last theorem)(青木薫訳) 新潮文庫 (2000)

ともかく面白い。ただ「知的に面白い本」なので、これがためになるかどうかは読者によるのである。

サイモン・シンはインド系のイギリス人。ケンブリッジ大学で素粒子物理学の博士号を取得。ジュネーブの研究センターに勤務後、BBCテレビ局に転職。TVドキュメント「フェルマーの最終定理」で各種の賞を受賞。その後、同名の書を書き下ろす。他に「暗号解読」、「宇宙創成」、「代替医療」、『数学者たちの楽園―ザ・シンプソンズを作った天才たち」などの著書がある。

その粗筋は以下のごとし。

{ xn+yn=zn n>2のとき、この方程式には整数解が存在しない }

 十七世紀「数論の父」と呼ばれるピエール・ド・フェルマー(1607-1665)は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』(Arithmetica) の注釈本をの余白に「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と書き残す。この予想は後に「フェルマーの最終定理」と呼ばれ、多くの数学者たちが,長年にわたって挑戦したが成功しなかった。しかし、二十世紀末(1995)にイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが完全証明に成功し、フェルマーの最終定理は解かれた。

 このドキュメントは数学(数論)史であり、また関係する数学者の人間ドラマの歴史でもある。 ここで 登場する数学者達はピタゴラス、エラクレカテス、ディオファントス、インド・アラビアの数学者達、フェルマー、オイラー、ジェルマン、ラメ、コーシー、ガロア、谷村・志村、岩澤、フライ、リベット、コーシー、メーサー、テイラー、アンドリュー・ワイルズなどである。最終的には1995年、イギリスの数学者であるアンドリュー・ジョン・ワイルズ(Sir Andrew John Wiles,)によって解決される。

 この物語でのポイントは谷山―志村予想である。谷山–志村予想(Taniyama–Shimura conjecture)とは「楕円方程式(曲線)はすべてモジュラーであるう」という予想である。1955年に谷山豊によって提起され、数学者の志村五郎によって定式化された。結局、ワイルズは谷山–志村予想を解決することでフェルマーの最終定理をとくことになる。この物語は数学におけるピラミッド建設の物語でもある。

 エピソードがつぎつぎ連続していくドラマ仕立てだが、話に途中飽かさない。ともかくアマゾンで本を買って読んでほしい。

 

 

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環境問題 III 火の利用と人類の進化

2024年06月05日 | 環境問題
   人間は生物的進化と個体的発生の帰結として今ここに存在している。それ故に、人間は生物的特性を持った現存在として規定さる。人間は神様が創りあそばしたと信ずるのは自由だが、ヒトは類人猿の一種で数百万年前にチンパンンジーとの共通祖先から分かれて進化してきた事が明らかにされている。そして個体は母親の卵子と父親の精子が受精し、発生・発育がすすんで形成される。ヒトは時間論的には二つの「時間の矢」の先端に位置している。いずれの過程にも環境が大いに関わっている。人間は環境の産物であるが、人口が増え過ぎてその活動が地球環境に影響し始めている。まさに原始地球におけるシアノバクテリアのごときものである。シアノバクテリアは、当時の嫌気性生物に毒である酸素を発生し、大気の雰囲気を変えてしまった。
 
ヒトと人の違いは「自然の中のヒト」と「社会の中の人」という風に表現できる。人がヒトから分離した時期を知ることはむつかしい。この二つは完全に分離する事はなくその割合を変えつつ、今でも人間の中で存在していたと考えられる。二分法で自然(ヒト)か社会(人)かを問題にされはじめたのは、つい最近のことである。産業革命以降に、この二つの深刻な乖離と相克が始まった。
 
   人類が進化した理由はいろいろ考えられる。二足歩行や道具の使用、言語の発達などである。他に大事な要因は火の使用ということがあげらえる。40万年前のドイツのヒトの遺跡からも火打石や炉の跡が見つかっているし、ネアンデルタール人も火を使っていたことは確かである。火は食糧加工、暖房、野生動物防御と野焼きなどに利用された。加熱処理で食べられる食物のレパトリーが広がり、かつ保存がきいた。火を利用して青銅器や鉄器がつくられ、それらが文明の礎になった。一方でそれは、環境破壊の原因ともなった。ユバアノア・ハラリは「たった一人の女性でも、火打ち石か火起こし棒があれば、わずか巣時間のうちに森をそっくり焼き払うことが可能だった。火の利用は、来るべきものの前兆だった」と述べている。時代がすすむと蒸気機関のエネルギーとなって産業革命をおこし、今では火力発電所で電気の源になっている。「人類の文明進化は火とともにあり」というわけである。
 
人類が火を使うことによって地表の様相は大きく変化した。地球環境変動の端緒は初期人類による野焼きであったが、それは現代にいたるまで継続されている。最も大きい影響を受けたのはオーストラリア大陸であった。乾燥した気候のせいで火が簡単に広がった。サバンナや温帯の森林でも乾燥期には容易に火が放たれた。火はバクテリアよりも素早く有機物を分解し、栽培植物のために灰分を供給した。火に耐性の植物が人類の移動とともに地球に広まった。
 
 
火の利用で初期人類の生活に重要であったのは「炉端話」であったと思える。夜中に仲間と一緒に火を見つめ合いながら談話し、今日の出来事を振り返り明日の行動を確認しあった。仲間の結束がこれによって固まり、知識が伝承された。子供の教育にもなった。このような過程で言語の発達がうながされたかもしれない。この時代は火を怖がる子供は淘汰されたのではないか?時には周辺の他の家族や集団を招待し、炉端の周りに食べ物を並べたパーティーも開かれたに違いない。このようにして部落社会が生まれたものと思う。
 人間がまだ自然と共存していたヒトの時代の話である。いまでも寒い冬の日、道端でたき火をすると、いつのまにか人が周りに集まってくるのは、あのころの遺存形質が残っているからに違いない。
 
参考図書
ユヴアル・ノア・ハラリ 「サピエンス全史」河出書房新社 2017
ピーター・S・アンガー( 河合信和訳) 『人類は噛んで進化した』 原書房 2019
武内和彦他 『環境学序説』 岩波書店 2002
ウィリアム・H・マクニール、ジョン・R・マクニール 『世界史 I』桑工社、2015
ロバート・ボイド、ジョーン・シルク 『ヒトはどのように進化してきたか』松本晶子。小田亮訳 ミネルヴァ書房 2011
佐倉統 『現代思想としての環境問題』 中公新書1073 中央公論社 1992
  (この本の読後感想ー環境問題について生態学と進化生物学の視点から軽快なテンポで論議しているのでよく書けていると感心して読んでいたが、途中で「DNAメタネットワーク」などというわけの分からない話が提案されてガックリきてしまった。)
 
追記(2020/05/28)
ウイリアム・マクニールという歴史研究家の説によると、原始人は狩猟の前後に焚火を囲んで踊りをおどったそうだ。集団をなす人間が長時間にわたって拍子をそろえて一斉に手足の筋肉を動かしていると、非常に強力な社会的紐帯が生ずると言っている(W.マクニール 『戦争の歴史』(高橋均訳)刀水書房 2002年)(高島俊男 『ちょっとヘンだぞ四字熟語』(文春文庫)文藝春秋、2009)
 
追記(2022/03/13)
コーディー・キャッイーの「人類の歴史を作った17の発見」(河出書房)は読むに値する。火は火打ち石(黄鉄鉱)で起こしたとしている。食物の熱処理がどれほど生理的影響をあたえたかポイントになったいる。
 
追記(2024/06/05)
岡本 剛(「焚き火の脳科学ーヒトはなぜ焚き火にはまるか」(九州大学出版:2024)によると、脳科学的研究によってヒトは焚き火のそばにいると、脳波のアルファー波やシーター波が増えるそうである。これは脳活動の覚醒化を表していrのだそうだ。ただ上でのべたような文化人類史的な考察は無い。
 
 
 
 
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生きとし生ける物すべて意味あり。

2024年06月03日 | ミニ里山記録

 

 

<生きとし生ける物すべて意味あり>

 チャールズ・エルトン(Charles Sutherland Elton :1900-1991)は、イギリスの動物学者で動物の個体群生態学を確立させた。長い間、オックスフォード大学の動物個体群研究所所長を勤め、自然史博物学を生態学に高めた人物とされているが、現在の個別解析的な生態学者には、どちらかと言うと忘れられた存在である。

 そのエルトン氏には、大学敷地の広大なワイタムの森の自然を記述した「The pattern of Animal Comunities(1966)」(日本語の訳本は「動物群集の様式」思索社:1990)がある。日本語訳本で約650頁もあり、ワイタム丘陵の生物の子細な記述が延々と続く。一部の野外研究家にとっては、たまらない自然叙事詩だが、大抵の読者には、とんでもない退屈な読み物である。「生態調査の究極の目的は、ある地域に棲むすべての種についてある一定の期間にわたってその個体群とその動的関係を確かめかつ測定することである」(訳本p36)といった自己の主張を、具体的に示したイコン的著作といえる。

 

 ともかく点や線でしか考えなかった関係が面で考えるようになった。そうなると関係も極めて複雑になり「飛び越えた関係性」が問題になる。いわば”風が吹けば桶屋がもうかる”といった構造を考えなければないなくなる。地球の エコシステムはバランスを保ちながら動的に成立しているように見える。存在する物がすべて関係して、このバランスがなりたっていると仮定すると、人類の災禍であったペスト菌やインフルエンザ、コロナウイルスも地球にとってなんらかの意義が存在するのではないかと考えたくなる。彼らは人類にとって、とんでもない”悪玉”(悪い関係)ではあるが、異常に繁殖しすぎた人類の人口調整に地球(ガイア)が遣わした”善玉”(他の種にとって良い関係)ではないのか?コロナウイルスはヒトに感染発病させるのに他の動物は感染しても発病しない事実はこのことを暗示している。

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京大の臍、百万遍の思い出

2024年04月28日 | 日記

京大の臍、百万遍の思い出

 

  京都大学に入学した頃は、日本は高度成長期の真っただ中にあった。西陣の織物問屋の二階に下宿したので、千本から百万遍経由の市電①番で毎日、吉田の教養部に通った。

 当時の教養部の南キャンパスには、まだ旧制三高の残り香が至る所に漂っていて、古色蒼然たる新徳館、尚賢館などの木造の建物が構内に残ってた。入学後、剣道部に入り、授業が終わると、キャンバスの少し南にある武道場に通って練習した。練習が終わると、大抵、皆で百万遍のレストラン「円居」(まどい)で食事をとった。当時、円居ではご飯が食べ放題だったので、ソースだけで、おひつを一個、空にする豪の者がいた。円居は歴史の荒波の中で、頑張っていたが、最近廃業したようである。

 百万遍は京都の今出川と東大路の交差点である。当時、東南角は京都大学、西南角は第一勧銀(現在はドラッグストアー)、西北角は本屋(平和堂)とパチンコ屋(モナコ)、北東角は岩崎宝石店があった。

 学部に進学した。当時、化学教室は北部構内の理学部1号館にあったが、百万遍の北門のそばに、生化の赤レンガ建ての分館があり、微生物実験室などのある分館がまだ残されていたので、そこで酵母の培養実験などをおこなった。分館には半地下、一階、二階と屋根裏部屋があり、その中庭には花壇と藤棚、バレーコートがあった。屋根裏部屋には慎ましやかな天窓が付いており、「ゲーテの部屋」と呼ばれていた。フェルーメルの絵に出てきそうな、その優雅な部屋の片隅には、奇妙な形をした古典的なガラスの実験器具がいくつも並べられていて、薄明かりの中で魔法の様に輝いていたのを記憶している。

 しかし、大学院の途中で、この美しい赤レンガ棟は取り壊される運命となり、立ち退く前に、皆で不要になった有機溶媒をドラム缶にボンボン掘り込み、中庭で燃やした。今では、いや当時も、許されなかったことだったがいい加減な時代だった。ところが、予想外に炎と黒煙が高々と舞い上がり、そうこうしているうちに、そばの門衛所から守衛が消化器を抱えて飛んできて、消すの、消さないので一悶着があった。この赤レンガの建物はなくなり石油化学の建物になっている。

 このドタバタな引っ越しが終わり、全員、北部構内に移った。大学院では、主として酵母のステロール代謝の研究を行った。その頃は、医化学第2講座の沼正作先生が、動物の脂肪酸代謝の研究を精力的に展開されていた頃で、時々そのセミナーにも参加した。当時は、またボーリングブームの最盛期で、夜になると実験の合間に、実験がうまくいったといっては、あるいはうまくいかなかったといっては、研究室の仲間と百万遍のおでん屋(「雪野屋」)などにでかけ、遅くまでワイワイといろんなことを議論した。

 これ以外にも百万遍にまつわる筆者の遍歴は、「学士堂」・「カルチェラタン (1969)」・「モナコ」(パチンコ屋)・「吉岡書店」・「京科社」・「進々堂」などいろいろあった。さらに退職後はパスツールビルの5階にあった健康関係の財団法人の研究員として働いたこともある。ここは「ワガ人生の活性中心」みたいな場所でもある。

 いまでもこの付近を少し歩くと、裏道に古い木造の家屋が残っており、懐かしい。

 

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民主主義とファシズム:池内紀の「ヒトラーの時代」より

2024年04月26日 | 評論

 

 池内紀著の「ヒトラーの時代: ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」は形式的民主主義が、油断していると、たちまちファシズムに転化してしまうことを述べている。

 ナチスはその政権の独裁制を世界から非難されるたびに、その決定は民主的な手続きのもとに生まれたことを力説した。いかなる武力(クーデター)で権力を強奪したわけでなく、憲法で規定された民主的な選挙で選ばれたこと、つねに国民の審判を仰いだことを強調した(ただ悪賢いナチスはワイマール憲法の”バグ”=非常事態法を利用した)。確かに政権についた1933年1月より政局の展開のたびに国民投票が実施された。国際連盟脱退、ヴェルサイユ条約軍備制破棄、再軍備、ラインランド進駐など、国運を左右する決定のたびに国民投票で、それの可否を問うた。さすれば、有権者の多数の意思(意見)を集約する形式だけでは、なんの意味はなく、ファシズムの培養器ですらある。民主主義のかめのは、形式だけでなくプラスαとして何が必要なのか? 

 

 

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悪口の霊長学的起源

2024年03月18日 | 悪口学

悪口の霊長学的起源

    群れに警戒声を発する動物の種類は非常に多岐にわたる。前にコクマルガラスの例をあげた(悪口の解剖学: サツマイモとカラスの悪口)。霊長類の多くも警戒声を出して周囲の仲間に危険を知らせる。ニホンザルは、危険を察すると「クアン」という警戒音を発し、仲間はすぐにこれに反応し、同じ声をあちこちで発する。この警戒声が人類の「悪口」の起源ではないかと思っている。「人はどのように進化してきたか」(ロバート・ボイド、ジョーン・シルク著)によると、サルの警戒声は利他行動で、当人は捕食者の注意を引いて食われる確率を増やす。すなわち自分のリスクを大きくするが、群れ全体は生き延びる確率が増大するとしている。おそらく、これは他個体の意識推論的な応答ではなく反射的な反応を生み出していたのだろう。しかし発声遺伝子(体質)を持つ個体になんのメリットもなければ、そのうちこういった個体(遺伝子)は群れから排除されてしまうはずである。そうならなかったのは、このアラーマー(警戒声個体)にトレードオフになる別の「よい事(メリット)」があったからだろう。このような行動は単一遺伝子によって支配されているのではなく、複合遺伝子が関与している。アラーマーは交配相手のメスを獲得し易いとか、餌を見つける能力が優れているとかの性質を同時に持っていた可能性が高い。このような個体が群れのリーダーに進化したのかもしれない。

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悪口の解剖学:悪口の人類学的起源

2024年02月01日 | 悪口学

 

 ユヴァル・ノア・ハラリ (Yuval Noah Harari )の名著「サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福」によると、初期人類の言語会話は1)外敵や獲物に関する情報交換と2)噂話であるという。ホモ・サピエンスは社会的動物で、その協力は生存と繁殖のカギを握っている。自分が属する集団の中での情報が重要というのである。誰が信頼できるか、あるいは誰は危険で信頼できないかといった情報は、大きな集団へと拡大したり、まとまって行動するときに不可欠としている。噂は大抵、悪行を話題としている。噂好きな人は、元祖第四階級、すなわち、ずるをする人やたかり屋について知らせ、それによって社会をその類の寄生者から守るジャーナリストに役割を果たしている。彼はまた逆に、他者の噂話により、ベネフィットの高い見返りの情報を期待している。ここに仮想の仲間意識が芽生える。政治集団の派閥はこの「見返り」を期待する互助会なのだ。

(注)あの人はいい人だという噂話は、利得の独り占めという観点からするとあまりされない。「いい人」との関係は量的に限界があるので、なるべく独り占めしたいからだ。

 

 

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明仁上皇によるシーボルトの『日本動物学誌』研究

2024年01月27日 | 日記

明仁上皇によるシーボルトの『日本動物誌』研究

 コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズには手紙や印刷物を手掛かりに事件や犯人を推理する物語がいくつもある。長編「バスカヴィル家の犬」では、古文書に記された筆記体の特徴から、その制作年代を当てるエピソードが出てくる。こういったホームズ張りの推理力を発揮し、学術文献のインク跡を手掛かりに、ある魚の学名を決定した著名な日本の魚類学者がいる。その人は明仁上皇で、問題の魚はハゼ科のウロハゼ、文献はシーボルト編纂の『ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)』であった。上皇がまだ親王の頃、この話に関する論文が日本魚類学雑誌(1966)に掲載されているので紹介する。

 

 

                                   図1. ウロハゼ(Web魚類図鑑より転載)

 海辺で釣れるハゼはマハゼ(真鯊)が多いが、まれに横幅のあるずんぐりしたウロハゼが釣れる。岩の隙間や穴などに隠れる習性からウロハゼと呼ばれるが、舌の先端の切れ込みや頭頂部から背びれにかけての黒斑が特徴である(図1)。マハゼと同様に天ぷらにして食すると美味しい。日本、台湾、中国沿岸、南はトンキン湾にかけて分布しており、国内では新潟、茨城を北限とし九州に分布している。「ハゼ」は、スズキ目ハゼ亜目に分類されている魚の総称で、世界には約2000種以上、日本だけでも約600種類が生息する。これだけ種類が多いと分類する方にも混乱が生ずるのが常であるが、ウロハゼについても例外ではなかった。

 生物の命名法において、同一物と見なされる種につけられた学名が複数ある場合に、それぞれをシノニム(synonym)というが、上皇の論文が発表された当時、和名ウロハゼのシノニムとしては以下の4つが考えられていた。、<Gobius brunneus TEMMINCK&SCHLEGEL 1845>、<Gobius olivaceus TEMMINCK&SCHLEGEL 1845>および<Gobius fasciato-punctatus RICHARDSON 1845>である。国際動物命名規約によると、学名の優先権は、基準を満たした記載を条件として時間的に早い発表にある。データーベースもなく文献の検索も不自由な時代であったので、複数の研究者がウロハゼに別々の学名をつけていたのである。一体、いずれに学名の優先権があるのか?

 上皇は、これらのシノニムを一つ一つ綿密に検討された。まず、Gobius brunneusはファウナ・ヤポニカに掲載されたものであるが (図版74-2、142頁)、タイプ標本の厳密な検査から、これはウロハゼではなくヨシノボリとする研究報告があり除外できるとされた。次に、Gobius giurisについては、もともとフタゴハゼに付けられた学名であったので、これとウロハゼが同種あるいは亜種の関係かどうかが問題となった。そこで上皇は、この2つの魚の複数個体について形態的な比較をされて、いくつかの点で異なっていること、さらに同じ地域に生息することなどより、これらがそれぞれ異なる特定の種と判定された。このことから、フタゴハゼの種名giurisをウロハゼに使用することは不適となった。次にGobius olivaceusは、brunneusと同じくファウナ・ヤポニカに掲載されたものであるが (図版74-3、143頁)、そのタイプ標本はライデン博物館に存在せず、川原慶賀が描いた細密な写生図が残されていた。この図を仔細に観ると、頭部や背中の黒斑や、その他の形態は明らかにウロハゼを表していた。この事実はGobius olivaceusはウロハゼの学名として成立用件を備えていることを示していることになる。標本が無いのにスケッチを基準にするのは、不思議な気がするが、分類学では信頼できる図があれば、これをiconotypeとして標本の代わりすることが認められている。そして、最後のGobius fasciato-punctatusであるが、これもJ.Richardson著のIchythology-PartIII(1845)に、その図が掲載されており、それは明らかにウロハゼと認定できるものであった。

 かくしてウロハゼの学名としては、規約上、Gobius olivaceuとGobius fasciato-punctatusのいずれにも資格があることになるが、どちらが先に発表されたが問題となった。前に述べたように早い記載に先取権があるからだ。RichardsonのIchythology-PartIIIは、表紙に1845年10月出版となっており、命名規約に従い発行日付は月末の10月31日とされた。一方、Gobius olivaceuはファウナ・ヤポニカ魚類編の143頁に記載されているものであるが、これの発表月日の判定は、やっかいな問題があった。ファウナ・ヤポニカ魚類編は1842年から1850年にかけて分冊の形でバラバラに出版されたが、後に分冊は全て図版とテキストに分けて解体され、一冊にまとめられている。分冊では図版の次にテキストが綴じらえていたが、合本ではテキストの後に図版がまとめられた。分冊の表紙も最後にまとめて綴じられているが、どれにも出版の日付けは記載されていない。すなわち143頁が、どの分冊に収められていたのか、いつ発行されたのか全く判らなくなっていたのである。

 一方で、書誌学的な研究により、第7-9分冊は113-179頁をカバーしていること、第7、8 分冊は1845年10月11日に発行されたこと、また第9分冊は1846年5月1日に発行されたことがわかっていた。この事から上皇は、第8分冊と第9分冊のテキストの境目が判明すれば、143頁がどちらに入るかが決まるので問題が解決すると考えられた。もし第7、8 分冊に入っておれば、規約上10月11日がウロハゼの学名命名日となり、10月31日発行のIchythologyに記載されたfasciato-punctatusより優先権があるということになる。門外漢にとっては、ウロハゼの学名が、いつ頃、誰に付けられようとどうでもよい事かも知れないが、一つの標本を新種として確定するのに、論文作成を含めて数年もかかる分類学者にとってはきわめて大切な事なのである。

 どのようにしたら、その境目を見つけることができるのだろうか?ここで、いよいよ上皇陛下はホームズ張りの観察力と推理力を発揮される事になる。上皇は、日本の図書館や大学に保存されているファウナ・ヤポニカ魚類編の初版本を何セットも調査された。そして、学習院本で一連の図版62-93のうちの最後の図版93の裏に次頁のインクが転写していることを発見された。科学警察研究所で画像解析すると、それは153頁のテキストインクの転写であることが判明したのである。このことは、これらの図版とテキスト153-179頁が第9分冊として纏められていたことを示している。すなわち、第8分冊と第9分冊の境目は152-153頁にあったということになる。このようにしてウロハゼの分類学的な学名として、ファウナ・ヤポニカに記載されたGobius olivaceuに先取権があると結論を下された。olivaceuはラテン語で「オリーブ色の」という意味である。後になって、属名はGlossogobius属と変更されたので、学名は今ではGlossogobius olivaceuとなっている。明仁上皇は、この論文を含めてハゼ科魚類に関する多数の論文・著書を発表されている。発見された新種はアワユキフタスジハゼやセスジフタスジハゼを含めて10種にも及び、この分野における世界的な権威者として活躍しておられるのである。

 生物分類学は、学名を付け安定させ人類がその学名を恒久的に使えるようにすることを目的としている。生物科学においては、まず観察に基づく分類学があり、ついで比較によりそれぞれの関係を明らかにする系統学が、さらにその系統が生ずる原因を考究する進化学がある。分類ー系統ー進化という研究の道筋はエルンスト・マイヤ的には三位一体のものだが、扱う生物が何かを知る分類学がまず最初にくるは当然の話だ。このような方法は、人文科学の分野においても有効である 。

 最後にウロハゼが最初に記載されたファウナ•ヤポニカについて少し解説をしておきたい。シーボルトの日本における主要な任務が、自然物のコレクションであった事は本誌の前号で述べたが、彼はそれを体系的にまとめて解説した本を出版した。シーボルトは植物に詳しかったのでドイツ人ツッカリーニ (J.D.Zuccarini )との共著でフローラ・ヤポニカ(日本植物誌)を出版し、日本の植物紹介を行った。一方、動物についての書は編集のみ行い、分類とその解説は動物学の専門家にまかせる事にした。シーボルトが編集したファウナ•ヤポニカは哺乳類、鳥類、爬虫類(両生類を含む)、魚類、甲殻類をそれぞれまとめた5巻から構成される。本文はライデンの自然史博物館の3人の館員によって執筆される事になる。すなわち、哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類の各篇はライデン博物館館長テミンク(C.J.Temminck)と脊椎動物部門のシュレーゲル (H.Schlegel)の二人が共同で、甲殻類篇は無脊椎動物部門のハーン (W.D.Hann)が単独で執筆した。ただ魚類編に関しては実際はシュレーゲルが単独で執筆したとされる。シーボルト自身は爬虫類と甲殻類の2篇に序論を書いている。ファウナ•ヤポニカには合計803種もの動物が記載され、そのうち313種が新種とされている。シーボルトが帰蘭した後、ファウナ•ヤポニカは1833年から1850年にわたる長い年月をかけ43分冊で出版された。バラバラな形で出版された各分冊は、上記のように数巻にまとめられ頑丈に製本、 保存された。序文や図版を含めて、全部合わせると1400頁を超える大部なものである。ファウナ•ヤポニカはフローラ•ヤポニカとともに日本の生物相を、西欧に初めて体系的に知らしめた歴史的な出版物であり、現在も分類学における重要文献となっている。京都大学理学部生物系図書室がファウナ•ヤポニカの4巻セットを所蔵しており、貴重資料画像としてインターネットで公開している。京都大学が所蔵するファウナ•ヤポニカの実物の表紙の大きさは、縦40cm、横30cmもある(図2)。表紙に続く扉ページにラテン語で記された奥付があり、最初に編集者であるシーボルトの名に続いて共著者の名が装飾文字で描かれている。魚類篇の場合、発行年代は第一分冊が出版された1842年となっており、このページの背景には、鳳凰、麒麟など瑞祥動物が多面仏を囲む東洋的構図の絵が描かれている。この書物には目次はなく、各魚種をつぎつぎ説明した314頁もの本文があって、登場した558種、種数としては356種を記載した長いリストが続く。そのうち約半数が新種とされている。さらに、そのリストの後に161葉の図版が続き、約290枚の美麗なカラーの石版画がつけられている。そして、巻末には合本の際に剥がされた各分冊の表紙が、一枚ずつ丁寧に綴じ合わされている。この魚類篇の図譜のほとんどは、絵師の川原慶賀(1786-1862)の原画をもとに作成されたものとされる。

 

 参考図書

明仁(1966)「ウロハゼの学名について(On the scientific name of a gobiid fish named "urohaze)」魚類学雑誌 13巻:73-101頁

今村央 (2019)「魚類分類学のすすめ」海文堂出版 

岡西正典 (2020)「新種の発見ー見つけ、名づけ、系統づける動物分類学」中公新書 2589

三中信宏 (2006) 「系統樹思考の世界」講談社現代新書 1849

 

 

 

   

 

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生理学者・杉晴夫による分子生物学者・渡辺格へのとっておきの悪口

2024年01月25日 | 悪口学

 

  杉晴夫は1933年生まれの筋肉の生理学者である。東大農学部を卒業後、同大大学院医学研究科を修了、同大医学助手、コロンビア大学、米国NHI研究員を経て、帝京大学医学部の教授を勤めた。筋収縮の生理学的研究で業績をあげ、多数の専門書や啓蒙書を上梓している。不思議な事に『腹背の敵 李舜臣対豊臣秀吉の戦い』(文芸社2016)といった歴史物も書いている。

 杉晴夫氏が、最近出した「日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか」(光文新書1197:2022)には、日本の大学や医学にたいする批判や悪口が満載されている。この本では、その悪口に人が関係する場合は、対象人物の名前は匿名になっている。例えばA教授とか、その大学院生B君のように書かれている。

 ただ、名指しでやり玉にあげている例外が一人いる。それは、日本の分子生物学の草分けといわれる渡辺格氏(1899-1964)である。渡辺氏は東京帝国大学理学部化学科を卒業後、渡米しカリホルニア大学でバクテリアファージの研究を行った。その後、東京大学理学部、京都大学ウイルス研の教授を経て、慶應義塾医学部教授を勤めた。江上不二夫、柴谷篤彦らと日本の分子生物学を立ち上げた人物として知られている。

 杉晴夫氏は、この著名な分子生物学者が、何ら特筆すべき研究も行わず、慶應大学時代にも非生産的教授として過ごしていたかを、細々したエピソードを紹介しながら述べている。そして、彼の悪口は次の下りで最高潮に達するのである。

 『私が渡辺氏と面識を得る以前に彼に注目したのは、利根川進氏が1997年、ノーベル医学賞を受賞された際、ストックホルムでの授賞式で終始利根川氏と同じテレビ放映の画面に入ろうと「努力」している渡辺氏の態度からであった。これは私の偏見ではなく、同じテレビ番組を見ていた友人がみな同じ印象を持ち、「よく恥ずかしくないものだね」と言っていた。なお噂によると、渡辺があまりにしつこいので、「もうやめてください」と利根川氏に言われたという』(同書より抜粋引用)

利根川氏のノーベル賞受賞式に、渡辺氏が登場する理由は、どうも彼が利根川氏の京都大学時代の「恩師」であるからの様である。ただ、短期間の特殊な「師弟関係」であった。それが、どのようなものであったかは、利根川氏の「私の脳科学講義」に、次のように書かれている。利根川氏は京大理学部を卒業した後、ウイルス研の渡辺研究室に入るつもりで、大学院に進学する。彼は分子生物学を目指していたからである。

 『渡辺格先生の研究室にはじめて行くと、渡辺先生が「わたしを教授室に呼んで、「君は真剣に分子生物学者になる気があるのか」と言います。「もちろん、そうです」と言うと、先生は意外なことを言い出したのです。「日本では分子生物学の大学院教育をしているところはない。そんなものは自分のところだってできない。ほんとうにやる気があるならアメリカに行くしかない。自分がどこか当たりを付けてやるからアメリカに留学しろ』(「私の脳科学講義」より)

渡辺教授のありえないような無責任な話だが、たまたま同じ研究所の由良隆氏らの紹介があり、利根川氏はカリフォルニア大学サンチャゴ校に留学できたと書かれている。本当のところは、ウイルス研の渡辺研究室が、ほとんどまともな仕事をしていないのを利根川氏は見て(アメリカから帰国したばかりの由良氏を除き)、ここではダメと見定めたのではないか。せっかく、大学院に入学したのに、ウイルス研では一日も実験をしていない。

 杉晴夫氏の叱咤・糾弾は分からないでもない。あの頃の大学の生物系の大部分の教授連は、何してたのだろうという人が多い。 ただ、日本の分子生物学の黎明期に渡辺格などの「権威」に対抗して、これを推進しようとする集団やグループが存在すれば別だが(そういった意識ある研究者は利根川氏の様に日本を飛び出した)、この人達がいなければ、1回周回遅れどころか、2回遅れになっていたかも知れない。杉氏は、1)教育、2)研究実績、3)研究者育成の3つを教授の任務として挙げているが、この3つを同時に備えている人は日本ではめずらし。そもそも、それが出来る物質的、文化的基盤が、日本の大学にも研究所にもないからである。

(注)杉は渡辺格以外にも、K大の動物行動学者H教授もやり玉に挙げている。何もまともな研究してないじゃないかと言っている。H先生は東大理学部の生物出身で杉とは重なっていないのに、不思議な悪口だ。

 

 

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蜂類におけるシャーマン戦車とティーガ戦車の闘い

2024年01月25日 | ミニ里山記録

 

 巣盤から採ったボールの蜂蜜の残りに、ニホンミツバチとオオスズメバチが集り、そこで乱闘が起こった。しばらくして見てみると、オオスズメバチ5匹にニホンミツバチ約50匹が死んでいた。まさにドイツ軍の重量戦車ティーガに、アメリカ軍のシャーマン戦車が集団で襲いかかるような戦いである。ブラッド・ピット主演の映画「フューリー」でも、ティーガ1台にシャーマン戦車4台で戦い、3台がやられてしまう、最後に主人公の戦車がティーガを仕留める。ここの闘いではオオスズメバチの1匹は、なんとか生き延びたようであるが。

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エルンスト・マイヤの種概念

2023年12月21日 | 日記

 

エルンスト・マイヤ 

「これが生物学だーマイヤから21世紀の生物学者へ」(八杉貞雄、松田学訳)

 

 エルンスト・マイヤ(Ernst Mayr:1904-2005)  ドイツバイエルン州生まれの進化生物学者。鳥類の分類学、生態学で顕著な業績を挙げる。ハーバード大学教授。同大博物館館長。進化学における総合説を確立させ、種分化における「異所的種分化説」を唱えた。また「交雑可能」を基準とする生物学的種概念を提唱したので有名である。

 

このマイヤは、形態的基準は種の区分として信頼できないとして、生殖隔離(非交雑性)こそが重要な基準であるとした。これが平衡のとれた調和された遺伝子保護(すなわち種の実態保護)の制度と考えたのである。種間の形態的差異は生殖隔離の結果だと考えた。

マイヤの種概念における生殖隔離説は分かりやすくすっきりしており、現代の生物学者の間では、ほぼ主流をなしている。ダーウィンも、ある時期にこの「生物的種概念説」を唱えていたそうだ。しかし、最後には類型学的種概念説に戻った。何故だろうか。

次のように考えてみた。たまたまA種内に交雑不能な個体が生まれても、それに新たなニッチ獲得の優位性がなければ、たちまち消えてしまう。交雑不能という変異は、必ずしも新たな適応的なニッチ獲得を保証していない。資産のないドラ息子が親戚一同から勘当されているようなものだ。すなわち、単に交雑隔離が起こったとしても、あらたな種Bが種Aから生ずる可能性は限りなく小さい。

逆なんじゃないかと思える。すなわち環境への適応的変異の個体が突然変異で生ずる。それにともなって、体に様々な形態的な変化や生理的変化が生ずる。この突然変異は集団に広がるが、食い物の好みや種類も変わるかもしれない。その結果として、もとの変異の集団とは「相性が悪くなり」生殖隔離がおこる。αという環境に適応した種Aとβという環境に適応した種Bが交雑しても、不適な子孫ができて淘汰される。これは実験生物学的に検証できると思える。

マイアは、著書の中で「ダーウィンの転向」を「不思議なこと」と述べているが(p155)、ダーウィンも、最後はきっとこのように考えたんだと思う。種分化(種の起源)は、二つの条件(環境への適応変異とそれに引き続く生殖隔離)を潜り抜けてきた結果なのだ。異所的種分化も、この二つのプロセスが必要なのだ(単に住み場所が機械的に分かれたためではなく)。Great Bookの題が「種の起源(Orign of Species)]となっている所以である。

 

 

 

 

 

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どうして人はだまされるのか?

2023年12月15日 | 評論

どうして人はだまされるのか?

ブライアン・インズ、クリス・マクナ(著)

定木大介・竹花秀春・梅田智世(訳)

日経ナショナルジオグラフィー(2023)

 

この書は、だます方の大全であるが、だまされる方にも多様なパターンが存在することがわかる。「だまされる人」を類別すると、おおよそ次のようになる。

 

1)頭が悪すぎる。

2)頭が良すぎる。

3)強欲すぎる。

4)”権威”を信じすぎる。

5)「疑い遺伝子」が少なすぎる。

 

1)は理解しやすい。街角の詐欺師に、エッフェル塔や自由の女神を”破格の安値”で売りつけられた観光客はこの類である。客の中には日本人もいたそうである。

2)の場合は、自分は頭が良いのだと思い込む過信による。たとえば、大学教授が簡単に詐欺に会うのはこのケースである。大学教授は頭がいいと思っているので「自分が騙されるはずがない」と思い込んでいるが、詐欺師はそれよりずっと頭が良い。「コティングリーの妖精」を信じ込んだコナン・ドイルの場合も、この例に当たるかもしれない。もっともドイルは、晩年、相次ぐ身内の死去により、心霊主義への傾斜を強めていた。理屈の問題ではなくて、「心の病」の問題であったともいえる。写真にトリックがあるのではという仮説なんか、頭から吹っ飛んでいたのである。

3)詐欺の被害者は、大抵そのカラクリを見抜いていることが多い(本ブログ「バーナード・マドフ事件」参照)。それでも、結局、被害にあうのは「まだまだ行ける」と思って欲を張るからである。

4)これもよくあるケースであるが、”権威者”が善意でやっている事が、結果として「だまし」になるケースがある。”名医”と言われる医師の臨床データー(何人殺したか何人生かしたのか)は調べておきたい。

5)疑い(臆病)は、人類の本性であり適応的形質である。交雑のはずみで、これに関する遺伝子が少なすぎる人は何度でも、性懲りもなく騙される。そして淘汰される。

 

 

 

 

 

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