高橋和巳が、新制となった京都大学文学部に入学したのは、1949年の7月である。新学期の授業は、9月から始まった。後に、和巳と結婚した高橋たか子によると、この学年は旧制高校からきた男子が圧倒的で、当時は自由人の気風が濃厚であったそうだ。この年は、三鷹事件、下山事件、松川事件などが起こり、戦後社会は混乱していたが、湯川秀樹博士が日本人ではじめてノーベル物理学賞を受賞した年でもある。
和巳の最初の下宿は、上京区の荒神口の近くで、京都御所の見える屋根裏の三畳間であった。西日の差し込む蒸し暑い部屋で、上の階に通づる階段の下で、いつも小説を書き続けていたと言う。高橋は、食事を切り詰めても、時間の無駄としてアルバイトはしなかったという。
下宿から河原町通りを渡って少し東に歩くと、荒神橋が鴨川にかかっている。この橋の上でおこった荒神橋事件は、高橋の四回生の時で、小説「黄昏の橋」(未完)のモチーフを生んだ。
京大の教養過程では、図書館の書棚の本を、アイウエオ順に読破するという荒業を行っている。早い順に並んだアインシュタイン関係の著作を読んで、相対性理論を理解したと言われている。相対論は、一般解説書で読んでも憂鬱にならない人はいない。人間の日常感覚では、決して理解も納得もできない仕組みで、時空が存在するという認識が、高橋和巳の憂鬱文学の背景にあると思える。たか子の随想によると、高橋は世界一般、宇宙一般に絶望していたそうである。なんと深淵なる憂鬱。
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