牧野富太郎 『植物一日一題』ちくま学芸文庫 筑摩書房 2019
(牧野富太郎)
「日本の植物学の父」といわれる牧野富太郎(1862年 - 1957年)が、植物についての和漢の蘊蓄と見識とでまとめたエッセイ集である。ほとんどが、日本の植物を話題にしているが、二題の例外がある。一つは「小野蘭山先生の髑髏」で、もう一つは「二十四歳のシーボルト画像」と題する短編である。ここには、白井光太郎への露骨な悪口が書かれている。白井は牧野とほぼ同じ頃の生まれで、東京帝国大学理科大学を卒業、ドイツに留学して植物病理学を研究、東京帝国大学農科大学に世界初となる植物病理学講座を新設し、これの担当教授になった。1920年に日本植物病理学会を設立、初代会長に就任している。牧野は白井の何を問題にしたのか。その部分を抜粋して紹介する。
「理学博士白井光太郎君の著『日本博物学年表』の口絵に出てくるシーボルトの肖像画は、もと私の所有であったが、今からずつと以前明治三十五、六年の時分でもあったろうか、私は白井君のこの如きものの嗜好癖を思い遣ってこれを同君に進呈した。この肖像は彩色を施した全身画で、白井君の記しているように二十四歳で文政九年 (1826)東都に来たときの写生肖像絵で、これは『本草図譜』の著者、灌園岩崎常正の描いたものである。そして私は当時これを本郷区東京大学近くの群庶軒書店から購求したもので、同書店ではこれを岩崎家の遺族から買い入れたものである。白井君はこの肖像の上半分だけを同氏著書、すなわち『贈訂日本博物年表』(明治四十一年)に掲げているが、それを私から得た由来はかって一度も書いたことなく、またいささかも謝意を表したこともなかったので、今ここにそれを私から白井氏に渡した顛末を叙して、その肖像画の由来を明らかにしておく。なおこのほかに灌園の筆で美濃半紙へ着色で描いた小金井桜等の景色画二、三枚も併せて白井君に進呈しておいたが、それらの画は今どこへ行っているのだろう。また小野蘭山自筆の掛軸一個も気前良く進呈しておいた』(以下略)
「シーボルトの肖像画」とは、江戸参府に随行したシーボルトを岩崎常正が写生したもので、シーボルトの紹介と服装の説明がされている(下図)。左上に目のスケッチが挿入された面白い絵であるが、現在は国立国会図書館蔵となっている。この貴重な歴史的資料の絵を、高額で牧野が手に入れた。牧野の郷里の酒屋がつぶれる前で、比較的裕福なころの話しであろう。それを、白井にやったのに、資料として出した著書に何のコメントもないのは、不義理なことだと非難している。
牧野と白井は、学科は違うとはいえ、おなじ帝国大学の講師と教授の身分である。実名入りで内容もあまりに露骨すぎるし、白井君と呼び捨てにしているのも、気になる(もっとも白井は牧野が東京帝国大学植物学科で教えた学生の一人であったが)。調べてみると、これが書かれたは1946年(昭和21年)で、出版されたのは昭和28年となっている。白井光太郎は1932年に、すでに亡くなっていたのだ。牧野は、こころおきなく悪口が言えたわけだ。
(岩崎常正画 シーボルト肖像)
牧野富太郎は高知県高岡郡佐川町に生まれた。生家は雑貨業と酒造業を営む裕福な商家(「岸屋」)で、幼少のころから植物に興味を示していた。3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くし、その後、気丈な祖母に育てられた。10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳で郷校である名教館に入り儒学者伊藤蘭林に学んだ。19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、初めて上京した。東京では博物学者の田中芳男と小野職怒の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりした。22歳の時に再び上京し、そこで東京帝国大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ねる。そして、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可された。26歳で『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。自ら印刷技術を学び、絵も自分で描いた。牧野は多くの新種植物を発見するなどして、それを次々と発表した。しかし、周囲の人にたいして気を使わない性格も災いして矢田部教授らの反感をかい、教室の出入りを禁止されたりした。その後、31歳で、矢田部退任後(大学内の権力争いで罷免)に主任教授となった松村任三に呼び戻される形で助手となった。その頃には生家は完全に没落しており、研究に必要な資金にも生活費にも事欠いていた。それでも研究のために必要と思った書籍は高価なものでも全て購入するなどしていたため、多額の借金をつくり一家は困窮した。
『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』(昭和十五年小倉謙編東京帝国大学理学部植物学教室発行)で、牧野の東大植物学教室での処遇の変遷を追うことができる。
明治26年9月11日帝国大学理学大学植物学教室の職員録に、「牧野富太郎任帝国大学理科助手」とある。以降、明治43年3月に「休職ヲ命ズ」となるまで、長い間、助手を勤めている。この「沿革」には毎年、教員や生徒の名前や状況が記録されている。たとえば明治30年度に於ける植物学教室においては、松村任三教授、三好学教授が、それぞれ第一・第二講座を担任し、松村教授は第一年生徒の植物識別、第二年生徒の植物分類学、三好教授は第一年の普通植物学、第二年の植物解剖及び生理学実験、第三年の植物生理学を受け持った。助手は牧野富太郎の外に、藤井健次郎、大渡忠太郎であった。当時、動植第一学年に、宇野太郎、谷津直秀、矢部吉田禎、齋藤賢道などの秀抜が在籍した。
明治43年には嘱託となるが、大正元年服部広太郎、早田文蔵とともに講師に任ぜられるとある。ここには教員の担当授業や実習が、こまかく記載されているが、「牧野講師ハ受持チナカリケリ」とされている。しかも、この記載が、毎年度、何回も繰り返されている。助手は学生の教育義務は課されていないが、講師には当然それがあった。その当時の植物学教室における牧野の行動と評価をかいまみる思いがする。一方で、大正4年には「牧野富太郎主幹(植物学研究)雑誌創刊」とあり、研究実績においては面目躍如といったところがある。牧野は昭和14年に辞表を提出し退職する77歳まで、その職にあった。講師は教授のように定年はなく、1年ごとの雇用更新だったそうだ。それまで誰も勇退を勧められなかったのは、牧野の博識が頼りにされていたからである(ただ辞任時にも大学との間で一悶着あったという)。退職後も、在職中と変わりなく植物の研究に没頭した。牧野は、各地で後学にたいして植物の観察や分類法を指導し、さらに多くの著書を残した。そして昭和32年、東京で94歳に及ぶ生涯を閉じた。牧野の人生は、まことに幸せなものであったといえる。写真の顔にもそれが表れている。
参考図書
高知新聞社編 『Makino』北降館 2014
コロナ・ブックス編集部 『牧野富太郎』平凡社 2017
明治三十一年秋。東大理科植物学教室実習室における三好教授と学生(谷津直秀、斎藤賢道、矢部吉禎)
植物園前の学生たち。真ん中足を組んでいるのは斎藤賢道。
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