夏井いつきさんの「絶滅危急季語辞典」(ちくま文庫2011)は俳句の季語で、使われなくなった日本語を集めて解説したものである。ここには俳句で使われないだけでなく、日常でも使われなくなった美くしい日本語や個性のある日本語が集められ、文章は夏井流のユーモア―に溢れた軽快なタッチで書かれている。「鬼の醜草」「われから」「つまくれない」「相撲花」...........など、おぼえておかなくてはと思いつつ、ふむふむと読み進めていったが、「桑摘」の項目(p42)を読むにいたって、庵主はひっくり返ってしまった。
夏井先生は.テレビ番組のロケで養蚕農家を訪問した時に何匹かのカイコをおみやげにもらって帰る。カイコはしばらくすると熟蚕になって、糸を吐き純白の繭を作った。ここまでは予想された話であるが、読んでひっくり返った部分の文章を、以下にそのまま引用。
「ある日、繭を入れていた紙の箱の中でカサカサ音がするので、不思議に思って蓋をとってみた。すると、中から何匹もの蛾がワタシの顔をめがけて飛び出した。すぐには何事がおこったのか理解できず、紙箱の蓋を持ったまま呆然としていた。蚕が蛾になる、なんて当たり前のことをすっかり忘れていたワタシは、ハッと我に返り、恩知らずにもあの美しい純白の繭にウンチみたいな汁をくっつけて飛んでいった蛾を罵ろうとしたが、逃げ遅れたのが一匹箱の隅でゴソゴソしているだけであった」
カイコは人類が完全家畜化した昆虫で、養蚕農家で飼育している品種は決して飛ぶことはない。オス蛾は交尾のためにフェロモン情報を得ようと翅をバタつかせることがあるが飛べない。メスは翅をバタつかせもしない。顔をめがけて飛び出してくるなんてことはありえない。夏井流に言うなら「飛ぶカイコがいたら持って来い」ということになる。夏井先生、夢でもみたか? ただ、「繭にかけたウンチみたいな汁」については、蛾が羽化直後に行うgut purge(腸内物排出)による排出物なので、それなりにするどく観察がなされている。夢でなければ、話は夏井いつき流の創作ということであろうか。しかし、生物学的な事実をまげた創作はまったくいただけないし、教育的でない。著者の後書きによると、この本の前著は「絶滅寸前季語辞典」だそうだが、「若気の至りでフザケ過ぎていたり、ほとほと恥ずかしくなった。気になる部分をかなり書き直し、項目も入れ替えた」とされている。次回の改版では、この「桑摘」の項目も是非、修正願いたいものである。
蚕蛾をいっきに飛ばす文庫本 楽蜂
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