杉晴夫は1933年生まれの筋肉の生理学者である。東大農学部を卒業後、同大大学院医学研究科を修了、同大医学助手、コロンビア大学、米国NHI研究員を経て、帝京大学医学部の教授を勤めた。筋収縮の生理学的研究で業績をあげ、多数の専門書や啓蒙書を上梓している。不思議な事に『腹背の敵 李舜臣対豊臣秀吉の戦い』(文芸社2016)といった歴史物も書いている。
杉晴夫氏が、最近出した「日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか」(光文新書1197:2022)には、日本の大学や医学にたいする批判や悪口が満載されている。この本では、その悪口に人が関係する場合は、対象人物の名前は匿名になっている。例えばA教授とか、その大学院生B君のように書かれている。
ただ、名指しでやり玉にあげている例外が一人いる。それは、日本の分子生物学の草分けといわれる渡辺格氏(1899-1964)である。渡辺氏は東京帝国大学理学部化学科を卒業後、渡米しカリホルニア大学でバクテリアファージの研究を行った。その後、東京大学理学部、京都大学ウイルス研の教授を経て、慶應義塾医学部教授を勤めた。江上不二夫、柴谷篤彦らと日本の分子生物学を立ち上げた人物として知られている。
杉晴夫氏は、この著名な分子生物学者が、何ら特筆すべき研究も行わず、慶應大学時代にも非生産的教授として過ごしていたかを、細々したエピソードを紹介しながら述べている。そして、彼の悪口は次の下りで最高潮に達するのである。
『私が渡辺氏と面識を得る以前に彼に注目したのは、利根川進氏が1997年、ノーベル医学賞を受賞された際、ストックホルムでの授賞式で終始利根川氏と同じテレビ放映の画面に入ろうと「努力」している渡辺氏の態度からであった。これは私の偏見ではなく、同じテレビ番組を見ていた友人がみな同じ印象を持ち、「よく恥ずかしくないものだね」と言っていた。なお噂によると、渡辺があまりにしつこいので、「もうやめてください」と利根川氏に言われたという』(同書より抜粋引用)
利根川氏のノーベル賞受賞式に、渡辺氏が登場する理由は、どうも彼が利根川氏の京都大学時代の「恩師」であるからの様である。ただ、短期間の特殊な「師弟関係」であった。それが、どのようなものであったかは、利根川氏の「私の脳科学講義」に、次のように書かれている。利根川氏は京大理学部を卒業した後、ウイルス研の渡辺研究室に入るつもりで、大学院に進学する。彼は分子生物学を目指していたからである。
『渡辺格先生の研究室にはじめて行くと、渡辺先生が「わたしを教授室に呼んで、「君は真剣に分子生物学者になる気があるのか」と言います。「もちろん、そうです」と言うと、先生は意外なことを言い出したのです。「日本では分子生物学の大学院教育をしているところはない。そんなものは自分のところだってできない。ほんとうにやる気があるならアメリカに行くしかない。自分がどこか当たりを付けてやるからアメリカに留学しろ』(「私の脳科学講義」より)
渡辺教授のありえないような無責任な話だが、たまたま同じ研究所の由良隆氏らの紹介があり、利根川氏はカリフォルニア大学サンチャゴ校に留学できたと書かれている。本当のところは、ウイルス研の渡辺研究室が、ほとんどまともな仕事をしていないのを利根川氏は見て(アメリカから帰国したばかりの由良氏を除き)、ここではダメと見定めたのではないか。せっかく、大学院に入学したのに、ウイルス研では一日も実験をしていない。
杉晴夫氏の叱咤・糾弾は分からないでもない。あの頃の大学の生物系の大部分の教授連は、何してたのだろうという人が多い。 ただ、日本の分子生物学の黎明期に渡辺格などの「権威」に対抗して、これを推進しようとする集団やグループが存在すれば別だが(そういった意識ある研究者は利根川氏の様に日本を飛び出した)、この人達がいなければ、1回周回遅れどころか、2回遅れになっていたかも知れない。杉氏は、1)教育、2)研究実績、3)研究者育成の3つを教授の任務として挙げているが、この3つを同時に備えている人は日本ではめずらし。そもそも、それが出来る物質的、文化的基盤が、日本の大学にも研究所にもないからである。
(注)杉は渡辺格以外にも、K大の動物行動学者H教授もやり玉に挙げている。何もまともな研究してないじゃないかと言っている。H先生は東大理学部の生物出身で杉とは重なっていないのに、不思議な悪口だ。
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