タケホープの酔いどれ走遊記Ⅱ

アラカンの酔いどれランナーの実にくだらない日記
20数年ぶりのサブスリー復活を目指します。
禁酒しなきゃ無理⁉

沼田城跡の御殿桜 平八石 ビューポイント

2024年09月12日 | 城・城跡

御殿桜

西櫓台の石垣上に大きく枝を張る桜の木が、エドヒガンザクラです。「御殿桜(ごてんざくら)」という愛称で沼田市民のシンボルになっています。

 

平八石(へいはちいし 首さらし石)

沼田平八郎景義は、沼田氏十昭康顕泰と側室の間に生まれました。沼田氏内乱で越後(一説では会津)へ逃れた平八郎は流浪の末、東上州女渕で再起の機をうかがい、天正九年(1581)、沼田氏再興の兵を起こし、再興を目前に叔父の金子美濃守などの手によって水の手曲輪の露と消えた。

平八郎の首をさらした石が今に残ります。

 

ビューポイント

谷川岳や武尊山、三峯山、戸神山などの山々を眺めることができます。

また、名胡桃城方面も見る事ができます。

 

あの辺が、名胡桃城址

 

 

三峰山

 

 

高王山の砦 戸神山

今日はここまでです

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沼田城跡 西櫓台の石垣・石段

2024年09月11日 | 城・城跡

鐘楼(しょうろう)

鐘楼は、明治31年頃旧沼田町役場の裏手に建てられ、時を告げていましたが、昭和58年に公園に再建されました。

城鐘は2代藩主真田信吉が鋳造し、時を告げていましたが、現在はレプリカを用いており、実物(県重文)は沼田市歴史資料館(テラス沼田2階)に展示しています。

 

オミナエシ

 

 

真田氏時代 沼田蔵内城

 

 

沼田城跡西櫓台の石垣・石段

 天文年間(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591~1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。

 

石段

 

 

石垣

築城時代は熊本城と同じ頃だと思うが、熊本城と全然ちがいますね。

石垣だけなら島根県の津和野城のほうが見事です

 

違った⁉

1681年真田氏の改易によって、城は壊されて、その後本格的な復興はなされなかったんですね。でも真田氏時代の遺構だし。

絵は想像が多い⁉

 

蛇足:雑誌「歴史道 最強の山城ベスト50」より

土塁や空堀などが築きやすい土壌が広がる!東日本

東日本の土壌は粘土質が多く、土塁や空堀が築きやすく崩れにくい。そのため石垣で補強する必要がなく、土の城が多いとされている。

石工の技術が高く石積みの城が発展した西日本

城の周辺に石の産地が多く、さらに穴太衆などの職人集団の存在により石積みの技術が発展。そのため西日本では石垣の城が多い。

へー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真田信之 小松姫

2024年09月10日 | 城・城跡

真田信之

 父の昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、徳川軍と戦った第一次上田合戦(天正13年)では、信之はわずかな兵を率いて徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献するなど、幸村に勝るとも劣らぬ戦上手ぶりであった。

 

小松姫[天正元年(1573年)-元和六年(1620年)]

本多忠勝の娘。

天正十五年(1578年)3月に秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着したことを契機に、小松姫と信之との婚姻が成立した。

 

 

子持山

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏のふちねこ 浮き輪

2024年09月09日 | カフェ・喫茶店

カフェ ベローチェでもらったニャ

9月限定「選べる ふちねこキャンペーン」中だニャ

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北条五代

2024年09月08日 | 城・城跡

北条五代 火坂雅志 伊東潤

「義」を重んじる武将を取り上げ、日本社会に一石を投じた火坂雅志。

歴史を通して現代的なテーマを描いている伊東潤。

志半ばで倒れた火坂の思いを伊東が受け継ぎ、現代人が共感できる新たな北条早雲を生み出した。

       末國善己氏

 

我欲が強かった戦国時代に「義」という理想を掲げた北条家は、五代百年にわたって名将を出し続けた。

その理由を独自の視点で切り取る本書は、日本の閉塞感を打ち破り、未来を切り開くためのメッセージに満ちている。

       末國善己氏

 

北条の家臣が名胡桃城を奪ったのは、秀吉の罠だったのですね

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする