「思い出さなければよかった?」
確かにその男性(ひと)は、そう私に問い掛けた。何もかも記憶を封印したままだったとしたら、今こうしてこの男性と逢っていることはない。思い出したくないことも、思い出してしまったことも、思い出したかったことも、一揆にすべての封印が解かれた。
展覧会のチケットを、一方的に郵送した。私が出かけていけるであろう日時だけをメモして。
ゆっくりと一枚一枚時間をかけて、平日の凛とした空気の漂う会場を廻っていた。一枚の絵を定めながら、その男性が現れるの待っていた。確約はなかった。もしかしたら・・・来てくれるのかもしれない。絶対にあの男性は来る。来ない。そんなとことを思いながら、キュとなる靴の音さえもその中で阻まれるかのように静寂という文字が刻まれる。
一階のフロアーを見終わった。その男性は現れない。振り返りながら二階のフロアーへの階段を上がる。
何を馬鹿な賭けをしているのだろう。忙しい男性なのだ、勝手に送り付けた興味のない展覧会へ足を運ぶことはないだろう。諦めてみる、諦め切れないでいる。
二階のフロアーをひとつひとつゆっくりと時間をかけて定める。綺麗な着物を着た二人の女の人の絵の前で立ち止まり、その着物の柄を見定めるかのように見入っていた、其の時。
「いた。」
「下はご覧になった?」
「ああ。」
「・・・」
「よく来るのか?」
「時々、何か面白いものがかかれば。」
「・・・」
「この空気が好きなの。」
「なるほど。」
言葉は多くはいらなかった。残りの数枚の絵を無言のまま二人で最後まで観終わった。並んで時間を共有するということに、この場所は最もふさわしい場所のような気がした。凛とした空気は、まさにお互いの距離の緊張感そのものだった。
無理に時間を割いてくれていたのは、重々承知していた。でも、そのままどうしても別れるのが嫌だった。
公園の森の中にある展覧会の会場を後にした。公園の広場に下りる坂を、いっしょに降りていった。離れたくなかった。もう少しだけ、ほんの少しだけ、一緒にいたかった。
広場に出る少し手前、朝まで降っていた雨が嘘のように、樹からこぼれる日の光は初夏を感じさせた。芝生の広場には、散歩を楽しむ老夫婦。ボールを追いかける子供。シートを広げ子供を目で追う母親。そんな人たちを見ているかのように、私たちは足を止めた。
強くなった日差しを避けるように、大きな樹の下のこぼれ日の中で。
「ずっと忘れていたの。」
「・・・」
「忘れていたというより、記憶を封印していたみたい。」
「封印ね。俺のことも封印されていたのか。」
「毎年、ちゃんと年賀状だけは出したでしょ。」
「ああ。」
「私を忘れないでね、って。」
「忘れるわけはない。」
「でもね、思い出す余裕がなかったの。子供が生まれ、仕事、家事。いつも何かに追われていて。封印していなければ、今までやってこれなかったわ。楽しかったことも、思い出したくないことも。」
「そうだね。」
「ある日、突然、封印が解けて、記憶の糸口が見つかったとたんに、頭の中が混乱するほどに記憶が甦ったの。何もかも思い出してしまった。」
「楽しいことも、思い出したくないことも。」
「そう。」
「思い出さなければよかった?」
「いいえ。思い出したから、今あなたとこうしているわ。」
遠くで、子供が母親を呼ぶ声が聞こえる。二人の横をジョギングの男の人が抜けていった。
時間の都合は多少なりともつけることができた。雇われの身でないのが救いだった。次の約束までの時間にはまだ間があった。
チラチラとこぼれる日の中で、迷いを溜め込んだその女性(ひと)の横顔を見た。知らない時間を生きてきた。ずいぶんと時間を生きてきた。サマーセーターから除くその女性の鎖骨に、妙に生活を感じさせた。指を絡めながら話す癖に、変わらない時間をみつけた。
吹き抜ける風が、時間を思い出させた。
「ごめんなさいね。お忙しいのに。」
「いいんだ。」
「そろそろ行かなくちゃ。」
「ん。」
「また。」
「また。」
坂を戻っていく女性を、背中で見送りながら広場を抜けて車に戻った。
森を抜ける小路を二人で歩いた。
せせらぎが聞こえた。人工的につくった小川なのに、木々に囲まれた空間はありのままの自然のように感じられた。
途切れ途切れの会話の中で、お互いに今を語らなかった。二人の間には今が存在しない。あまりにも当たり前に、二人並んで歩いているのに。
確かにその男性(ひと)は、そう私に問い掛けた。何もかも記憶を封印したままだったとしたら、今こうしてこの男性と逢っていることはない。思い出したくないことも、思い出してしまったことも、思い出したかったことも、一揆にすべての封印が解かれた。
展覧会のチケットを、一方的に郵送した。私が出かけていけるであろう日時だけをメモして。
ゆっくりと一枚一枚時間をかけて、平日の凛とした空気の漂う会場を廻っていた。一枚の絵を定めながら、その男性が現れるの待っていた。確約はなかった。もしかしたら・・・来てくれるのかもしれない。絶対にあの男性は来る。来ない。そんなとことを思いながら、キュとなる靴の音さえもその中で阻まれるかのように静寂という文字が刻まれる。
一階のフロアーを見終わった。その男性は現れない。振り返りながら二階のフロアーへの階段を上がる。
何を馬鹿な賭けをしているのだろう。忙しい男性なのだ、勝手に送り付けた興味のない展覧会へ足を運ぶことはないだろう。諦めてみる、諦め切れないでいる。
二階のフロアーをひとつひとつゆっくりと時間をかけて定める。綺麗な着物を着た二人の女の人の絵の前で立ち止まり、その着物の柄を見定めるかのように見入っていた、其の時。
「いた。」
「下はご覧になった?」
「ああ。」
「・・・」
「よく来るのか?」
「時々、何か面白いものがかかれば。」
「・・・」
「この空気が好きなの。」
「なるほど。」
言葉は多くはいらなかった。残りの数枚の絵を無言のまま二人で最後まで観終わった。並んで時間を共有するということに、この場所は最もふさわしい場所のような気がした。凛とした空気は、まさにお互いの距離の緊張感そのものだった。
無理に時間を割いてくれていたのは、重々承知していた。でも、そのままどうしても別れるのが嫌だった。
公園の森の中にある展覧会の会場を後にした。公園の広場に下りる坂を、いっしょに降りていった。離れたくなかった。もう少しだけ、ほんの少しだけ、一緒にいたかった。
広場に出る少し手前、朝まで降っていた雨が嘘のように、樹からこぼれる日の光は初夏を感じさせた。芝生の広場には、散歩を楽しむ老夫婦。ボールを追いかける子供。シートを広げ子供を目で追う母親。そんな人たちを見ているかのように、私たちは足を止めた。
強くなった日差しを避けるように、大きな樹の下のこぼれ日の中で。
「ずっと忘れていたの。」
「・・・」
「忘れていたというより、記憶を封印していたみたい。」
「封印ね。俺のことも封印されていたのか。」
「毎年、ちゃんと年賀状だけは出したでしょ。」
「ああ。」
「私を忘れないでね、って。」
「忘れるわけはない。」
「でもね、思い出す余裕がなかったの。子供が生まれ、仕事、家事。いつも何かに追われていて。封印していなければ、今までやってこれなかったわ。楽しかったことも、思い出したくないことも。」
「そうだね。」
「ある日、突然、封印が解けて、記憶の糸口が見つかったとたんに、頭の中が混乱するほどに記憶が甦ったの。何もかも思い出してしまった。」
「楽しいことも、思い出したくないことも。」
「そう。」
「思い出さなければよかった?」
「いいえ。思い出したから、今あなたとこうしているわ。」
遠くで、子供が母親を呼ぶ声が聞こえる。二人の横をジョギングの男の人が抜けていった。
時間の都合は多少なりともつけることができた。雇われの身でないのが救いだった。次の約束までの時間にはまだ間があった。
チラチラとこぼれる日の中で、迷いを溜め込んだその女性(ひと)の横顔を見た。知らない時間を生きてきた。ずいぶんと時間を生きてきた。サマーセーターから除くその女性の鎖骨に、妙に生活を感じさせた。指を絡めながら話す癖に、変わらない時間をみつけた。
吹き抜ける風が、時間を思い出させた。
「ごめんなさいね。お忙しいのに。」
「いいんだ。」
「そろそろ行かなくちゃ。」
「ん。」
「また。」
「また。」
坂を戻っていく女性を、背中で見送りながら広場を抜けて車に戻った。
森を抜ける小路を二人で歩いた。
せせらぎが聞こえた。人工的につくった小川なのに、木々に囲まれた空間はありのままの自然のように感じられた。
途切れ途切れの会話の中で、お互いに今を語らなかった。二人の間には今が存在しない。あまりにも当たり前に、二人並んで歩いているのに。
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