朝焼けを見るために

神様からの贈り物。一瞬の時。

封筒

2007-08-24 18:03:19 | 流水子
 宛名のない真っ白な封筒を受け取った。

 朝、事務所に着くと、玄関を入る前に郵便受けの新聞を取り出す。新聞の後ろからガサッと地に落ちた封筒。拾って裏返すと、見覚えのある字で『つぼみ』と封がされていた。何の変哲もない真っ白な封筒に、宛名もなければ差出人の名もない。ただ、ほんの少し青みがかった黒いインクで『つぼみ』とだけ、ひらがなで封字されていた。女性だけが使うことができる、そのひらがなの優しげな文字が、ここに封筒を投げ込んだその女性の顔とだぶった。
新聞と一緒に、事務所に持ち込んだ少々の厚みのあるその封筒を、すぐにはあけることをせずに、そのまま仕事場のデスクの隅に封字を見えるようにして置いた。
 
 昨日、部屋中を満たした焙煎されたての豆で入れておいたアイスコーヒーを、冷蔵庫からだし、大ふりのグラスに満たした。部屋を満たしたあの香ばしい香りが、再び部屋を満たす。
街の西のはずれ、普通の家屋としかみえない見せ。見落としてしまいそうな場所にその自家焙煎屋ある。店の片隅のカウンターで、一杯のコーヒーを丁寧に入れてくれるまだ若い店主が一人で営んでいる。
風の噂にその焙煎屋を知り、仕事の合い間に今年初めてのアイスコーヒーを入れるためにその戸を開けた。板張りの床は、まだその店が歴史を刻むことはできないことを物語っていた。が、壁にかけられた黒板には、それぞれの豆がいつ何時何分に焙煎されたかと、克明に記してあった。この若い店主のこだわりと、自分の仕事に自信と責任を、そこに表していた。
ちょうど一週間で飲みきってしまえるであろう分だけの豆を、その場で挽いて貰った。豆のまま持って帰ってもよかったのだが、仕事の合い間に落ち着いて豆を挽く余裕はなさそうな気がした。この丁寧な仕事の豆を、片手間な時間に雑に挽いてしまったとしたら勿体無いような気がしたのだ。
 仕事が立て込んでいる、それは一人ですべてをしようとすればしかたのないことだった。それでも、自分のペースで自分の納得のいく仕事をしようとすれば、やはり一人ですべてをこなすしかない。
仕事だけではなく、もうひとつひっかかっていることがあった。
水滴を表面に付け出したグラスは、すでに半分に減っている。朝、空気を入れ替えるためにあけた窓は、まだ閉めずにいた。部屋をみたした香りは、少しづつ薄れているがまだデスクの回りにほんのりと漂っていた。

 デスクに置いた携帯が、ほんの一瞬だけ振れた。着信音が鳴る間もなく、その振れはとまる。この数日間、何度となく繰り返される。着信を知らせるランプが青く光っている。電話に出る隙さえも与えてはくれない、その短い着信の合図。そしてその合図は、封筒を投げ込んだ女性からの合図だった。返事を求めない合図だった。

 空になったグラスを、キッチンに戻すこともせずにデスクの上に置いた。グラスの表面を覆った水滴が、デスクに輪を描く。
置いたままの封筒は、そのままデスクの隅におかれている。たった三文字だけかかれたインクの文字が、グラスから落ちた水滴で滲んでいた。その滲みは、文字を書いた女性の涙で滲んでいるようだった。返事を求めない合図は、その女性の重さを此処に置きにきていた。
デスクトップのパソコンのスイッチを入れる。メールのチエックをしようとクリックだけをして、マウスを持つ代わりに、引き出しの中からペーパーナイフをとりだした。
『今日、あなたに電話をするはずの時間、私はゆっくりと本を読んでいます。
丁寧にゆっくりと、活字を追っています。電話をしないで、本を読んでいます。
大きなグラスに、たっぷりとアイスコーヒーを入れて、その香りを楽しみながら、本を読んでいます。
風が耳をゆっくりを撫でていくのを感じながら。

・・・・・

後どのくらい歩いていけるのかしら。

生き急ぎ、
逝き急ぐ、

そんな私がここにいます。』
白い封筒を開け真っ白な便箋を開くと、文字が語りかけてきた。封字されていた文字と同じ優しさをもった字が、電話で静かに話しをするかのように。
 
いつの間にか、部屋に漂っていたコーヒーの香りは、開け放たれた窓から入る風に乗り、その香りを消していた。デスクに置かれた、封を切り厚い便箋をとりだした封筒を、その風が持っていった。


                  fin
 

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