『流水子(るみこ)!』
波の中から私を呼ぶ声がする。真っ暗な闇、打ち寄せる波の音以外何も見えない。腰を下ろしているベンチのような流木は、いつからここにあったのだろうか。こんなにも大きなものを、波は、海は、知らない遠いところから運び、打ち寄せ、ここに置いた。波はその力で、何でも運んでくるのだろうか。それとも何もかもを飲み込んでいくのだろうか。知らない場所から、知らない場所へ、何もかもを運んでいくというのだろうか。此処に打ち寄せられ、この場所でこの流木は海を見ながら、自分の元にいた場所を懐かしく思い出すのだろう。それとも、逃げ出してきた場所を二度と思い出すことはなく、運んでくれた波に感謝の言葉を述べているとでもいうのだろうか。深く深く海の底に沈みこむとこなく辿り着く。この場所で見ることの出来る、全てのものを感じながら、ここに横たえている。静かに、何も語らずに。
『流水子!』
また、私を呼ぶ声がする。懐かしいような、一度も聞いたことがないような、そんな不思議な声。海の底から聞こえてくるのだろうか?耳を澄ませ、闇の中の海に目を凝らす。誰もいない真夜中の海。聞こえてくるのは、見えない海からの波の音だけ。闇に目が慣れることはなく、いつまでもの私の瞳は闇だけを追いかけている。
凍えるような冬の真夜中の海。自殺志願者か、ただの変わり者でなければ、こんな時期にこんな時間に、こんな場所に座ってはいないのだろう。車の中に小さくクッション型に収納されたチェックのブランケットを持って、松並木の下に隠すように車を止めここに降りてきた。ハイウエィの下をくぐらなくては、此処にはこれない。壁に落書きのある真っ暗な地下道、自分の足音が後ろから追ってくる。誰かが追ってく恐怖に駆られる。逃れるために此処に来たのに、逃れることができない恐怖だけが迫ってくる。
コートの上から、持ってきたブランケットをかぶり、吹き付ける風と寒さを和らげようとした。真冬のこの時期の真夜中の海。誰もいるはずのない浜辺。浪打際にあるこの流木のベンチに、たった一人で私はいる。ずっと後ろ、ハイウエィを時々走る車のヘッドライトさえも、ここまでは届かない。振り向くとそのハイウエィの後ろにある、白くぼんやりと見える灯台のその灯だけが、遠く沖からはみえるだけだろう。
『流水子!』
また遠くはっきりと私を闇の中から呼ぶ声が聞こえる。その声の主はいない。あの日、私は何をしていたのだろう。
一枚の写真を見せたとき、その人はその場所を正確に言い当てた。ありきたりの場所だが、地元の人でもその角度からその場所を見る人はいない。その場所を正確に言い当てたその人が、その場所を知っていることが、少々の驚きだった。
其処は此処。そして、私の場所。
何を思い、何を求めて、私はここにいるのだろう。
『流水子!』
闇の中から呼ぶ声に、凍える風の声が重なる。海から吹きつける風の音が、見えない闇の波の音が、私の耳の奥に、私の名前を呼ぶように届くのだろうか。
この場所を言い当てたその人は、今私が此処にいることを知っているのだろうか。様々な思いと問いが心と頭の中を廻る。
何も残らない消え方を人は知っているのだろうか。
頭からすっぽりとかぶっているブランケットが、体温を温存することを覚え始め、風の声と波の歌が疲れ果てた私を泥沼の中へと引きずりこもうとする。流木の上を向いた枝が、ちょうどあの人の肩にもたれかかるそれと、まるで同じような感覚に陥る。大きくも広くもなく丁度私の頭を心地よく支えてくる、あの肩をその枝にもたれかかりながら思い出す。そのぬくもりさえも忘れかけているというのに、そのぬくもりをそのもたれかかる感覚の中に、思いだそうとしている。
此処ならば、今ならば、どんなに声を上げて泣いたとしても、誰も聞いている人も、問いかける人も、とがめるものも何もない。引きずり込まれる泥沼にさえ、そのぬくもりを求めようとしている。
凍える空気が、ブランケットから出ているわずかな皮膚を突き刺す。泥沼は消え去り、また闇の中へと戻される。寄りかかる流木のぬくもりは消え、あの人は遠くへと消えた。この場所を言い当てたその人と、あの人が一瞬重なった気がした。
私を呼ぶ声も聞こえない。凍えた空気が、風と波を時間とともに凪に変えていく。
「一人になりたくなるときがあるんだ。」
そうあの人は言った。この場所で。私とはこないそのとき、一人の時間をこの場所で、打ち寄せる波を見ながら何を考えながら眺めていたのだろうか。今はもう、その答えを聞くことはできない。
そして今、一人になりたくなるとき、私は此処に来る。そして、きっとあの人と同じように、この場所に座り打ち寄せる波を眺める。何も考えずに。何も思わずに。
そう、一人になりたい時は、考えることも、思うことも、全てを放棄し心を自分にだけ解放したいそのときなのだから。
真っ暗な海が闇を呑み込み始め、少しづつ波は空は色を取り戻し始める。白く、そして茜色に。凪いだ風と海が、静かにその色を塗りこめていく。
夜が明けるその瞬間、体温を包みこんでいるブランケットさえも、その昨日を果たすことができないほどに、この真冬の空気は張り詰め凍っていく。
「流水子さん!」
あの人の声とは違う声が、波のあいだからではなく、遠く後ろハイウエェを通る大型の車の音の間から聞こえた。私をこの場所で呼ぶ人はいないはずなのに。
真冬の夜明け、釣り人もこないこの季節のこの場所は、私がたった一人で夜の闇の中に潜んでいた。うっすらと闇がひけ始めるこの時間も、まだ人影が現れることも、海の上を飛ぶ鳥さえもいない。
「流水子さん!」
今度は、もっとはっきりと、私のすぐそばで私の名前を呼ぶ。やはりその声は、私が待っているあの人の声ではない。
「やっぱり此処にいたんですね。こんなに冷たくなって。」
ブランケットの上、後ろから私を抱きしめた長い腕と大きな胸は、この場所を言い当てたその人だった。流木の後ろから私を抱きしめながら私の頬を、その大きな手の平で包み、その手のぬくもりで、凍てついた私の頬を少しづつとかしはじめた。
「もしかしたら・・・そうじゃなくてよかった。。。」
その人の体温が、ブランケットを通して私を温め始めたとき、私に怖さが戻った。震えだす私の体を抑えるように、更に強く私を抱きしめてくれるその腕が、心地よく愛おしく感じられた。
持たれかけていた、あの人の代わりの流木の枝の先は、朝日を受けてオレンジ色に染まり、まるで魔法の杖に変わったように見える。そして、私はその枝ではなく、体温を感じる大きな胸の中に、私の重みをかけかえていた。いつの間にか、体の震えはおさまり、思い出した怖さも消えていた。
「このメールはもう消してもいいですね。」
そう言って見せられた液晶の、受信画面には、小さな字が
『私は、私の場所に行く。』
そう短く私が出した文字が並んでいた。その人がひとつのボタンを押すと、その液晶画面は一瞬真っ暗になり、並んだ文字は全て消えた。
『流水子!』
その瞬間、短く、遠く、そしてはっきりと、私の耳に私の名前を呼ぶあの人の声が届いた。凪いだ波の隙間から。
「もう、此処にはこなくてもいいでしょ。」
私の耳元で、その人は低く呟いた。今、私達は二人で、海からのオレンジの光の中にいる。
fin.
波の中から私を呼ぶ声がする。真っ暗な闇、打ち寄せる波の音以外何も見えない。腰を下ろしているベンチのような流木は、いつからここにあったのだろうか。こんなにも大きなものを、波は、海は、知らない遠いところから運び、打ち寄せ、ここに置いた。波はその力で、何でも運んでくるのだろうか。それとも何もかもを飲み込んでいくのだろうか。知らない場所から、知らない場所へ、何もかもを運んでいくというのだろうか。此処に打ち寄せられ、この場所でこの流木は海を見ながら、自分の元にいた場所を懐かしく思い出すのだろう。それとも、逃げ出してきた場所を二度と思い出すことはなく、運んでくれた波に感謝の言葉を述べているとでもいうのだろうか。深く深く海の底に沈みこむとこなく辿り着く。この場所で見ることの出来る、全てのものを感じながら、ここに横たえている。静かに、何も語らずに。
『流水子!』
また、私を呼ぶ声がする。懐かしいような、一度も聞いたことがないような、そんな不思議な声。海の底から聞こえてくるのだろうか?耳を澄ませ、闇の中の海に目を凝らす。誰もいない真夜中の海。聞こえてくるのは、見えない海からの波の音だけ。闇に目が慣れることはなく、いつまでもの私の瞳は闇だけを追いかけている。
凍えるような冬の真夜中の海。自殺志願者か、ただの変わり者でなければ、こんな時期にこんな時間に、こんな場所に座ってはいないのだろう。車の中に小さくクッション型に収納されたチェックのブランケットを持って、松並木の下に隠すように車を止めここに降りてきた。ハイウエィの下をくぐらなくては、此処にはこれない。壁に落書きのある真っ暗な地下道、自分の足音が後ろから追ってくる。誰かが追ってく恐怖に駆られる。逃れるために此処に来たのに、逃れることができない恐怖だけが迫ってくる。
コートの上から、持ってきたブランケットをかぶり、吹き付ける風と寒さを和らげようとした。真冬のこの時期の真夜中の海。誰もいるはずのない浜辺。浪打際にあるこの流木のベンチに、たった一人で私はいる。ずっと後ろ、ハイウエィを時々走る車のヘッドライトさえも、ここまでは届かない。振り向くとそのハイウエィの後ろにある、白くぼんやりと見える灯台のその灯だけが、遠く沖からはみえるだけだろう。
『流水子!』
また遠くはっきりと私を闇の中から呼ぶ声が聞こえる。その声の主はいない。あの日、私は何をしていたのだろう。
一枚の写真を見せたとき、その人はその場所を正確に言い当てた。ありきたりの場所だが、地元の人でもその角度からその場所を見る人はいない。その場所を正確に言い当てたその人が、その場所を知っていることが、少々の驚きだった。
其処は此処。そして、私の場所。
何を思い、何を求めて、私はここにいるのだろう。
『流水子!』
闇の中から呼ぶ声に、凍える風の声が重なる。海から吹きつける風の音が、見えない闇の波の音が、私の耳の奥に、私の名前を呼ぶように届くのだろうか。
この場所を言い当てたその人は、今私が此処にいることを知っているのだろうか。様々な思いと問いが心と頭の中を廻る。
何も残らない消え方を人は知っているのだろうか。
頭からすっぽりとかぶっているブランケットが、体温を温存することを覚え始め、風の声と波の歌が疲れ果てた私を泥沼の中へと引きずりこもうとする。流木の上を向いた枝が、ちょうどあの人の肩にもたれかかるそれと、まるで同じような感覚に陥る。大きくも広くもなく丁度私の頭を心地よく支えてくる、あの肩をその枝にもたれかかりながら思い出す。そのぬくもりさえも忘れかけているというのに、そのぬくもりをそのもたれかかる感覚の中に、思いだそうとしている。
此処ならば、今ならば、どんなに声を上げて泣いたとしても、誰も聞いている人も、問いかける人も、とがめるものも何もない。引きずり込まれる泥沼にさえ、そのぬくもりを求めようとしている。
凍える空気が、ブランケットから出ているわずかな皮膚を突き刺す。泥沼は消え去り、また闇の中へと戻される。寄りかかる流木のぬくもりは消え、あの人は遠くへと消えた。この場所を言い当てたその人と、あの人が一瞬重なった気がした。
私を呼ぶ声も聞こえない。凍えた空気が、風と波を時間とともに凪に変えていく。
「一人になりたくなるときがあるんだ。」
そうあの人は言った。この場所で。私とはこないそのとき、一人の時間をこの場所で、打ち寄せる波を見ながら何を考えながら眺めていたのだろうか。今はもう、その答えを聞くことはできない。
そして今、一人になりたくなるとき、私は此処に来る。そして、きっとあの人と同じように、この場所に座り打ち寄せる波を眺める。何も考えずに。何も思わずに。
そう、一人になりたい時は、考えることも、思うことも、全てを放棄し心を自分にだけ解放したいそのときなのだから。
真っ暗な海が闇を呑み込み始め、少しづつ波は空は色を取り戻し始める。白く、そして茜色に。凪いだ風と海が、静かにその色を塗りこめていく。
夜が明けるその瞬間、体温を包みこんでいるブランケットさえも、その昨日を果たすことができないほどに、この真冬の空気は張り詰め凍っていく。
「流水子さん!」
あの人の声とは違う声が、波のあいだからではなく、遠く後ろハイウエェを通る大型の車の音の間から聞こえた。私をこの場所で呼ぶ人はいないはずなのに。
真冬の夜明け、釣り人もこないこの季節のこの場所は、私がたった一人で夜の闇の中に潜んでいた。うっすらと闇がひけ始めるこの時間も、まだ人影が現れることも、海の上を飛ぶ鳥さえもいない。
「流水子さん!」
今度は、もっとはっきりと、私のすぐそばで私の名前を呼ぶ。やはりその声は、私が待っているあの人の声ではない。
「やっぱり此処にいたんですね。こんなに冷たくなって。」
ブランケットの上、後ろから私を抱きしめた長い腕と大きな胸は、この場所を言い当てたその人だった。流木の後ろから私を抱きしめながら私の頬を、その大きな手の平で包み、その手のぬくもりで、凍てついた私の頬を少しづつとかしはじめた。
「もしかしたら・・・そうじゃなくてよかった。。。」
その人の体温が、ブランケットを通して私を温め始めたとき、私に怖さが戻った。震えだす私の体を抑えるように、更に強く私を抱きしめてくれるその腕が、心地よく愛おしく感じられた。
持たれかけていた、あの人の代わりの流木の枝の先は、朝日を受けてオレンジ色に染まり、まるで魔法の杖に変わったように見える。そして、私はその枝ではなく、体温を感じる大きな胸の中に、私の重みをかけかえていた。いつの間にか、体の震えはおさまり、思い出した怖さも消えていた。
「このメールはもう消してもいいですね。」
そう言って見せられた液晶の、受信画面には、小さな字が
『私は、私の場所に行く。』
そう短く私が出した文字が並んでいた。その人がひとつのボタンを押すと、その液晶画面は一瞬真っ暗になり、並んだ文字は全て消えた。
『流水子!』
その瞬間、短く、遠く、そしてはっきりと、私の耳に私の名前を呼ぶあの人の声が届いた。凪いだ波の隙間から。
「もう、此処にはこなくてもいいでしょ。」
私の耳元で、その人は低く呟いた。今、私達は二人で、海からのオレンジの光の中にいる。
fin.
「読みました。」
たったそれだけ。