「少し楽になったかな・・・」
お連れの人が先に帰られ、カウンターにその女性が一人になったその時、その女性はふと誰に言うでもなくはずした視線のままつぶやいた。
「えっ?」
耳に入ったその言葉が気になって聞き返した。
「少しだけ楽に生きられるようになったのよ。もう、わがままをほんの少し言ってもいいかな?と思えたら、少しだけ楽に生きられるようになったの。」
何か言葉を探したが、見つかる言葉はなかった。楽に生きる、楽に生きられる、頭の中をその言葉が廻る。
何度かお見えになるこの女性は、燐とした姿勢をここではくずしたことはない。戯言を並べることもなく綺麗にお呑みになる。そんな女性の隙間をほんの少し垣間見たような気がして気になった。
女性は様々な顔を持っている。カウンターの中から学ぶ、社会学。お金を頂きならが、お客様それぞれが持ち合わせる人生観。男性のお客様においても、同様のことは言える。そんな中、折々人生を勉強させていただける、素直にそう思うことができるようになったそれが極最近のこと。それまでは、カウンターの中からお客様の顔色を伺いながら、どこか冷めた目で人を見ていた。自分のしていることに自信と確信をもてないでここに立っていた。
やんちゃにがむしゃらに生きてきた。自暴自棄になりながら、何を探しているのかさえ解らないで、手当たりしだいに生きていた、そんな時期があった。女、酒、喧嘩・・・。
何もわからないままだった。何も変わらなかった。自分を壊すことで、自分を守ろうとした。そうすることで、見失いかけた自分を探そうと躍起になった。でも、その躍起さの中で最後まで破目をはずしきれなかったのは、家族という場所をいつでも感じていられたからなのだろう。守ってもらえる場所があることの安心感。もしも、それが感じることをできないでいたとしたら、こうしている今の自分はなかったのかもしれない。
黙ってみていてくれた親父がいた。後ろに大きく踏ん張っていてくれた。戸惑いならが、優しく見守ってくれたお袋がいた。きっと、何度も何度も言葉を飲み込んでいたのだろう。今父親となり、自分が親として幼い息子と接するとき、親父やお袋の大きさを嫌というほどに感じることができる。親父が、何気なくそして言い含めるように俺に言った言葉の数々が、こうしてカウンターに立ちながら、お客様の話の端々に重なる。酔っ払いの戯言と侮っていた時期もあった。その戯言の中に、人生を感じ始めることができるようになったの何がきっかけだったのだろう。
「私はね、自分では到底返すことはできないほど、両親にたくさんのことをしてもらったの。親になってみると、子供の何かを返してもらおうなんてこれっぽっちも思っていないのね。与えるものは、無償のものなのね。だから、私は自分がしてあげられることは娘たちにしてあげるの。してあげたいのね。それが、返すということなのかもしれないわね。」
話に耳を傾けながら、両親のことを考えた。あの頃、親父は後ろで踏ん張りながら、何を思っていたのだろう。お袋は、どんな言葉を飲み込んでいたのだろう。何かの見返りを求めようとすること、そのことは何を意味するのだろうか。そしてその反対に、何も求めないというものはどういうことなのだろう。親父やお袋は、自分に何かを求めたのだろうか。何も求めないからこそ、待ち続けてくれたのだろうか。
自分が親になってみると、守るものがあるということがどんなに大きなことなのか、それがどんな歓びをもたらしてくるのかということが、身をもって教えられる。その苦しみと歓びの比較できないものが、自分の糧となる。
話の折々にはお嬢さん達の話がでてくる。どんなにお嬢さん達を愛しているのかが、ひしひしと伝わってくる。それは、自分が親父という立場を持ち合わせているからなのだろうか。
ご主人とお見えになるときには、とても仲のよさそうなご夫婦に見えるこの女性。
「愛してはいないのよ。」
そう、お一人で見えるたびに嘯くこの女性の、素顔はどこに置いてあるのだろう。
この場所が、私に似合うのか似合わないのかはわからない。ただ、この酒場という空間に身を置くことが、日常の中の自分を多少解放していることは確かなことのようだ。
「只今」
そう言って、この鉄の扉を開けるようになったのは、この店に通いだしてどのくらいたった時だろう。夜の街に出てくるたびに、この鉄の扉を開ける。灰色の扉に小さくつけられた、この店の名前のタグを確認しながら。小さな雑居ビル、ワンフロアーに一軒。階を間違えない限りは、店を間違えることはない。シンデレラのように時間を計りながら、自分の時間が許す限りをそこから過ごす。
ひとまわりは違う、まだ若いこの店のカウンターの中の男性に、年甲斐もなく恋をしたというのだろうか。違う、日常とは違うその空間に、居心地の良さを見出しただけ。話し手の気持ちをしっかりと正面から捕らえることのできる、カウンターの中の男性。何を話しても、相手と正面から向き合う、その姿勢を誰に対しても崩すことはない。
娘たちの話をしながら、その男性の幼い坊やの話に重なる。とても家庭を抱えているようには見えないその男性から、父親の顔が覗く。若くしてパパになった、そのことを誇りにでもしているかのように。話の端々にでてくる、自分が育った家族の姿。
「とっても愛しているのね、大好きなのね、ご家族のことが・・・」
思ったままを口にした私の言葉に答える代わりに、はにかんだ笑いと素直にうなずくその男性は、変わらずカウンターの中にいる。
「まったく意地になっているのよ。」
母の言葉がささくれのように、心のどこかに刺さっている。抜くことのできない棘のように。意地なのだろうか。そうは思いたくはなかった。
意地になって働いていたのは母のほうなのに。いつも止まることは無かった母。がむしゃらにがむしゃらに今でも、働き続ける母。仕事、家事、母親。母の中には女としての部分を、持ち合わす時間も気持ちの余裕も無かったのかもしれない。化粧をする、父と出かける、父がプレゼントする装飾品。それらが母の中の女としての部分だった。それでも娘としての私の目には、母には女の部分を持ち合わせることがないように見えた。そして、私は絶対に女の部分をいつも持ち合わせていようと。
廻る因果か、母と同じように忙しい日々を強いられる。仕事、家庭、母親、女房。そして女としての私。どの顔をどこでどんな風に出しているのかは、自分自身で定かではない。
この場所に来るときの私は、どんな顔をしているのだろう。すべてを出しているのだろうか、それともすべてを隠しているのだろうか。自分では見えない自分の顔。
「働きすぎなんですよ。少し休まれたらどうですか。」
酔いが回り、更に無駄にフル回転させる脳にストップがかかった。もう一人のカウンターの中の男性との会話に間を持たせたその時、斜め後ろからほんのり湿った声が聞こえた。
ふと、私の中の誰にもみせることのない部分が弛みそうになる。
「わからないのよ。」
そう、わからない。わかっていても、自分をそこに持っていってしまう自分自身が。そのことさえも、本当は見透かしているのかもしれない。カウンターの中から、様々な人を見続けている男性だから。そして、その人の生き様をしっかりと自分の中に取り込もうとする男性だから。男の強さを持ち合わせているのだろう。
「疲れてらっしゃいますよ。」
疲れた顔をしていたのだろうか。無理を承知で抱え込む仕事。どこかでインターバルを取らなければ、心も体もオーバーヒートするのは目にみえてはいる。
意地を張る。まさにその通りなのだろう。意地とプライドだけが今の私を支えている。誰かに、そっと寄りかかりながら生きる生き方もあるのに。決してそうはしない。ほんの少し寄りかかる場所を見つけたら・・・その想いさえも遮ろうとする自分を見つけてしまった。
「少しだけ、背中をかしてくれないかしら。」
エレベーターを待つわずかな間、すっと背筋を伸ばして開く扉のほうをみたまま、その女性が言った。はっきりと乾いた声で。
効き耳である左耳を、少しだけ前に出すように顔を左に向けて相手をみる。その顔の傾け方が微妙に少なかったのだろうか。その女性の言葉が耳にはいらなかったのではない。独り言のように言ったその言葉。独り言かもしれないこの言葉。返事を返す間もなく4階に止まったエレベーターの扉が開く。いつもならばそのまま扉が閉まるまで見送って、そのお客様との一時が終わる。その女性が乗り込んだその箱の扉が閉まるその瞬間、気が付けばその中にいた。黙ったまま背中をその女性に向け、1階のボタンを押す。背中にその女性のわずかな重みを一点に感じる。4階から1階までのほんのわずかな時間が、時が止まったかのように長い時間に感じられた。
下についた箱の扉が開くより、わずかに早く背中に感じていた、わずかな重みがなくなった。
「おやすみなさい。お気をつけて。」
「ありがとう。おやすみなさい。」
一人、箱から降りるその女性はうつむきかけた顔をまっすぐに上げ振り返ることなく、まだ雑踏の残る街の中へと消えて行った。姿が見えなくなるのを確認し、上に戻る為に閉めた扉。背中にわずかに感じた重みが、同じように長くわずかな時間だけ残る。
Fin.
お連れの人が先に帰られ、カウンターにその女性が一人になったその時、その女性はふと誰に言うでもなくはずした視線のままつぶやいた。
「えっ?」
耳に入ったその言葉が気になって聞き返した。
「少しだけ楽に生きられるようになったのよ。もう、わがままをほんの少し言ってもいいかな?と思えたら、少しだけ楽に生きられるようになったの。」
何か言葉を探したが、見つかる言葉はなかった。楽に生きる、楽に生きられる、頭の中をその言葉が廻る。
何度かお見えになるこの女性は、燐とした姿勢をここではくずしたことはない。戯言を並べることもなく綺麗にお呑みになる。そんな女性の隙間をほんの少し垣間見たような気がして気になった。
女性は様々な顔を持っている。カウンターの中から学ぶ、社会学。お金を頂きならが、お客様それぞれが持ち合わせる人生観。男性のお客様においても、同様のことは言える。そんな中、折々人生を勉強させていただける、素直にそう思うことができるようになったそれが極最近のこと。それまでは、カウンターの中からお客様の顔色を伺いながら、どこか冷めた目で人を見ていた。自分のしていることに自信と確信をもてないでここに立っていた。
やんちゃにがむしゃらに生きてきた。自暴自棄になりながら、何を探しているのかさえ解らないで、手当たりしだいに生きていた、そんな時期があった。女、酒、喧嘩・・・。
何もわからないままだった。何も変わらなかった。自分を壊すことで、自分を守ろうとした。そうすることで、見失いかけた自分を探そうと躍起になった。でも、その躍起さの中で最後まで破目をはずしきれなかったのは、家族という場所をいつでも感じていられたからなのだろう。守ってもらえる場所があることの安心感。もしも、それが感じることをできないでいたとしたら、こうしている今の自分はなかったのかもしれない。
黙ってみていてくれた親父がいた。後ろに大きく踏ん張っていてくれた。戸惑いならが、優しく見守ってくれたお袋がいた。きっと、何度も何度も言葉を飲み込んでいたのだろう。今父親となり、自分が親として幼い息子と接するとき、親父やお袋の大きさを嫌というほどに感じることができる。親父が、何気なくそして言い含めるように俺に言った言葉の数々が、こうしてカウンターに立ちながら、お客様の話の端々に重なる。酔っ払いの戯言と侮っていた時期もあった。その戯言の中に、人生を感じ始めることができるようになったの何がきっかけだったのだろう。
「私はね、自分では到底返すことはできないほど、両親にたくさんのことをしてもらったの。親になってみると、子供の何かを返してもらおうなんてこれっぽっちも思っていないのね。与えるものは、無償のものなのね。だから、私は自分がしてあげられることは娘たちにしてあげるの。してあげたいのね。それが、返すということなのかもしれないわね。」
話に耳を傾けながら、両親のことを考えた。あの頃、親父は後ろで踏ん張りながら、何を思っていたのだろう。お袋は、どんな言葉を飲み込んでいたのだろう。何かの見返りを求めようとすること、そのことは何を意味するのだろうか。そしてその反対に、何も求めないというものはどういうことなのだろう。親父やお袋は、自分に何かを求めたのだろうか。何も求めないからこそ、待ち続けてくれたのだろうか。
自分が親になってみると、守るものがあるということがどんなに大きなことなのか、それがどんな歓びをもたらしてくるのかということが、身をもって教えられる。その苦しみと歓びの比較できないものが、自分の糧となる。
話の折々にはお嬢さん達の話がでてくる。どんなにお嬢さん達を愛しているのかが、ひしひしと伝わってくる。それは、自分が親父という立場を持ち合わせているからなのだろうか。
ご主人とお見えになるときには、とても仲のよさそうなご夫婦に見えるこの女性。
「愛してはいないのよ。」
そう、お一人で見えるたびに嘯くこの女性の、素顔はどこに置いてあるのだろう。
この場所が、私に似合うのか似合わないのかはわからない。ただ、この酒場という空間に身を置くことが、日常の中の自分を多少解放していることは確かなことのようだ。
「只今」
そう言って、この鉄の扉を開けるようになったのは、この店に通いだしてどのくらいたった時だろう。夜の街に出てくるたびに、この鉄の扉を開ける。灰色の扉に小さくつけられた、この店の名前のタグを確認しながら。小さな雑居ビル、ワンフロアーに一軒。階を間違えない限りは、店を間違えることはない。シンデレラのように時間を計りながら、自分の時間が許す限りをそこから過ごす。
ひとまわりは違う、まだ若いこの店のカウンターの中の男性に、年甲斐もなく恋をしたというのだろうか。違う、日常とは違うその空間に、居心地の良さを見出しただけ。話し手の気持ちをしっかりと正面から捕らえることのできる、カウンターの中の男性。何を話しても、相手と正面から向き合う、その姿勢を誰に対しても崩すことはない。
娘たちの話をしながら、その男性の幼い坊やの話に重なる。とても家庭を抱えているようには見えないその男性から、父親の顔が覗く。若くしてパパになった、そのことを誇りにでもしているかのように。話の端々にでてくる、自分が育った家族の姿。
「とっても愛しているのね、大好きなのね、ご家族のことが・・・」
思ったままを口にした私の言葉に答える代わりに、はにかんだ笑いと素直にうなずくその男性は、変わらずカウンターの中にいる。
「まったく意地になっているのよ。」
母の言葉がささくれのように、心のどこかに刺さっている。抜くことのできない棘のように。意地なのだろうか。そうは思いたくはなかった。
意地になって働いていたのは母のほうなのに。いつも止まることは無かった母。がむしゃらにがむしゃらに今でも、働き続ける母。仕事、家事、母親。母の中には女としての部分を、持ち合わす時間も気持ちの余裕も無かったのかもしれない。化粧をする、父と出かける、父がプレゼントする装飾品。それらが母の中の女としての部分だった。それでも娘としての私の目には、母には女の部分を持ち合わせることがないように見えた。そして、私は絶対に女の部分をいつも持ち合わせていようと。
廻る因果か、母と同じように忙しい日々を強いられる。仕事、家庭、母親、女房。そして女としての私。どの顔をどこでどんな風に出しているのかは、自分自身で定かではない。
この場所に来るときの私は、どんな顔をしているのだろう。すべてを出しているのだろうか、それともすべてを隠しているのだろうか。自分では見えない自分の顔。
「働きすぎなんですよ。少し休まれたらどうですか。」
酔いが回り、更に無駄にフル回転させる脳にストップがかかった。もう一人のカウンターの中の男性との会話に間を持たせたその時、斜め後ろからほんのり湿った声が聞こえた。
ふと、私の中の誰にもみせることのない部分が弛みそうになる。
「わからないのよ。」
そう、わからない。わかっていても、自分をそこに持っていってしまう自分自身が。そのことさえも、本当は見透かしているのかもしれない。カウンターの中から、様々な人を見続けている男性だから。そして、その人の生き様をしっかりと自分の中に取り込もうとする男性だから。男の強さを持ち合わせているのだろう。
「疲れてらっしゃいますよ。」
疲れた顔をしていたのだろうか。無理を承知で抱え込む仕事。どこかでインターバルを取らなければ、心も体もオーバーヒートするのは目にみえてはいる。
意地を張る。まさにその通りなのだろう。意地とプライドだけが今の私を支えている。誰かに、そっと寄りかかりながら生きる生き方もあるのに。決してそうはしない。ほんの少し寄りかかる場所を見つけたら・・・その想いさえも遮ろうとする自分を見つけてしまった。
「少しだけ、背中をかしてくれないかしら。」
エレベーターを待つわずかな間、すっと背筋を伸ばして開く扉のほうをみたまま、その女性が言った。はっきりと乾いた声で。
効き耳である左耳を、少しだけ前に出すように顔を左に向けて相手をみる。その顔の傾け方が微妙に少なかったのだろうか。その女性の言葉が耳にはいらなかったのではない。独り言のように言ったその言葉。独り言かもしれないこの言葉。返事を返す間もなく4階に止まったエレベーターの扉が開く。いつもならばそのまま扉が閉まるまで見送って、そのお客様との一時が終わる。その女性が乗り込んだその箱の扉が閉まるその瞬間、気が付けばその中にいた。黙ったまま背中をその女性に向け、1階のボタンを押す。背中にその女性のわずかな重みを一点に感じる。4階から1階までのほんのわずかな時間が、時が止まったかのように長い時間に感じられた。
下についた箱の扉が開くより、わずかに早く背中に感じていた、わずかな重みがなくなった。
「おやすみなさい。お気をつけて。」
「ありがとう。おやすみなさい。」
一人、箱から降りるその女性はうつむきかけた顔をまっすぐに上げ振り返ることなく、まだ雑踏の残る街の中へと消えて行った。姿が見えなくなるのを確認し、上に戻る為に閉めた扉。背中にわずかに感じた重みが、同じように長くわずかな時間だけ残る。
Fin.
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