「どうした?」
それ以上の言葉がでなかった。彼女の目からあふれ出た涙は、今この瞬間まで堪えてきた想いそのままだった。彼女をゆっくりと抱き寄せ、パーマを当ててないそのままのショートボブに切りそろえた髪を優しく撫ぜた。堰を切ったように、泣き出したその震える肩を、包むことしか今はできそうにもなかった。そして、彼女を胸の中に抱き寄せ、彼女が泣き止むまで車にも戻らず、ボックスの外で彼女の髪をなぜながら抱きしめていた。こんなに長い時間、彼女をこの手の中に入れていたのは、長い時の中ではじめてのことだった。
「今行くから、其処にいろ。いいな。」
しばらくぶりの電話に、なんだか不安を感じて場所を確認した。受けた携帯のデスプレィに、公衆電話と表示された。いつもは携帯からかけてくる電話。名前が出ると、正直一瞬のためらいを隠せない。ひと呼吸置いてから繋げる電話。名前の代わりに表示されたのは、公衆電話の表示。
街の中からは、次々に撤去されている公衆電話、何処にいるのか。なぜ公衆電話なのか。
『電話番号って覚えられないの。』
そう言っていたはずなのに、この番号は覚えてたというのだろうか。
かの女から聞き出した場所まで、ここから車で12~13分だろう。その間に消えてしまったら、もう二度と彼女を捕まえることはできない。きっと。そして、多分、一生分の後悔を味わうことになる。
まだ、彼女が携帯を持たなかったころ、連絡をとろうとするときには必ず其処のボックスからかけてきた。
『不思議ね、このボックスからかけるときだけはちゃんと繋がるの。他のボックスからかけるといつも繋がらないのよ。』
そんなことを言っていたことを思い出した。
「下のホテルのラウンジで待っていてくれ。何か冷たいものでも飲もう。」
夏の暑い日、蒸されるボックスの中から電話してきた彼女にそんなことを言ったことがあった。やはりやりかけの仕事をそのままにして、彼女の待つホテルのラウンジに向かった日。ロビーの隅っこで不安そうに待っていた姿を思い出す。あのころの彼女は、ガラスのようだった。触れたら、パリンと音を立てて割れて崩れてしまう、薄いワイングラスのよう緊張感を全身から漂わしていた。彼女の日常の緊張感と不安がそこにあった。
一緒に暮らす男は、そんな彼女に気が付かないのだろうかと、要らぬ邪推をしたこともあった。一緒に暮らす男に、そんな部分をみせることは絶対にない、気付かせることもない彼女だからこそ、俺にしてくる一本の電話が、日常に帰るためにどれだけ必要だったのかと、今なら更に分かる。笑うことを忘れてしまっていた、あのころの彼女。
信号が赤になるたびに、短い距離が長く感じる。通り過ぎる街の中は、どのビルにも灯が灯り行き交う人が足早に過ぎていく。そんな街の雑踏を抜け、静かな公園の奥にある駐車場の入り口のボックスの中に彼女はいた。
昼間は営業に疲れたサラリーマンや、公園に遊びに来る親子が車をとめる。出入りの激しいその駐車場の奥、何度となく車の中で話しをしたのだろう。夢中で取り留めの無いことを話し出す彼女の白い指は、いつも組んでは離し、放しては組んでを繰り返していた。
こんな時間になれば当然、駐車場の入り口は既にチェーンがかけられている。時折、横の阪を下る車のライトだけが、微かな灯だった。
駐車場の入り口に、頭だけを突っ込むようにして車を留め、電話ボックスにゆっくりと近寄った。ボックスの中でうずくまっている彼女を脅かさないように。
野良猫のように丸まっている彼女が、顔をあげ俺を確認した。無理な笑いを作ろうとしたその顔は、しばらく見ない間に幾分が痩せたしまったようだった。
「ごめんなさい。」
そう小さく呟いて、ボックスの中から静かにでてきた彼女。もう、それ以上は何もいわなかった。
fin.
それ以上の言葉がでなかった。彼女の目からあふれ出た涙は、今この瞬間まで堪えてきた想いそのままだった。彼女をゆっくりと抱き寄せ、パーマを当ててないそのままのショートボブに切りそろえた髪を優しく撫ぜた。堰を切ったように、泣き出したその震える肩を、包むことしか今はできそうにもなかった。そして、彼女を胸の中に抱き寄せ、彼女が泣き止むまで車にも戻らず、ボックスの外で彼女の髪をなぜながら抱きしめていた。こんなに長い時間、彼女をこの手の中に入れていたのは、長い時の中ではじめてのことだった。
「今行くから、其処にいろ。いいな。」
しばらくぶりの電話に、なんだか不安を感じて場所を確認した。受けた携帯のデスプレィに、公衆電話と表示された。いつもは携帯からかけてくる電話。名前が出ると、正直一瞬のためらいを隠せない。ひと呼吸置いてから繋げる電話。名前の代わりに表示されたのは、公衆電話の表示。
街の中からは、次々に撤去されている公衆電話、何処にいるのか。なぜ公衆電話なのか。
『電話番号って覚えられないの。』
そう言っていたはずなのに、この番号は覚えてたというのだろうか。
かの女から聞き出した場所まで、ここから車で12~13分だろう。その間に消えてしまったら、もう二度と彼女を捕まえることはできない。きっと。そして、多分、一生分の後悔を味わうことになる。
まだ、彼女が携帯を持たなかったころ、連絡をとろうとするときには必ず其処のボックスからかけてきた。
『不思議ね、このボックスからかけるときだけはちゃんと繋がるの。他のボックスからかけるといつも繋がらないのよ。』
そんなことを言っていたことを思い出した。
「下のホテルのラウンジで待っていてくれ。何か冷たいものでも飲もう。」
夏の暑い日、蒸されるボックスの中から電話してきた彼女にそんなことを言ったことがあった。やはりやりかけの仕事をそのままにして、彼女の待つホテルのラウンジに向かった日。ロビーの隅っこで不安そうに待っていた姿を思い出す。あのころの彼女は、ガラスのようだった。触れたら、パリンと音を立てて割れて崩れてしまう、薄いワイングラスのよう緊張感を全身から漂わしていた。彼女の日常の緊張感と不安がそこにあった。
一緒に暮らす男は、そんな彼女に気が付かないのだろうかと、要らぬ邪推をしたこともあった。一緒に暮らす男に、そんな部分をみせることは絶対にない、気付かせることもない彼女だからこそ、俺にしてくる一本の電話が、日常に帰るためにどれだけ必要だったのかと、今なら更に分かる。笑うことを忘れてしまっていた、あのころの彼女。
信号が赤になるたびに、短い距離が長く感じる。通り過ぎる街の中は、どのビルにも灯が灯り行き交う人が足早に過ぎていく。そんな街の雑踏を抜け、静かな公園の奥にある駐車場の入り口のボックスの中に彼女はいた。
昼間は営業に疲れたサラリーマンや、公園に遊びに来る親子が車をとめる。出入りの激しいその駐車場の奥、何度となく車の中で話しをしたのだろう。夢中で取り留めの無いことを話し出す彼女の白い指は、いつも組んでは離し、放しては組んでを繰り返していた。
こんな時間になれば当然、駐車場の入り口は既にチェーンがかけられている。時折、横の阪を下る車のライトだけが、微かな灯だった。
駐車場の入り口に、頭だけを突っ込むようにして車を留め、電話ボックスにゆっくりと近寄った。ボックスの中でうずくまっている彼女を脅かさないように。
野良猫のように丸まっている彼女が、顔をあげ俺を確認した。無理な笑いを作ろうとしたその顔は、しばらく見ない間に幾分が痩せたしまったようだった。
「ごめんなさい。」
そう小さく呟いて、ボックスの中から静かにでてきた彼女。もう、それ以上は何もいわなかった。
fin.
変わる風景の中に、忘れられないでいる思い出がある。記憶が薄れていく中、ふと思い出す一こまの町の風景。
消えていく風景の中、消したくない記憶と想いを、人はどうやって残していくのだろう。