朝焼けを見るために

神様からの贈り物。一瞬の時。

2006-08-01 09:42:54 | 流水子
5階から見下ろす夜も更けた街。繁華街からは少しだけずれた、通りに面した古いビル。角に建つビルの作りを活かし、二面の硝子からは、通りの疎らな灯りが、グラスキャンドルを灯したかのように、優しくゆれて見える。室内のトーンを低く落としてある。ガラスを背に設えてあるカウンターからは、振り向かなければ見えないが、数席しかおかれていないテーブルからは、フレームを縁取った、一枚づつのポートレートを掲げているかのようにさえ見える。広くはないスペースを、ゆったりと充分に使い、お互いの客が気遣うことなく、お酒と料理と雰囲気をたっぷりと楽しめるように配慮されている。
物腰の柔らかなバーテンダーが、私達女二人の客をバーカウンターに案内してくれた。
小さなダイニングバーのカウンター。程よく静かに灯りを落としてある店は、大人の落ち着きをしっかりと醸している。コンパクトにまとまったカウンターの中、端から3番目のキッチンスペースの前に座わった。テーブル席のオーダーだろうか、美味しそうな和牛のたたきが、お野菜と共に織部の皿に盛られていく。
案内してくれたバーテンダーが、ドリンクのメニューを差し出す。
「マッカランの12年を。」
迷っている私の横で、友達が迷わずオーダーする。いつもは、スコッチよりもバーボンを好むのに、今日はどうやらスコッチの気分らしい。
「いかがなさいますか?」
「スコッチを。何かお薦めで。」
シングルモルトのスコッチが一番好きなのだが、初めてのお店、ここは素直にバーテンダーのお薦めをいただこうと決めた。
「では、シングルモルツのスコッチで。アイラモルツのボウモアを。香りを楽しんでください。ストレートでよろしいでしょうか?」

「内緒の場所にしようね。」
秘密基地の穴蔵でも見つけた子供のように、友達が少しワクワクした声で隣でささやく。他の仲間には知らせないでおきたいそんなバー。気の許す友達とだけ来たい、そんな店。
「内緒にしときましょ。今度は、食事抜きでこなくっちゃ。目の前でこんな美味しそうなもの見せられたらたまらないわ。」
若い頃ならば、まだまだ目が欲しがるものを体の中に取り込むことが可能だったが、もうそんな芸当は到底不可能なことになってしまっている。楽しみは、又の機会に取っておく、そんな時間の使い方もできるようになったということなのだろう。
二席置いた隣に、年配のクールビズの似合っている紳士が二人、静かに呑んでいる。少し振り向きざまに、ガラスの向こうの灯りを覗く。煌びやかな夜景とは違う静かな街の灯が、ささくれ立ちかけていた気持ちに、ゆっくりと乳液をしみこませるように心の中に入りこんでいく。忙しさと、年齢からくる体調の不調、様々なストレスが平素さえも装えない程に、悪露のように体と心に張り付き始めていた。


香りを逃がさないために口先を少し絞り込んである、ストレートグラスにワンショットの琥珀色の液体が注がれる。大振の丸みを帯びたカットグラスのチェイサーが、先にカウンターに出され、そのあとゆっくりとそれぞれのスコッチが丸い織のコースターの上に置かれた。
個性の違う琥珀色を、小さなグラスを持ち上げながら、お互いに楽しみ一口口に含む。含んだ瞬間に広がる、シェリー樽の特有の香り、そのあとからまったりと口の中に広がる甘味を一口目から楽しむ。ストレートに入り込んでいくマッカランとは、また違う味わいがあった。
カウンターの中のバーテンダーの無言の問いかけに、笑顔を作り答える。薦めたスコッチに私が充分に満足したのを確認し、バーテンダーも笑顔で答える。
そんなやり取りが、バーで呑むお酒の楽しみ方のひとつなのかもしれない。チェイサーのよく冷やされたミネラルウォーターで舌を休ませながら、充分な時間をかけてワンショットのスコッチを味わう。


「あなたは淡白すぎるのよ。」
酔いが程よく回り始め、互いに遠慮がないだけに、ストレートな言葉のやり取りとなる。
「メンタルな部分を求めたいのよ。ただ動物のように抱かれるのは嫌なの。それ自体が好きではないもの。」
男と女の話題にいつの間にか移行していた。
「あら、私は好きよ。」
「えっ!初めて聞いたわ。」
「そうよ、好きよ。でも、今はだめ。」
「そうなの?」
「そう、ただ楽しむというだけなら、前の彼のほうがよっぽど良かったもの。また主人とは違うわ。」
「でも、ご主人にちゃんとあまえている。でしょ。」
「そうよ。全てを理解した上で結婚したんだもの。あなたは真面目すぎるのよ。その上、経験ってものに欠けてるの。」
そういうものなのだろうか、そういうものなのかもしれない。所詮男と女なのだから、考えずにその時間を楽しむという手もあるのだろう。少ない経験を頭の中でたどりながら、そんな時間の楽しみ方をしてきたことがあったのだろうかと記憶とたどる。
「メンタルな部分を求めるっていうけれど、そんなSEXをしてきたの?」
答える術がない。亭主にあまえを持っていかないのが、それを証明している。
「男と女なんて綺麗事じゃないわよ。」
「確かにそうだとは思うけど、そう思いたいもの。」
「もっと、エグくて臭みのあるものでしょ、そんなものじゃない。男だって、女だって。」
男にしてはしなやかな指を持ち、その指を無意識のに誇張して、私の視界に入れたのは誰だったのか、思い出そうとしたが無駄なことだった。


空になった、ストレートグラス。
「いかがなさいます。もう一杯いかがですか?」
食事を済ませてから来た私達の、会話の繋ぎ目を上手く見極めながら声をかけてくれるバーテンダー。
「じゃぁ、今度は18年を呑み比べてみるわ。」
隣で、二杯目をオーダーする友達。一杯目のマッカランよりも、熟成された深みをたたえた琥珀色が、別のストレートグラスに注がれ、カウンターの上でスマートに交換される。
私は、ボウモアの香りをそのまま、咽と鼻の奥に残したままにしておいた。
食事をしながら、グラスビールを二杯。このバーに移ってストレートをワンショット。いつもの量からしたら、考えられないほどに少なかった。酔いがまわっているわけではなかった。充分に酔いを楽しんでいるわけでもなかった。ただなんとなく、そうただなんとなくその店の雰囲気を楽しんで居たかった。
いつの間にか、カウンターの紳士達はお帰りになったようだ。次の客が入ってくるわけでもなく、静かにフュージョン系のサックスが低く音を落とし、店の中には流れている。
目の前の料理人は、おくらを丁寧に処理しながら、次の仕込みを黙々と続けている。次のフードオーダーの揚げ物は、仕上げのオーブンの中にある。バーテンダーはカウンターの中で、ロックアイスを丁寧に球状に削りはじめた。


音が消える、私の中の全てのネジに真っ黒い悪露がからみ付いてしまい、動作を阻止した。それはほんの一瞬の出来事に違いないが、私の中で血の流れさえも止まったかのように、心臓の鼓動の音さえも自分自身で感じられない一瞬がおこった。目は全ての色と明りを取り込むことを止め、眩暈とは違う不安を脳の中に叩きこもうとした。
「大丈夫。」
その声に、その一瞬が打ち破られ私の中に音と明りが戻った。
「何?大丈夫よ。」
「今、おかしかったわよ。」
「そう、なんでもないわ。大丈夫よ。」
脳の中に叩き込まれるところだった不安は、寸前のところで他に逃げていったらしい。年齢とともに訪れ始めた体調不良は、こんなときにも突然に襲ってくるのだろうか。
「今日は、帰りましょ。疲れているのよ。楽しみは又に取っておくべきよ。」
「なんだか勿体ないわ。」
「だんだん楽しみは減っていくのよ。楽しみは楽しいと感じるうちに終りにして、次の楽しみのために、また明日を迎えるのよ。」
「そうね。」
一瞬止まった時間は、いつの間にかまた変わることなく動きだしていた。ガラスの外の疎らな灯は、テーブルの上のキャンドルグラスの灯と重なっている。亭主ではない、別の男性のシルエットが目の前を横切った。コートの上からでも、そのぬくもりを感じた、初めて腰に回され抱き寄せられた腕の感覚が甦った。
「ちょっと、顔を直してくるわ。」
カウンターを降り、ドレスルームに向かう。鏡に映った自分の顔を見る。少し乱れた髪を直しながら、鏡の中の自分のその向こうにいるもう一人の自分を見た。
「何も変えることができないの。今のまま・・・」
そう、呟いていた。



           fin



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