渡来人と帰化人
先日、家内とドライブがてら一度訪れてみたいと思っていた高麗神社(埼玉県日高市)」行ってきました。高麗神社は、渡来した高句麗の王族、高麗王若光(こまのこぎしじゃっこう)を守護神として8世紀前半に創建された神社です。
高句麗と言えば、韓流ドラマにもなった「朱蒙(チュモン)」によって紀元前1世紀に建国され、4世紀後半、広開土王・談徳が王位についた全盛期には、朝鮮半島北部から中国東北部の広い地域を領有した東アジアの強国でした。その後も再々の隋、唐の侵略も防御し、7世紀半ばまで栄えますが、後継者争いから内紛が生じ、ついに新羅・唐連合軍により668年 首都平壌が陥落し、その700年の歴史を閉じました。滅亡の2年前、大和朝廷に向けて、国家の危急を伝える外交使節が派遣され、そこに随行していた一人が後の高麗王若光です。高句麗の命運を託され渡日した若光ですが、その後 二度と故国の土を踏むことはありませんでした。高句麗滅亡の前後、多くの高句麗人が新しい安住の地を求めて日本列島各地に渡り、彼らの技術、知識を持って各分野で登用されたようです。若光は、朝廷より従五位下の位と王(こぎし)の姓を与えられ、高句麗人1799名とともに、武蔵国に移住し、高麗郡を創設しました。高麗郡は、明治29年に入間郡へ併合され、その名は消えましたが、今の日高市,鶴ヵ島市、飯能、入間、狭山、川越市の一部にまたがる緑豊かな土地で、程よい高さの山並みが見渡せる地域です。やや高台から周囲を眺めた時、半島からの渡来人たちがどこか懐かしく感じたられる風景が、そこにあったかもしれません。
特に4世紀から7世紀の間、大陸、半島から多く日本に移住したと考えられていますが、そのずっと以前、縄文時代後期から人や物事の往来はあったことでしょう。彼らを、歴史的用語として戦前は「帰化人」と呼び、戦後は「渡来人」と呼ぶのが一般的であるようです。用語の時代的、意識的背景は別として、渡ってきた人々の血や文化は、しっかりと土地に溶け込み脈々と受け継がれて行くことは間違いないでしょう。
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