震災後の3月末、「赤プリ」の愛称で親しまれたグランドプリンスホテル赤坂がひっそりと55年の歴史と共に閉館しました。その立地条件や高級イメージから、80年代のバブルの象徴として、若者の憧れのホテルでした。当時、クリスマスシーズンは、高級ホテルやレストランで過ごすと言ったスタイルが流行し、特に「赤プリ」は数か月前には、予約でいっぱいになるほどの人気だったようです。そもそも赤坂をはじめ‘プリンスホテル’の名は、日本の敗戦に伴い、占領軍によって没収された旧皇族の土地がサンフランシスコ条約にて日本政府に返還された後、安価で購入し、ホテル事業を展開したことに由来します。そして「赤坂プリンスホテル」旧館は、李氏朝鮮王族であり、大韓帝国最後の皇太子 李垠(イ・ウン)の邸宅を改装したものです。
李垠は、1910年日韓併合後、朝鮮の皇太子(王世子)となりましたが、李王家は王侯族として、日本の皇族に準じる待遇を受けました。勿論これは同化政策(内鮮一体)の一環です。日本で教育を受け、陸軍士官学校を卒業後した後、梨本宮方子(李方子)と婚姻しました。彼女は当時の皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御妃候補とも言われた人で、これもやはり政略上の結婚です。朝鮮王族として生まれながら、時代の流れの中で翻弄されつつ、それでも韓日の架け橋としての役割を果たそうと苦悩する夫婦の姿は、日本でドラマ化もされました。(虹をかける王妃、2006年フジテレビ)日本の朝鮮統治時代、皇族として東京で生きる二人の子供として、1931年 李玖(イ・グ)が生まれます。李玖が14歳の時、終戦を迎えますが、王政復古を望まない李承晩政権は、彼らの帰国を認めませんでした。そして敗戦により王皇族の地位と日本国籍も喪失し、在日韓国人として、邸宅や資産を売却しながらひっそり生活しました。
子息の李玖は、学習院を卒業後、支援を受けマサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学びます。やがてアメリカ人女性と結婚し米国籍に帰化しました。離婚や事業の失敗など、平穏とは言えない人生の中、一時に韓国永住帰国をしますが、結局馴染めず、最後は邸宅のあった赤坂プリンスで生活し、そこで生涯を閉じます。時代が時代なら李氏朝鮮王となるべき李玖が最後に安らげる場所は、そこしか無かったのでしょうか。