‘冬ソナ‘に始まる韓流ブームの到来、2002年のサッカーワールドカップ共催などをきっかけに、近くて遠い国と言われ続けてきた日本と韓国の関係も、文化、民間レベルでの交流という点では、随分 身近になったと感じます。しかし一方、政治や歴史問題が絡むや否や、相変わらず、韓国側の責任追及の声に対して、日本では‘もう、うんざり!’という反応の繰り返しです。最近の日本では、それが国内の停滞感と韓流への反発、韓国企業の台頭による輸出部門で日本企業との競争の激化等と相まって、一部では‘嫌韓’感情にまで発展している観があります。両国の首脳会談があるたび、そんな現状を考慮してか、‘未来志向による関係の構築’という言葉が頻繁に用いられますが、果たして謳い文句だけに終わっていないでしょうか。
やはり、過去を直視せずに、未来志向は考えにくいと思います。それは、また、一方的な反省とか、追求ではなく、過去の事実をできるだけ客観的に分析し、その中で、お互いの立場から主張する部分は主張し、共有できる価値観は認めるという姿勢です。例えば、日本による朝鮮の植民地時代に対して、どれだけの人が、正確に内容を知っているか疑問です。1910年から45年年までの35年間、統治政策のもと最大75万人の日本人がいたと言われます。そんな所謂 在朝日本人についての記録や検証もほとんど紹介されたことはありません。(植民地朝鮮の日本人、高崎宗司著) このように実際に歴史の舞台にいた人々に視点をあて、双方の立場から議論することが、結局は真の理解に繋がると考えます。
東洋経済日報でも以前取り上げられた、来年夏公開予定の映画「道~白磁の人」の主人公 浅川巧(あさかわ たくみ)は、植民地時代の挑戦で、林業技師として山林の緑化復元に貢献しただけではなく、白磁に代表される朝鮮工芸の美しさを伝え守り、40歳の短い生涯を半島で終えた人物です。彼が、朝鮮の人々に慕われ、その死を惜しまれたのは、その業績のみではなく、チョゴリ(韓服)を着て、朝鮮語を話しながら、当時、植民地化では当たり前な、強制的な態度や、差別意識を持たず、朝鮮の文化と人を尊んだ生活によるものでした。浅川巧が京城(今のソウル)に設立した朝鮮民族美術館が、現在 京福宮にある国立民族博物館の前身と言われます。