本音と建て前
韓国人が日本人との付き合いで、よく口にするのが、日本人の本音と建て前についてです。例えば、「いつでも、家に遊びに来てと言われて訪ねて行ったら、迷惑がわれた。」などです。些細なことですが、日本に来てやっと日本の友達ができたと喜んだ留学生たちにとっては、ショックのようです。しかし、人を積極的に家に招待する文化がないうえ、付き合いも少しずつ親密になっていく形が多い日本人と、初めてあっても、その場で自分をさらけ出して親しくなる韓国人とのギャップはあって当然のことでもありますから、これがイコール心に表裏があるように捉えられるのは、日本人には心外でしょう。日本人の表現の中で、しばしば外国人からわかり難いと言われる部分は、日本の村社会が、権力者を中心に住む場所を守ってきた実利的組織社会の中では、他人との争いを避ける潤滑油やクッションの役割をしてきたのではないでしょうか。イエス、ノーをはっきりさせずに、どちらとも取れる表現も多いのも、その分、集団の中で調節機能が働く前提があるからです。よく言えば組織の中での順応力、包括力が高く、悪く言えば個々の責任は曖昧であると言えます。「すみません。」と言っても謝っている訳ではない場合が多いですから。同じ感覚で日本人が、韓国で「ミヤナムニダ。」を連発すると、何を謝ってるんだ? と誤解されますよ。 19世紀後半の米国の高名な物理学ローランドは、優秀なのに謙虚な正確で知られていました。ある裁判で専門家としての証言を求められ、弁護士に「この国で最高の物理学者は誰ですか?」と言う質問に すぐ「私です。」と答えました。あとで友人に、君らしくないと言われて 曰く「仕方なかった。真実を述べると宣誓したのだから・・」これも本音と建て前ですかね。