2009年に韓国で上映された映画「TSUNAMI」。まるで今回の三陸沖で発生した東北・関東大地震を予知するような内容でした。地震の恐ろしさは神戸阪神大震災で、身にしみて経験しているはずの日本の人々にも、津波の脅威、破壊力には改めて、愕然とするしかありません。地震が発生して僅か20~30分で押し寄せる津波には、幾ら、普段から教えられ、訓練や案内などがあったとしても、迅速に対応して、安全な場所まで退避できるかどうか考えてしまいます。ましてや、老人人口の多い、東北の漁村や農村であれば、いくら逃げたくても、若い人のようには動けません。はるかに想定を超えた10m以上の波が、瞬く間に町全体を飲み込んでしまう映像を目のあたりにすると、虚脱感さえ覚えます。
今回、地震、津波に対する韓国での報道をみると、最初はその凄まじさ、悲惨さを伝えるものが多かったようですが、数日たった今、むしろその関心は、被害を受けた人々の冷静さと、忍耐力への驚きにあります。避難所で極限状態にある人々が、誰も不満一つ言わず、家族を亡くした人でさえ、周囲への動揺を考え大声で泣くことを控え、また配給された食料を譲り合い、静かに列を成して順番を待つ姿は、海外の記者には奇異にさえ映るようです。韓国の民衆は、その地理的な条件から、侵略や、そこから引き起こされる内乱など、人間による災難を多く経験してきました。一方、外憂はないものの、己が立っている大地が揺れ、人間が創り上げたすべてを一瞬で破壊し、無にしてしまう地震を、誰よりも多く体験してきた日本人。「運を天に任し、今を大事に生きる。」といった諦めと、ある意味悟りにも似た価値観は、地震などの人智が及ばない天災に多く見舞われた歴史や風土も関係し、何かしらの災難を受けた時、韓日の人の感情表現に違いがあるとすれば、‘災難の遺伝子’の違いからくるのかも知れません。