子供のころ読んだ吉川栄治の小説「三国志」で劉備が母の為に、当時、非常に稀貴なお茶の葉を買い求めようと、働いた給金の全て叩いたうえ、それでも足らずに家宝の刀まで差しだす場面がありました。これは、「三国志演義」にはない話で、吉川栄治が聖人君子として描かれた劉備の誠実さを表現しようとして創作した内容のようです。この話を読んだとき、私個人的には劉備の孝心以上に、命に代えても母に飲ませたいと考えたお茶に対する当時の価値に興味を持ちました。茶は、インドから広がり、中国の広州に伝えられ、当初は薬として用いられましたが、漢の時代を経て、唐の時代に一般的に飲まれるようになりました。日本や朝鮮半島に初めてお茶が伝えられたのもこの時代のようです。
遣唐使によって日本に伝えられた茶も、国内で広まるようになったのは、平安時代末期 宋に留学していた栄西が茶の種を持ち帰り、京都などに植えて栽培してからでした。こうして鎌倉時代末期には、相当普及し、茶の産地をあてる「討茶」という遊びが武士の間でおこなわれていたという記録があります。茶はその後、室町時代を経て、‘禅’と融合し、遊興や儀式から、侘(わび)という精神的な茶道に昇華していきます。現在に伝わる日本の茶道は千利休によって完成され、その弟子たちによって継承されて来ています。
一方、朝鮮半島でも、唐から新羅の善徳王の時代に茶種が伝えら智異山に植えられたという記載があります。(三国史記)新羅時代は、「花朗」という当時のエリート集団を中心に煎茶を嗜む習慣が盛んであったようです。高麗時代になり、禅僧の僧侶たちにより、宋の茶道が伝えられ、やがて高麗風の茶の作法として変化していきました。これは、煎茶ではなく、抹茶であり、一日3回の供茶を行ったというところは、中国よりもむしろ日本茶道に近いとも言えるかも知れません。
朝鮮半島にも、このような茶の歴史があるにも関わらず、「東アジアで喫茶の風習を唯一もたなかったのが、朝鮮民族だった。」(『韓国民族への招待』崔吉城)などと一般的に認識されたのは、‘茶’に関連する書物がほとんど残されていない事と、日本の表千家、裏千家のような茶道を伝承する家元が存在しない為だと考えられています。現在韓国でおこなわれている茶礼は、逆に日本の茶道の影響を多く受けているものでしょうが、そこからまた、独自の作法、茶文化が生まれて行くことを期待します。