昔の西部劇で私が好きな作品の一つが「シェーン(SHANE)」です。ラストでジョーイ少年が悪役を倒して馬に乗り立ち去る主人公のガンマン、シェーン(アランラッド)に「シェーン、カムバック!」と叫ぶシーンは有名で、ご存知の方も多いのではないでしょうか。1953年に公開された映画で、あらすじは、一匹狼の流れ者が堅気の家族に世話になり、その家族を苦しめる悪者一家とたった一人で対決し、暴力の世界に身を置く自分のために家族に迷惑がかかることを避けて再び旅に出るという、至ってわかりやすく、所謂 浪花節的なところも含めて私のような中年親父には素直に感情移入できる内容です。さらに抒情的な音楽と、広大なアメリカの自然の映像が調和し、単純な銃撃戦を中心とした西部劇というより、繊細な人々の感情や生活を描いた秀作です。一方、この映画を1890年の開拓地ワイオミングという時代背景から改めてみると、悪徳牧畜業者として描かれているライカー一族は古くからこの土地に住み着き、荒野を開拓し牧場をつくった人々で、その後移り住おんできたスターレット家などの開拓農民たちとの土地の所有権を巡る争いが焦点であるわけです。
人間が狩猟をしながら移動して生活していた時代から、牧畜や稲作が始まり、一か所の土地に定住するようになると、家族も仲間も増え、その為土地を守るため、或いはさらに良い土地を確保し収穫を増やす必要が生じました。槍や弓も最初は、獲物を取るための道具でしたが、やがて土地や仲間を守り、相手を攻撃するための人間に対する武器と変貌していったのです。一地域での土地争いに勝った集団が徐々に人と土地を吸収して大きくなり部族を形成し、やがて多くの部族を従えた勢力が国を形成していきました。人間が土地に対して所有欲を持つことは、そのまま国が領土欲を強く持つことと同様、必然的なものなのかも知れません。お互い海を隔て、直接隣接していない韓国、日本、中国などでさえ島や岩礁を巡って領土権を争っているのは、漁業権、海底資源などの実利的な問題が根底にあるでしょうが、土地に対する人間の本能も無視できない気がします。
暴力を持ってしても自分が開拓した土地への侵入を許さないライカーが、開拓農民のリーダーであるジョン・スターレットに対して己を正当化するように「俺たちがここを見つけ、血を流し腹を減らし国をつくった。リスクも苦労もしていない人間に権利はない。」と言い放ちます。しかし、ジョンが「あんたら以前にもこの国を飼いならした人々がいる。」と暗に先住のインディアンのことを言いますが、それには答えられない矛盾には気づかないようです。