ソウルの正宮である景福宮(キョンボククン)の南門、光化門一帯は、朝鮮時代以後、歴史と政治の心臓部の役割を担ってきた。この場所に2009年にオープンした光化門広場には、韓国人が最も尊敬する二人の人物の銅像がある。世宗(セジョン)大王と李舜臣(イ・スンシン)将軍である。1418年朝鮮王朝4代国王に即位した世宗は、様々な学問に対する博識と分析力に秀でた人物で、ハングル文字の発明をはじめ、民衆の生活に役立つ発明をし、
韓国の歴史上もっとも優れた君主として1万ウォン札に肖像が描かれている。光化門も「王の大きな徳が国を照らす」という意味である。一方、李舜臣将軍は、豊臣秀吉による朝鮮侵攻(壬辰倭乱、文禄 慶長の役)で20万近い圧倒的な日本軍勢に対し、劣勢の朝鮮海軍を率いて多くの海戦に勝利した救国の英雄だ。しかし、韓国ギャラップ調査でも常に歴史上の尊敬する人物トップの李舜臣将軍と次点の世宗大王を比べると、前者は輝かしい戦歴や武功伝承と同時に、苦悩と悲劇性が伴い、そこがまた韓国人の恨(ハン)の心を揺さぶらずには居られない存在である。実際、李舜臣の生涯は決して華やかで、英雄としての待遇で彩られたものではなかった。豊臣秀吉の明国制圧の野望のもと、1592年に釜山に上陸した小西行長をはじめとする軍勢は瞬く間に釜山鎮を陥落させ破竹の勢いで北上、半月余りで首都漢城(ソウル)に占領する。朝鮮国王もやむを得ず、都を捨て平壌からさらに北に向けて避難する。朝鮮の命運も尽きようとしたその時から、李舜臣の戦いは始まる。友人で朝廷の中心人物でもある柳成龍の推挙で、47歳で全羅左道(チョンラジャド)海岸防衛の長官・全羅左水使に7階級特進で任命された彼は、釜山の東南、巨済島(コジェド)玉浦(オクポ)に停泊していた藤堂高虎が率いる日本水軍に奇襲をかけ、二六隻の船を喪失させ朝鮮軍の初勝利を挙げる。此の後6年、途中同僚の元均に陥れで獄に繋がれ、白衣従軍(一兵卒として従軍)として過ごした時期も経て、再び最高司令官・三道水軍統制使に復帰し最期の戦いとなる露梁海戦に臨み、敵の銃弾を受け亡くなるまで朝鮮軍の海の城壁であり続けた。
今回紹介する映画「ハンサンー龍の出現」は、初戦の玉浦海戦からおよそ2か月後、日本水軍脇坂安治との巨済島先 閑山(ハンサン)島沖での海戦を描いた作品である。この映画は、キム・ハンミン監督自らが企画した‘李舜臣の海戦 三部作’の一作目で、韓国で1700万人動員と記録的ヒットになった前作「バトルオーシャン 海上決戦」(2014)に続く第二部である。前作は戦乱末期1597年の鳴梁(ミョンリャン)海戦を描き、この時50代の老獪で貫録を備えるも、長い戦乱と同僚の裏切りからか、苦悩と疲弊がみえる将軍を名優チェ・ミンシクが演じた。今回は遡ってその5年前、任官し数カ月、指揮官としての経験は十分ではないが、思慮深さと胆力を兼ね備えた壮年期の李舜臣を、今最も注目の俳優パク・ヘイルが演じている。その他、李舜臣最大に好敵手として登場する脇坂安治役のピョンヨハン、己の命を犠牲に日本軍をおびき寄せる囮を志願するオ・ヨンダム老将役のアン・ソンギなど、いつもながら適材適所の俳優陣の演技には瞠目する。そして、何より歴史的な一戦でありながら、正確な資料の乏しい「閑山(ハンサン)島海戦」を入念に検証し、最先端のVFXとアニメーション技術で、圧巻の「海で撮影しない初めての海戦映画」として完成した。
6年にも及ぶ戦乱中、映画でも登場する ‘降倭’と呼ばれた投降日本兵も数多くいた。として記録に残り、後に朝鮮王に認められ金忠善(キム・チュンソン)の名と官位を授かった‘沙耶可’もその一人だ。彼らの子孫は今も半島で生きている。一方、司馬遼太郎の短編「故郷忘じがたく候」の主人公 薩摩焼第14代陳寿管のように日本に連行され、先祖の血と技術を受け継ぎながら生きる人々も。戦った武人以上に多くの人生に影響を与えた侵略であった。