劇作家、評論家のバーナード・ショーは生前「若さというものを若い人に持たせておくことはもったいない」と言っています。情熱やエネルギーに溢れていても、経験や知識が伴っていない若者に対する皮肉と嫉妬が込められた言葉でしょう。しかし、最近 前の世代に比べ 物質的には豊かと考えられる国々で若い 彼、彼女らの生き方や意識に従来とは異なる変化が起きているようです。
数年前から韓国で今の若者を称して、「三放世代」という表現が使われています。三放とは、「三つを放棄すること」を意味し、その三つは「恋愛」「結婚」「出産」を指します。(さらに「五放世代」となると、これに「マイホーム」と「人間関係」が加わります!)戦後、日本植民地からの独立、朝鮮戦争を経て南北分断、韓国では軍事的独裁政権下での経済的復興、民主化といった激動の時代を生き抜いてきた祖父母や親世代。そして88年ソウルオリンピック開催を経て中進国から先進国の仲間入りをしようという時期での通貨危機も何とか乗り越えてきました。しかし、ここ数年は雇用なき経済成長といわれ、目に見えない社会の格差拡大の中で若者にとっては政治的、経済的困難を経験した親世代以上の停滞感や閉塞感を感じているようです。 ある程度の高等教育を受けても、それに見合う就職はできず、老いていく親の姿を眺めつつも一人立ちは儘ならない現実のなかで、恋愛し自分の家族を持つことを放棄せざるを得ない世代ということでしょうか。一方、日本の若者にたいしても最近は「さとり世代」という表現があります。これは、「高望みをせず、恋愛にも淡泊で、友人関係でも空気を読むような人が多い20代(「さとり世代――盗んだバイクで走り出さない若者たち」原田曜平)」を称したものです。社会学者の古市憲寿氏が著書『絶望の国の幸福な若者たち』でも述べる様に、親世代や第三者と比較してより豊かな生活をしようといった目標もなく、未来に明るい希望は見えないがそれなりに幸福で現状に満足している若者像が悟りといわれる所以のようです。
「放棄つまり諦めの次に来るものが悟りの境地」と考えてよいものかは私にはわかりません。血気盛んで諦めない老人と、静かで悟った若者の社会が現実の未来なら、まさに絶望の国です。