「百聞は一見に如かず」インターネットが発達して世界中の出来事がはるか離れた所にいながら動画や画像で見ることができる時代でも、否、そんな時代だからこそ、メディアを通して伝えられる情報への考察、自分の目で直接確認することはより必要だといえます。しかし、自分が目の前で見ている事象が、誰がみても同様に映っているでしょうか。職業柄、人の顔は目、鼻、アゴなど部分的なパーツとしてだけでなく、全体的なバランスとして捉える習慣があり、そこには統計的な数値を基準にした評価があります。女性の場合、毎日鏡の前で化粧をする為、誰よりも自分の顔は熟知しているはずですが、意外と左右差やバランスに関しては気づいていない、あるいは全く逆の認識をしていることも少なくありません。実は人間の視覚とは光の反射を捉えて脳の中で映像として構成しており、同じものを見ていても人によって見え方(認識され方)が異なっている可能性があるということです。
その為、ある個人の評価には第三者の意見が必要であるように、国の評価も外国人の目を通してどのように映るかは耳を傾けるべきところです。しかし、日本と韓国は最も近い隣国ながら、過去の浅からぬ関係からお互いの評価には感情的な要素が加わり、むしろ第三者、特に欧米からの視線には敏感になるところです。長い鎖国時期から、諸外国の圧力を受けて漸く開国した李朝末期に英国の女性旅行作家として朝鮮に訪れたイザベラ・バード(Isabella Bird Bishop, 1831~ 1904)の紀行書は、当時の朝鮮を知る貴重な資料の一つとして韓国でも暫し引用されています。また同時期日本や清にも訪問しており、比較文化の面でも参考になります。「知能面では、朝鮮人はスコットランドで「呑みこみが早い」といわれる天分に文字どおり恵まれている。その理解の早さと明敏さは外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す」「朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかにりっぱである」朝鮮の人々に対するこのような評価の反面、彼女の目に映った当時の朝鮮という国の体制は否定的なものでした。無力で無責任な王族、腐敗した両班階級による搾取、そんな社会体制で意欲を失った庶民の生活、さらに儒教的道徳という名のもとで虐げられる女性たち。
イザベラ・ハードは朝鮮の現状から、外部による改革の必要性に対しても言及しています。勿論それは侵略や植民地支配を肯定はできません。しかし、この本が韓国内で多く読まれ、一部の教科書にも掲載されているのは、例え誇るようなものでない、恥ずかしい過去であったとしても「歴史を記憶できない国民は、その過去を繰り返すほかはない(サンタヤーナ)」という言葉の重みを知っているからでしょう。