いつもの金曜日

2024年04月26日 21時03分45秒 | 介護

 今日は一日曇っていました。

もう寒くは感じなくなってきていましたが、夜になって少しひんやりしてきました。

 

 

 朝のお散歩より

 

 

教会の庭でスズランを見つけて嬉しくなりました。

 

スズランって本当にかわいい

どうしてこんなにかわいらしい形なのかしら~

 

 

薄日に透けてきれい。

 

 

北の空は薄雲がかかっていて

南の空を見ると

彩雲

これはアークですね。

いずれにしても嬉しかったです。

おめでたい現象ですね~

 

 

 

 

 

ママ友ガーデンの朝陽の射す庭

 

 

 

 

光がきれい。

 

 

バラが本格的に咲き始めました。

 

 

 

我が家のお花

 

クンシランもバラの「シェヘラザード」も太陽の光に透けてきれいでした。

 

柏葉紫陽花が日に日に大きくなっています。

 

 

 今朝の母のお食事はパン粥とコーヒーとこのムース食(2回目使用)。

でも、ムース食は嫌がって食べず

「美味しくない、辛い」そうです。

(あとで食べてみましたが、そんなことはなく美味しいと思いましたが)

 

その後、眠かったようで、早々にベッドに戻ってしまいました。

 

 

 今日の果物

ゴミ捨てがてら・・・

芍薬が見事

我が家はまだ蕾です。

 

我が家のバラ

 

長雨で傷んだのか、なかなかパッと綺麗には咲きません。

 

お昼用にエビフライとタルタルソースを作り、

お香を焚いて、しばし読書タイム。

友人にもらったあずきがあったので、お団子も作りました。

 

こんにゃくと酢味噌も。

でも、結局、お昼は食べず。

看護師さん、リハの方が帰られた5時半から食べ始めました。

夕食はいなり寿司。

2個、食べました。

エビフライもお団子も小さくカットしてそれぞれ食べました。

 今日の母は寝る時間が多かったものの、まずまず。

舌や口の中が気になるのは相変わらず。

異常なほど触り続けています。

止まりません

寝ている間には、よだれで服もシートも汚れてしまいました。

口を開けていたせいか、あるいはパーキンソンで口の筋肉が弱くなってきているのかも・・・と思いました。

 今朝、面白いと思ったのは母が「今日はおやすみ」と聞きました。

聞けば、母はショートに行くのを仕事か何かと思っているようでした。

 一時期に比べれば、安定しているこの頃の母。

今日も恙なく一日が終わりそうで感謝です。

 

 

 

 

 

 

★致知一日一言 【今日の言葉】2024.4.26

 

持続力こそ真の才能

 

10年、20年、30年、
同じ姿勢で、同じ情熱を
傾けられるのが才能だと思う。
━━━━━━━━━━━━━━
羽生善治(将棋棋士)
○月刊『致知』2018年3月号
特集「天 我が材を生ずる 必ず用あり」より
━━━━━━━━━━━━━━

●とびきりの秀才が鎬を削る棋界では、
優れた頭脳を即ち才覚と捉えがちですが、
そうではないと羽生氏は言います。
持続力こそ真の才能であるとの言に、
大成する人の真骨頂を見る思いがします。

●〈取材秘話〉「羽生善治×小林研一郎 
三十年の交流が生んだ魂の呼応」
こちらからお読みいただけます
https://www.chichi.co.jp/web/20230306_habu_kobayashi_report/

 

 

 

 

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真善美とは?なぜ3つで1セットなのか。


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こんにちは。バラ十字会日本本部の本庄です。


━…………………━

文章を以下に転載していますが、タイのパタヤの「真実の聖域」の写真、「真善美」の旧字体のイラスト、ラファエロの絵画「アテネの学堂」の拡大図などが掲載されていますので、下記のリンクをクリックして、公式ブログでお読みください。

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(真善美とは?プラトンの哲学と生き方との関連を解説|なぜ3つで1セットなのか)

━…………………━


二十四節気のひとつ「穀雨」という名の通り、今週、東京板橋では雨が多く降りました。


いかがお過ごしでしょうか。


◆ 真善美とは何なのか、どういう意味なのか?

真善美とは何かということについて辞書を調べてみると、おおむね次のように書いてあります。


人間には正誤を判別する能力(知性)、自分の行動を決める能力(意志)、快不快を感じる能力(感情)があり、この3つのそれぞれに、妥当だと誰もが合意できる理想があり、それが真善美にあたる


何だか分かったような、分からないような説明ではないでしょうか。皆さんはどうお感じでしょうか。



真善美の中身、真善美の重要性をどう考えるかは、生き方と深く関わっているように思われます。

ですから、さまざまな哲学が真善美について議論してきたことは当然でしょう。


これからご説明していきますが、真善美が3つ揃いのワンセットと考えられるようになったのは、近代になってからのようです。

(写真:タイのパタヤに建設中の「真実の聖域」(ヒンドゥー教と仏教の寺院兼博物館))


◆ 古代中国の真善美

古代中国の人は「真」、「善」、「美」という字で何を表していたでしょうか。

調べてみると、ずいぶんと重々しいイメージでした。



「真」の旧字体は「眞」です。この字の上の部分「匕」は行き倒れた人を表わし、下の部分「県」はさかさまになった首を表わします

「匕」は「化」の元になった字で、肉が骨に変化することも表わしています。

全体として「真」は、人は必ず死んで骨になるという真実を表わしています。



「善」は、元々は「羊」の両側に2つの「言」を書いた文字だったそうです。

この2つは原告と被告を表わし、「羊」は、羊に似たある神聖な動物を表わし、それを用いて裁判が行われました。

善とは、勝訴した方を表わしたようです。



「美」という字は、「羊」と「大」からなります。「羊」は羊の上半身で、「大」は羊の下半身を表わし、「美」は、神へのいけにえにする羊が、まるまると太っている様子を表わしています。



いかがでしょうか。あまりすがすがしく感じられるイメージではありませんね。


(イラスト:真善美の旧字体)


◆ 古代ギリシャの真善美の考え方

古代ギリシャに源流がある西洋の真善美(Truth, Goodness, and Beauty)についての考え方は、真善美についての古代中国の観念とはずいぶんと異なっています。


・ 幾何学における真理

中学校の幾何学の時間に、ピュタゴラスの定理を学んだことを皆さんもきっと覚えていることでしょう。

ピュタゴラスは数学者であるばかりか哲学者であり、サモス(Samos:現在のトルコ沿岸にあるギリシャの島)の賢人と呼ばれていました。


幾何学はエジプトからギリシャに伝えられました。

そして、ピュタゴラス学派でもプラトンの学校(アカデメイア)でも、幾何学は、哲学者が必ず学ばなければならない分野とされていました。



私たちは学校の幾何学で、三角形の内角の和が180度であることを学びます。

しかし実際には、先生が黒板に書いた三角形も、自分がノートに書いた三角形も、3つの角度を測って加えても、正確には180度にはなりません。


なぜかといえば、人が引く線は必ず少しは曲がりますし、黒板もノートも正確には平らではないからです。

幾何学で考えている三角形は、黒板やノートに書かれたような現実世界にある三角形ではなく、「三角形そのもの」、つまり理想的な三角形です。



ここで、ちょっと考えていただきたいのです。

この理想的な三角形とは、いったいどこにあるのでしょうか。


現代の私たちが普通に考えると、それは観念であるので、頭の中にあるというのが答えでしょう。


では、あなたの頭の中にある理想的な三角形と、他の人の頭の中にある理想的な三角形は同じなのでしょうか。

もし少しでも違うとしたら、どちらの内角の和も180度だと、なぜ確実に言うことができるのでしょうか。


ちなみに、文明を持つ宇宙人がいたとしたら、彼らの幾何学(平面幾何学)でも三角形の内角の和は180度だということはおおむね確実です。


・ イデア界とプラトンの哲学における真実

このようなことから、古代ギリシャのプラトンの学校では、理想的な三角形は頭の中にあるとは考えられていませんでした。

「三角形そのもの」は「三角形のイデア」と呼ばれ、イデア界という場所にあると考えられていました。

(写真:ラファエロ作の絵画『アテナイの学堂』(中央部の拡大)。左がプラトンで、右がアリストテレス)


イデア界には、時間も空間もないと考えられていました。

つまり、永遠であり無形の世界です。


そして、イデア界は現実世界のおおもとであるとされました。

つまり、イデア界こそが根源的に存在する原型であり、五感でとらえている事物の世界は、そこから作られた出来の悪いコピーのようなものであると考えられたのです。



植物の例で考えるとこうなります。咲いているひとつひとつのハイビスカスの花は、花びらの形が少し歪んでいたり、色が部分的に抜けたりしています。

しかし、個別のハイビスカスのおおもとになる、完全なハイビスカスの原型があり、現実のハイビスカスは、それが物質の世界にコピーされたものだと考えるわけです。



この話から、遺伝子のことを思い浮かべる方もいらっしゃることでしょう。

しかし、古代ギリシャ時代に遺伝子は知られていませんでしたし、もし知られていたとしても、単なる物質に過ぎない遺伝子は、イデアだとは見なされなかったことでしょう。

(写真:ハイビスカスの花)


・ 美のイデアと善のイデア、哲学という生き方

このイデアという考え方は、どんどんと拡大解釈されました。

たとえば、「ある人の顔が美しい」ということを考えたとします。

「ハイビスカスの花が美しい」という場合とは、主語が違いますが述語は同じです。



現代では多くの人が、2つの場合に「美の観念」が共通していると考えます。

一方、プラトンの学派では「美のイデア」があると考えられていました。

つまり、イデア界に「美そのもの」が実在し、それが美しいことの原因であると考えられました。



プラトンの学校では幾何学が極めて重んじられていました。

それは、幾何学の勉強がイデアを実感するきっかけとなり、最高のイデアである「善のイデア」を見ることができる訓練となると考えられたからです。



このような考え方を馬鹿馬鹿しいと感じられるでしょうか。いえ、なかなかそうとも言い切れません。

たとえばプラトンは『国家』という著作で、イデアの考え方をもとに、民主制や他の政治システムについて検討を行なっています。


そして、民主制の欠点は衆愚政治に陥りやすいことだというような、現代にも十分に通用する耳の痛い結論を出しています。

そして、国を統治するのに理想的な人は、「善のイデア」を見ることができる哲学者だとしています。



プラトンの『国家』を読むと、そこには「生き方」という語が何度も登場します。

プラトンは哲学のことを、魂が持つ徳を高めるための方法であると考え、徳を高めていくことが、唯一の生きるに値する生き方だと考えていました。



プラトンの著作には、2600年ほど前に書かれたにもかかわらず、現代の私たちをうならせる数多くの優れた議論が含まれています

関連記事:「政治について」(バラ十字会AMORCフランス代表のブログより)

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M1116608&c=3304&d=ed84


◆ カントの哲学と真善美、生き方の究極の目標

18世紀の哲学者カントは、イデアの考え方と真・美・善の根拠を哲学的に分析して、真理については『純粋理性批判』、美については『判断力批判』、善については『実践理性批判』という有名な三批判書を完成させています。



このうちの『純粋理性批判』によって、人類は初めて、数学的真理や、時間・空間の正体は何かということ、そして、人間の理性の限界をかなり正確に理解できるようになりました。



真実を知りたい、善を行ないたい、美しい心を持ちたいと誰もが思っています。

この意味で言えば、真・善・美は、私たちの生き方についての究極の指標にあたるのではないでしょうか。



このうち善については、このブログで以前に2回、テーマとして取り上げたことがあります。


関連記事:「学校の道徳の時間は退屈でしたか」

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M1116609&c=3304&d=ed84


関連記事:「善と悪について」(バラ十字会AMORCフランス代表のブログより)

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M1116610&c=3304&d=ed84


(写真:アンズの花の美)


◆ 真善美は、なぜ3つでワンセットなのか?

・ ドイツの心理学者テーテンスの説

真・善・美が、なぜ3つでワンセットなのかということには、テーテンスという18世紀のドイツの心理学者が一つの答えを出しています。


彼は人の心の働きを知(知性)・情(感情)・意(意志)の3つに分けて考えました。真・美・善は、この順序で、知・情・意に対応している理想です。

この心理学者は、先ほどのカントに影響を与えていると言われています。


・ ケン・ウィルバーのインテグラル理論

またケン・ウィルバーという現代のアメリカの思想家は、インテグラル理論というモデルを使って別の答えを出しています。


このモデルによれば、世界における自己のあり方は、個人的/集合的、内的/外的という観点から、4つ(または3つ)の領域にマッピングして考えることができます。



個人的で内的な領域とは、自分の思考、感情、意図、心理などのことを指し、「I」(私)で代表されます。


集合的で内的な領域とは、人間関係、文化、共通の価値観などを指し、「We」(私たち)で代表されます。


個人的で外的な領域とは、自分の身体、自分の行動などを指し、集合的で外的な領域とは、環境、社会構造、社会システムなどを指します。


最後の2つの外的な領域は、まとめて「It」(それ)で代表されます。



このうち、「I」という領域に表れる理想が「美」であり、「We」という領域に表れるのが「善」であり、「It」に表れるのが「真実」だとされます。


ちなみに、人間関係で生じる問題の原因の多くは、「I」と「It」の取り違えだそうです。



あなたが大切な人に、次のようなことを口にしたとします。

「何かを一緒にやっているとき、君はいつも批判的だね。」



もしかしたらこの言葉が、ひどい喧嘩のきっかけになるかもしれません。


このような言葉を発してしまう場合、自分の感情・意見と事実が無意識に混同されている、つまり、「I」の領域と「It」の領域が混同されていることが多いのです。



ですから、先ほどの発言は次のように言う方が望ましいということが分かります。


「何かを一緒にやっているとき、君にいつも批判されているように僕は感じるんだけど。」


きっと、この方が建設的な話し合いができることが多いのではないでしょうか。


△ △ △

以上、ややとりとめのない話でしたが、最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。

少しでも、あなたのご参考になる点があれば嬉しく思います(^^)/~



==============

■編集後記

先日、当会の理事会が開かれたハンガリーのタタ(Tata)です。古い建物と自然の豊かな町です

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4 コメント

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Unknown (ja5kirkir10)
2024-04-26 22:14:14
はじめまして〜です。
美しい花を見ていると、とても癒やされ励みになります。
ありがとうございます。
返信する
Unknown (ピエリナ)
2024-04-26 22:25:20
@ja5kirkir10 こんばんは🤗

コメントをありがとうございます。

山歩きがお好きなのですね。もしかして、お遍路さんもなさっているのですか⁉️

私の友人が昨年一人で歩いて回りました。
今年また2回目を始めました。
すごいとしか言いようがありません。

私も山が好きなのですが、体力がなくってとても歩くことがないので専ら、ご近所ウォーキングです😅
返信する
五葉木通 (アナザン・スター)
2024-04-27 13:39:40
こんにちは。
画像の中に、五葉木通を見つけましたが?
何処かの敷地か、道端でしょうか?

こちら方面には、三つ葉木通しかないと
思い込んでいました。

木通の新芽は天婦羅にすれば、蕎麦と合います。
山菜を活かして、最近は天婦羅三昧です。
田舎の暮らし、すてたものでもありません。
返信する
アナザン・スターさんへ (ピエリナ)
2024-04-27 17:54:22
こんばんは、アナザン・スターさん(^^)/

五葉木通がどのようなものかわかりませんでしたのでネットで調べてみました。
私の写真の中のどれがそれなのか何回か見てみましたがわかりませんでした。
この五葉木通が花を付けたり実が生ったりしたのを見たことがないので、益々、どれかしらと思いました。

山菜は美味しいですよね。
エネルギーに満ちています。
先日、タラの芽をもらいましたので天婦羅にしましたが、美味しかったです。
お塩で頂きました。

今の時期、街では筍、たまにわらびを見かけるくらいです。
しかも高いです

旬のものを新鮮なうちに食べられたり、収穫したり出来るのは最高の贅沢です

コメントをありがとうございました
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