海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

祖母の命日

2008-11-25 17:03:30 | 生活・文化
 11月24日は母方の祖母の命日だった。もう二十数年前、琉大祭の準備で忙しいなか学内で祖母の死を知らされ、夜遅くから先輩の車で今帰仁まで送ってもらってことを思い出す。海岸沿いの国道を北上する車のカーラジオでは、大雪の中で遭難した幼い兄妹のドラマをやっていて、親だったかが作ってくれた濃いコーヒーを持っていたおかげで睡魔に勝ち、救われる話が語られていた。
 『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK生活人新書)にも書いたのだが、祖母は貧しさのため幼くしてィエンジャ(借金の肩替わりに子どもを奉公に出すこと)に出され、学校に行くことができなかった。そのために終生、文字の読み書きができなかった。今帰仁村で生まれ育ち、屋我地島で暮らしたこともあったが、ずっとヤンバルで生活していたので、共通語を話したこともほとんどなかったと思う。私の記憶の中では共通語で話している場面は一度もない。手にパジチ(針突き)はなかったが、七十代に入って入退院をくり返す前までは髪も結っていた。
 最後に話したのは名護の老人療養施設だった。横になったまま話す言葉はろれつが回らなくなっていたが、そのときに一生懸命言っていたのは、ワンヤピンスーエッタシガヨー、イナグワラビタイコウコウマディヤラチャンドー(自分は貧しかったが、娘二人を高校まで行かせたよ)ということだった。祖母は六人の子を産んでいるのだが、四人は幼いときに病気と事故で亡くしている(疥癬とハブの咬傷、火傷)。
 沖縄戦の前に病気で夫(祖父)が死に、その後は女手一つでマースウヤー(塩売り)をして生計を立てていた。極貧の生活は続いていたが、自分に学問がなかったことの苦労が身に滲みていたのだろう。1950年代のヤンバルで娘二人を高校に行かせるのは並大抵の苦労ではなかったと思うが、それを適えたことは祖母にとって大きな誇りだったはずだ。
 子どもの頃、祖母の家に遊びに行くと、屋敷内にはゥワープル(豚小屋)があって、祖母がゥワーニムンカマスシ(豚に餌をやるのを)見て楽しかった。ゥワープルの木の柵に登り、ゥワーがばくばく餌を食べるのを眺めている自分の姿が目に浮かぶ。そして、小さなトゥングヮ(台所)でウムニー(藷を潰して砂糖や片栗粉を混ぜて練ったもの)を食べさせてくれた祖母の姿が。
 大学に入って那覇で暮らすようになると、祖母と会う機会もめっきり減った。大学一年の夏休みに帰省した際、祖母が病院に行くのに付き添った。バスに乗って県立名護病院(現県立北部病院)に行き、診察のあいだ廊下の長椅子で大岡昇平の『野火』の文庫本を読んでいた。帰りに病院隣のレストランで食事をしたのだが、メニューを見てよく知らないまま注文をしたら、中華風のチャンポンのような料理が出てきて、ドゥクマークネーヌ(あまり美味しくない)と祖母は言っていた。祖母と二人きりで外食したのはそれが最初で最後だったのだが、もっと気をつかって祖母が好きなものを選べばよかったのに…という心残りがある。
 大学二年の一月十五日に成人式を迎えた。一週間ほど前に村役場から、成人式で代表挨拶をやってくれないか、と連絡があった。成人式に出る気はなかったので断り、夕方からバスで今帰仁に帰って、高校の同級生達が開いた集まりに参加した。その前に祖母の家に寄り、スーツ姿で祖母と写真を撮った。それが祖母と一緒の最後の写真になった。
 父方の祖父母、母方の祖母がいつもすぐそばにいて、私は実に幸福な幼少年時代を送ったと思う。祖母が亡くなってから、どうしてもっと会いに行かなかったのか、という悔いが込み上げ、それは今でも年に何度か眠りから覚めたときなどにやってくる。帰るときにいつも祖母が口にしていた、マリケーティナーアシビガフーヨー(時々は遊びに来なさいよ)という声が耳によみがえる。その声だけは死ぬまで忘れないだろう。

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1 コメント

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ゥワーヌムンクァーサー (キー坊)
2008-11-25 21:11:51
小生のオバーは昭和天皇と同じ歳でしたが、ハジチをしなくなった初めの世代だったでしょうね。新聞は読んでいましたが、大和口でしゃべっていた記憶はないです。
昭和40年代半ばまでは、中部でも屋敷の裏や畑の側に豚小屋が多く残っていました。祖母も2.3頭買っていて、私もよくゥワーヌムンクァーサー(豚の餌やり)を手伝ったものです。
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