ある人の好意で映画『靖国 YASUKUNI』(リ・イン監督)のサンプルDVDを見ることができた。『すばる』6月号に書いた文章を読んでわざわざ送っていただき、深く感謝している。桜坂劇場でやるのは7月らしいから、早めに見られて有り難かった。
沖縄の人で8月15日の靖国神社の様子を目にした人は少ないと思う。この映画を見たらアキサミヨーと思うかもしれない。映画を見て興味が湧いた人は、8月15日に東京に行く機会があったら、靖国神社に行って現場を見てみるといい。その際、6月23日の「平和の礎」にも行って、二つの場所の様子を比較してほしいと思う。戦争で死んだ人達の追悼といっても、靖国神社と「平和の礎」ではこうも違うのか、というのを実感するだろう。そして、その違いは二つの施設の歴史やあり方、ヤマトゥと沖縄の文化の違いなど、いろいろなことを考えさせるはずだ。
映画に戻ると、元もと関心のある映画だったから二時間面白く見られたのだが、一方で物足りなさもあった、というのが最初の感想である。以前に書いたが、去年、一昨年、四年前と8月15日に靖国神社に行き、その場の状況を生で見てきた。絵になる情景があちこちにあって、映像作家ならカメラを向けたくなる場面だらけではないかと思った。実際、写真やビデオのカメラ、携帯で撮りまくっている人が大勢いる。軍服姿の人達もけっこうカメラを意識していて、一枚いいですか?と頼むとポーズをとってくれたりする。
初めて見る人には、そういう様子を映像で見るだけでもそれなりに楽しめるかもしれない。しかし、生で見ている者からすれば、軍服を着て参拝する人達にインタビューをして、彼らの考えや人物像を浮かび上がらせてくれるのを期待する。いったいこの人達はなぜこんな格好をして靖国神社に来るのか。この人達は普段はどういう生活をしているのか。この人達にとって靖国神社に祀られている人達はどういう意味を持つのか。そういうところを突っ込んで訊いてほしいと思うのだが、そういう被写体とのぶつかり合いは、この映画では回避されている。
物足りなさはそこから来る。映像をして語らしめる、といえば聞こえはいいが、軍服姿で柏手を打ち参拝する姿を切り取られた画面で眺めるだけなら、時代錯誤の右翼団体員か軍服萌えの変な連中という通俗的な印象で終わりかねない。彼らが持っている別の顔を見せることで彼らの複雑さ、多面性を浮かび上がらせてほしいと思うのだが、それはなされない。もっとも十年も通っていれば、リ・イン監督だってそういうことは当然考えるだろう。問題はそれを実行したらどうなるかということだ。
靖国神社でビデオカメラを回しながらリ・イン監督がインタビューをすれば、言葉の訛りから中国人であることがばれ、何をしてるか、と追及される可能性は大きいだろう。リ・イン監督が靖国神社で撮影を行ったこの10年間は、日本の中で反北朝鮮や反中国の排外的ナショナリズムが高まっていった時期である。靖国神社の境内でリ・イン監督が沈黙を貫き、撮ることに徹していること、つまり映像をして語らしめる、という手法を選択しているのは、そういう排外的ナショナリズムの高まりへの緊張と警戒があったからではないか。
映画の中で、日の丸と星条旗を掲げたアメリカ人男性が出てくる。参拝に来た日本人に最初はある程度受け入れられているように見えたが、しだいに中年男達に罵声を浴びせられて追及され、最後は警察に救出(排除)される場面がある。
あるいは、参道で行われている集会に抗議した二人の若者が、暴力的に排除されたあげく、中国へ帰れ、という罵声を浴びせられつづける。神社の外に出されたあと、顔を血だらけにしてマスコミに訴えるが、パトカーに押し込まれてしまう場面もある。
そういう場面を見れば、仮にリ・イン監督が撮影しながら質問を発し、中国人であることがばれたら、てめー中国人が何を撮ってやがる、中国に帰れバカヤロー、という罵声を浴びて叩き出される可能性が高かったことは、容易に想像できる。
靖国刀を打ち続けている刀匠や、靖国神社合祀取消訴訟を訴えている人にはインタビューをしているのだから、前半の靖国神社境内での撮影で、沈黙を通して撮ることに徹しているのは、そういう現実の緊張と警戒を抜きには考えられない。そういう前半の手法とその背後にある緊張が映画全体にも反映して、ナレーションによる解説を入れないという選択にもつながったのだろうか、と解釈したりした。
ただ、そういう緊張があることは承知の上で、リ・イン監督には軍服姿で参拝する人達に質問をぶつけ、そこから生じる展開を映像に収めてほしかった。彼らとの対話や交流がなされ、彼らの別の顔が描かれていれば、通俗的な印象に回収されない、彼らの全人的な多様性、複雑さが浮かび上がってきただろう。それを欠いたまま、後半部で歴史的資料映像を挿入し、日本が中国に侵略する上で靖国神社が果たした役割を印象づけようとすれば、前半部の軍服姿の参拝者たちは、今も侵略戦争を反省しない日本人を象徴するものとして、分かりやすい構図にはめ込まれてしまう。
物足りなさのもう一つは、映画の中心となっている靖国刀を打つ刀匠の描き方だ。高齢のせいなのか、元もとそういう人柄なのか、リ・イン監督とのやりとりがうまくかみ合わないので、この刀匠を通して何を訴えたかったのかが、はっきりしないで終わっている。
リ・イン監督の狙いを推測するのは難しくない。15年戦争で靖国刀がどういう味を持ち、どういう役割を果たしたのか。戦中・戦後とどういう思いで靖国刀を打ち続けたのか。刀匠としての靖国神社との関わりをどう考えているのか。戦争責任についてどう考えるか。そういうことを訊き、語ってもらいたいのだろうということを見ていて感じる。
しかし、刀匠はほとんど狙い通りに答えない。リ・イン監督の質問も遠慮がちで、本音には踏み込み得ていない。そのため、刀匠の表情や絆創膏を貼った手が強い存在感を示しながらも、刀匠が何を考え、どのような思いで靖国刀を打ち続けてきたかは分からないままだ。その上で最後の資料映像で、日本刀=武士道=日本軍人の誇り=百人切り=中国人虐殺=日本の侵略戦争を精神的に支えた靖国神社、という意味付与がなされるとき、刀匠も強引にその資料映像によるイメージの流れの中に押し込まれる。
ナレーションがないとはいえ、リ・イン監督の靖国神社に対する評価は、映像の編集によって伝わってくる。映像をして語らしめる、という手法がここでは、言葉によって明示しないことで、観客の映像に対する印象は人それぞれ、という逃げ道を作っている面も感じる。それは現在の状況で「靖国」を撮り、上映することにともなう緊張をかいくぐる知恵であり、監督のしたたかさでもあるだろう。ただ、自らが望むような語りを刀匠から得られなかったので、強引にイメージの連鎖の中に巻き込んだという安易さも感じた。
印象批評を書き連ねていると切りがないのでこれくらいにするが、映画館であらためてもう一度見たいと思うし、多くの人に上映館に足を運んでほしい思う。作品については見た上で議論をすればいいので、見る機会自体を奪い取ろうとする馬鹿な政治家どもの圧力を許してはならない。
沖縄の人で8月15日の靖国神社の様子を目にした人は少ないと思う。この映画を見たらアキサミヨーと思うかもしれない。映画を見て興味が湧いた人は、8月15日に東京に行く機会があったら、靖国神社に行って現場を見てみるといい。その際、6月23日の「平和の礎」にも行って、二つの場所の様子を比較してほしいと思う。戦争で死んだ人達の追悼といっても、靖国神社と「平和の礎」ではこうも違うのか、というのを実感するだろう。そして、その違いは二つの施設の歴史やあり方、ヤマトゥと沖縄の文化の違いなど、いろいろなことを考えさせるはずだ。
映画に戻ると、元もと関心のある映画だったから二時間面白く見られたのだが、一方で物足りなさもあった、というのが最初の感想である。以前に書いたが、去年、一昨年、四年前と8月15日に靖国神社に行き、その場の状況を生で見てきた。絵になる情景があちこちにあって、映像作家ならカメラを向けたくなる場面だらけではないかと思った。実際、写真やビデオのカメラ、携帯で撮りまくっている人が大勢いる。軍服姿の人達もけっこうカメラを意識していて、一枚いいですか?と頼むとポーズをとってくれたりする。
初めて見る人には、そういう様子を映像で見るだけでもそれなりに楽しめるかもしれない。しかし、生で見ている者からすれば、軍服を着て参拝する人達にインタビューをして、彼らの考えや人物像を浮かび上がらせてくれるのを期待する。いったいこの人達はなぜこんな格好をして靖国神社に来るのか。この人達は普段はどういう生活をしているのか。この人達にとって靖国神社に祀られている人達はどういう意味を持つのか。そういうところを突っ込んで訊いてほしいと思うのだが、そういう被写体とのぶつかり合いは、この映画では回避されている。
物足りなさはそこから来る。映像をして語らしめる、といえば聞こえはいいが、軍服姿で柏手を打ち参拝する姿を切り取られた画面で眺めるだけなら、時代錯誤の右翼団体員か軍服萌えの変な連中という通俗的な印象で終わりかねない。彼らが持っている別の顔を見せることで彼らの複雑さ、多面性を浮かび上がらせてほしいと思うのだが、それはなされない。もっとも十年も通っていれば、リ・イン監督だってそういうことは当然考えるだろう。問題はそれを実行したらどうなるかということだ。
靖国神社でビデオカメラを回しながらリ・イン監督がインタビューをすれば、言葉の訛りから中国人であることがばれ、何をしてるか、と追及される可能性は大きいだろう。リ・イン監督が靖国神社で撮影を行ったこの10年間は、日本の中で反北朝鮮や反中国の排外的ナショナリズムが高まっていった時期である。靖国神社の境内でリ・イン監督が沈黙を貫き、撮ることに徹していること、つまり映像をして語らしめる、という手法を選択しているのは、そういう排外的ナショナリズムの高まりへの緊張と警戒があったからではないか。
映画の中で、日の丸と星条旗を掲げたアメリカ人男性が出てくる。参拝に来た日本人に最初はある程度受け入れられているように見えたが、しだいに中年男達に罵声を浴びせられて追及され、最後は警察に救出(排除)される場面がある。
あるいは、参道で行われている集会に抗議した二人の若者が、暴力的に排除されたあげく、中国へ帰れ、という罵声を浴びせられつづける。神社の外に出されたあと、顔を血だらけにしてマスコミに訴えるが、パトカーに押し込まれてしまう場面もある。
そういう場面を見れば、仮にリ・イン監督が撮影しながら質問を発し、中国人であることがばれたら、てめー中国人が何を撮ってやがる、中国に帰れバカヤロー、という罵声を浴びて叩き出される可能性が高かったことは、容易に想像できる。
靖国刀を打ち続けている刀匠や、靖国神社合祀取消訴訟を訴えている人にはインタビューをしているのだから、前半の靖国神社境内での撮影で、沈黙を通して撮ることに徹しているのは、そういう現実の緊張と警戒を抜きには考えられない。そういう前半の手法とその背後にある緊張が映画全体にも反映して、ナレーションによる解説を入れないという選択にもつながったのだろうか、と解釈したりした。
ただ、そういう緊張があることは承知の上で、リ・イン監督には軍服姿で参拝する人達に質問をぶつけ、そこから生じる展開を映像に収めてほしかった。彼らとの対話や交流がなされ、彼らの別の顔が描かれていれば、通俗的な印象に回収されない、彼らの全人的な多様性、複雑さが浮かび上がってきただろう。それを欠いたまま、後半部で歴史的資料映像を挿入し、日本が中国に侵略する上で靖国神社が果たした役割を印象づけようとすれば、前半部の軍服姿の参拝者たちは、今も侵略戦争を反省しない日本人を象徴するものとして、分かりやすい構図にはめ込まれてしまう。
物足りなさのもう一つは、映画の中心となっている靖国刀を打つ刀匠の描き方だ。高齢のせいなのか、元もとそういう人柄なのか、リ・イン監督とのやりとりがうまくかみ合わないので、この刀匠を通して何を訴えたかったのかが、はっきりしないで終わっている。
リ・イン監督の狙いを推測するのは難しくない。15年戦争で靖国刀がどういう味を持ち、どういう役割を果たしたのか。戦中・戦後とどういう思いで靖国刀を打ち続けたのか。刀匠としての靖国神社との関わりをどう考えているのか。戦争責任についてどう考えるか。そういうことを訊き、語ってもらいたいのだろうということを見ていて感じる。
しかし、刀匠はほとんど狙い通りに答えない。リ・イン監督の質問も遠慮がちで、本音には踏み込み得ていない。そのため、刀匠の表情や絆創膏を貼った手が強い存在感を示しながらも、刀匠が何を考え、どのような思いで靖国刀を打ち続けてきたかは分からないままだ。その上で最後の資料映像で、日本刀=武士道=日本軍人の誇り=百人切り=中国人虐殺=日本の侵略戦争を精神的に支えた靖国神社、という意味付与がなされるとき、刀匠も強引にその資料映像によるイメージの流れの中に押し込まれる。
ナレーションがないとはいえ、リ・イン監督の靖国神社に対する評価は、映像の編集によって伝わってくる。映像をして語らしめる、という手法がここでは、言葉によって明示しないことで、観客の映像に対する印象は人それぞれ、という逃げ道を作っている面も感じる。それは現在の状況で「靖国」を撮り、上映することにともなう緊張をかいくぐる知恵であり、監督のしたたかさでもあるだろう。ただ、自らが望むような語りを刀匠から得られなかったので、強引にイメージの連鎖の中に巻き込んだという安易さも感じた。
印象批評を書き連ねていると切りがないのでこれくらいにするが、映画館であらためてもう一度見たいと思うし、多くの人に上映館に足を運んでほしい思う。作品については見た上で議論をすればいいので、見る機会自体を奪い取ろうとする馬鹿な政治家どもの圧力を許してはならない。
さて、目取真さんは、文藝春秋2008年6月号の、坪内祐三さんのコラム、
「映画「靖国」が隠していること」をどのように受け取っているのでしょうか。それが気になり、書き込みをさせていただきました。
いつかブログに取り上げて下されば嬉しいです。
初めまして。
坪内祐三さんは、映画「靖国」が、靖国神社のご神体を取り違えている意図的なプロパガンダだ、それを誰も気付いていない、といった趣旨を書かれているようですが、実は前宮司の湯澤卓さんという方が、「靖国神社の真のご神体は刀です」と雑誌「正論」に書かれたそうですね。
おそらく映画「靖国」の監督さんはそれを読まれたのではないですか?
現宮司はそれをおおっぴらにしては不味いとお考えなのか、靖国神社広報に「刀」とか「太刀」とは答えさせないようです。
まずは、湯澤宮司のお書きになったものを確認するのが先決かと思います。
平成17年8月号だそうです。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=804541376&owner_id=885573
この記事に対する「ご神体を明らかにしない方がいい」という抗議文も抗議主がUPしていました。
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/proposal.pdf
坪内祐三さんのコラムの引用もありましたが、全文引用なのでURLは示しません。