昨日2月1日から沖縄ではプロ野球9球団がキャンプを開始している。他に韓国からも3球団がキャンプに来ていて、冬場の沖縄観光の目玉にもなっている。沖縄で最初にプロ野球キャンプが行われたのが日本ハムの名護キャンプで、1979年開始というからちょうど30年前のことだ。当時は私は高校3年生で、沖縄にプロ野球選手がキャンプに来るということ自体が驚きだった。
その後、大沢監督の時代に日ハムのキャンプで一ヶ月間アルバイトをしたことがあるのは以前書いた。田中幸雄選手が引退してアルバイトをした頃の選手は一人もいなくなってしまったが、プロ野球選手の練習を間近で見られたのはいい経験だった。坂口選手という一軍で活躍することのないまま引退した選手と、練習の合間に話をしたことをことを思い出す。今頃どうしているのだろうか。
北部農林高校で勤めていた頃は、住んでいた職員宿舎のすぐ近くにキャンプ地の名護球場や日ハムの選手たちが泊まっているホテルがあった。フアンや取材陣がつめかけて、キャンプの時期はやはり地域の盛り上がりがある。近くだからといってそんなにキャンプを見に行くわけではないが、それでも、地域が盛り上がるなら応援しようという気持ちになる。
しかし、そういう気持ちが一気に冷めるような記事が、昨日のスポーツ新聞に載っていた。名護市屋部の海岸を埋め立てて、新球場を造る計画を島袋名護市長が打ち出している。東海岸で辺野古の新基地建設の埋め立てをやるだけでなく、西海岸でもまた埋め立てか。
現在の名護市街はかつて海に面してずっと砂浜が続いていた。丸隆そばや警察署のある辺りから名護球場がある辺りまで、国道58号線西側の土地は埋立地で、東側の歩道沿いがかつての海岸線=砂浜だった。小学校の頃、東江に住んでいた従兄の家に遊びに行くと、浜に降りてキャッチボールや釣りをしたものだ。
名護球場からさらに北側に続く砂浜も埋め立てる予定だったというが、地元住民が反対して残した、という話を聞いた。そうやって守られた貴重な自然の海岸線を埋め立て、破壊しようというのだ。どうせまた基地がらみの振興策とやらなのだろうが、島袋市長や末松副市長をはじめとした名護市幹部らの腐り具合には、ほとほと愛想が尽きる。
浦うらぬ深さ 名護浦ぬ深さ 名護ぬみやらびぬ 思い深さ
名護湾を詠んだ有名な琉歌である。名護という地名は凪ぐからきたという説があるが、この地に集落ができて以来、名護の人々は名護浦がもたらす海の幸で命を育んできたはずであり、ウミンチュ(海人)にとって穏やかな浦はウユヌフチュウクル(親の懐)であったろう。今でも台風時には何隻もの船が避難して泊まっている。その沖に沈む夕日はとても美しい。自然が残る海辺の景観を求めて名護に移り住む人もいる。施政県返還後の乱開発によって、沖縄に残された自然の海岸線はごくわずかだ。それを残して生かす努力をせず、埋め立ててハコモノを造るという発想が、未だに幅を利かせている。
埋め立て計画がどこまで進んでいるか調べてみたいが、具体的に動きが始まれば反対運動が起こるのは必至だろう。球場の老朽化が問題になっているなら改修すればいいし、新球場を作るにしても埋め立て以外の方法はいくらでもある。仮に反対運動を抑え込んで新球場を造り、ダルビッシュ球場と名付けても、日本ハムの企業イメージが悪くなるだけだ。はたして、そうしてまで日本ハムはキャンプをしたがるだろうか。島袋市長は新たな火種を作って、名護市のキャンプを潰すつもりだろうか。
その後、大沢監督の時代に日ハムのキャンプで一ヶ月間アルバイトをしたことがあるのは以前書いた。田中幸雄選手が引退してアルバイトをした頃の選手は一人もいなくなってしまったが、プロ野球選手の練習を間近で見られたのはいい経験だった。坂口選手という一軍で活躍することのないまま引退した選手と、練習の合間に話をしたことをことを思い出す。今頃どうしているのだろうか。
北部農林高校で勤めていた頃は、住んでいた職員宿舎のすぐ近くにキャンプ地の名護球場や日ハムの選手たちが泊まっているホテルがあった。フアンや取材陣がつめかけて、キャンプの時期はやはり地域の盛り上がりがある。近くだからといってそんなにキャンプを見に行くわけではないが、それでも、地域が盛り上がるなら応援しようという気持ちになる。
しかし、そういう気持ちが一気に冷めるような記事が、昨日のスポーツ新聞に載っていた。名護市屋部の海岸を埋め立てて、新球場を造る計画を島袋名護市長が打ち出している。東海岸で辺野古の新基地建設の埋め立てをやるだけでなく、西海岸でもまた埋め立てか。
現在の名護市街はかつて海に面してずっと砂浜が続いていた。丸隆そばや警察署のある辺りから名護球場がある辺りまで、国道58号線西側の土地は埋立地で、東側の歩道沿いがかつての海岸線=砂浜だった。小学校の頃、東江に住んでいた従兄の家に遊びに行くと、浜に降りてキャッチボールや釣りをしたものだ。
名護球場からさらに北側に続く砂浜も埋め立てる予定だったというが、地元住民が反対して残した、という話を聞いた。そうやって守られた貴重な自然の海岸線を埋め立て、破壊しようというのだ。どうせまた基地がらみの振興策とやらなのだろうが、島袋市長や末松副市長をはじめとした名護市幹部らの腐り具合には、ほとほと愛想が尽きる。
浦うらぬ深さ 名護浦ぬ深さ 名護ぬみやらびぬ 思い深さ
名護湾を詠んだ有名な琉歌である。名護という地名は凪ぐからきたという説があるが、この地に集落ができて以来、名護の人々は名護浦がもたらす海の幸で命を育んできたはずであり、ウミンチュ(海人)にとって穏やかな浦はウユヌフチュウクル(親の懐)であったろう。今でも台風時には何隻もの船が避難して泊まっている。その沖に沈む夕日はとても美しい。自然が残る海辺の景観を求めて名護に移り住む人もいる。施政県返還後の乱開発によって、沖縄に残された自然の海岸線はごくわずかだ。それを残して生かす努力をせず、埋め立ててハコモノを造るという発想が、未だに幅を利かせている。
埋め立て計画がどこまで進んでいるか調べてみたいが、具体的に動きが始まれば反対運動が起こるのは必至だろう。球場の老朽化が問題になっているなら改修すればいいし、新球場を作るにしても埋め立て以外の方法はいくらでもある。仮に反対運動を抑え込んで新球場を造り、ダルビッシュ球場と名付けても、日本ハムの企業イメージが悪くなるだけだ。はたして、そうしてまで日本ハムはキャンプをしたがるだろうか。島袋市長は新たな火種を作って、名護市のキャンプを潰すつもりだろうか。
あと、1957年に大映が沖縄でキャンプしています。これ以前にプロ野球キャンプがあったかどうかは不明ですが、当時、松木監督が炊事婦だった方と再会しています。その時の写真が監督の戦記に載っているのですが、当時の生活ぶりが伝わってくるものであり、見ていて辛くなりました。
はじめて知りました。
当時は米国の施政権下ですからパスポーが必要で、チームで沖縄にやってくることだけでも一苦労だったでしょう。
自然が又一つ消えようとしてる現実に。
無くしてしまった物は帰って来ない事に何故政治家は気づかないのか!?。
やはり利権が絡んでいるのか!?
先日、本部の海沿いを走って感じた事は走りやすい道路だが砂浜が無い。あの綺麗な海岸線が消えしまっている事に愕然とした。もう戻ってかない砂浜。名護の最後の海岸線は決して無くしてはならないと強く思います!!。
村民の浜、という名前が付けられていますが、自然の砂浜が沢山残っている今帰仁で、人工ビーチを求める村民はどれだけいたでしょう。
計画した村の幹部と議員たちの愚かさと税金の無駄遣いを示す、損民の浜でしかありません。
名護の埋め立て計画も、愚かな政治家たちの勝手を許さない市民の運動が盛り上がらなければ、やられるでしょう。
せっかく手つかずの自然が残っているのに、埋め立てて開発しないと勿体ない。
こう考える馬鹿な政治家はもういりません。