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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『沖縄県史 第10巻』より1

2008-03-02 12:09:43 | 日本軍の住民虐殺
 今帰仁村における日本軍の住民虐殺について『沖縄県史 第10巻』から見てみたい。
 『沖縄県史 代10巻』(沖縄県教育委員会編・1974年)には、沖縄島中北部や離島地域の戦争体験者の証言がまとめられている。今帰仁村に関しては次のような村民による座談会や証言が載っている。( )内の年齢は沖縄戦当時のものである。
①「今帰仁村の戦時状況」(座談会)
  今帰仁村字湧川 糸数昌徳(三六歳)
        字越地 宮里政正(四二歳)
        字諸志 島袋松一(三一歳)
        字天底 与那文子(四十歳)
        字諸志 内間敏 (二四歳)
②「少年団」 今帰仁村親泊 仲尾次清彦(九歳)
③「親泊の戦争体験」 今帰仁村親泊 仲尾次清二郎(四六歳)
④「友軍に虐殺された父」 今帰仁村湧川 謝花恒義(十六歳)
⑤「主婦の戦争体験」(座談会)
  今帰仁村今泊 玉城シズ(四二歳)主婦
            宮里久子(三一歳)主婦
            上間明子(二八歳)主婦
⑥「乳飲み子と老人をつれて」 今帰仁村越地 上間カナ(二七歳)主婦

 ①の座談会では、今帰仁村の学童疎開や駐屯部隊の様子、友軍による住民虐殺、米軍との接触、慰安所、敗残兵、従軍看護婦体験、徴用、疎開者の様子など幅広く語られている。この中で住民虐殺に関する部分を見てみたい。

〈宮里 むこうから帰ってきたらですね、村の有志全部集まれということで、玉城の公民館にですね。百人以上集まったかね。その席上です、アメリカの将校がきて、長田盛徳を今帰仁村長に命ずと言ってね、村長に命じたわけ。それからね、友軍にねらわれてね。友軍は山に隠れてますからね。盛徳さんを殺すといってね。長田さんは、兼次校に米軍がいたので、向こうに行っておった。
 与那嶺静光という人、あの人が毎日弁当もって越地まわりしてね、兼次校に長田盛徳さんの弁当もって毎日ーその人また殺されたですね。長田盛徳さんは、友軍が引き返してくるうちに、裏から逃げて危機一髪で助かったという。
糸数 そのときはまだ戦争中ですからね、はやかったですよ。
宮里 そのときは久志はまだ全員帰ってこないよ、あのとき。村長選挙もね。久志も一緒に帰ってきてから、村長選挙にしようといっとったんだが、それ待たんでね、すぐ長田さん、村長に選ばれたでしょう。
 ……中略……
宮里 謝花喜睦さんという渡喜仁の人ですね、殺された。あの人は兵事主任ですね、村の。あの人ぐらい友軍に協力した人はいないんだろうとー。
糸数 あれ、軍関係もたしとったから、自分の野菜を持ってきてくれる、バナナを持ってきてくれる、アヒルを殺してくれる、軍の将校連中に相当な資材を出してやってるんですがね。最後殺されたですよ。
宮里 長田盛徳さんの隣りであり、友人でですね、与那嶺静光さんが自分のうちで殺されたんです。
 アメリカの将校が村長を命ずるでしょう。やらなければやられるから。当時友軍は全部山ですね。
島袋 あの時集まった、村長命じられた時集まった人、百人ぐらいですね。全部友軍の手帳に載ったそうです。
糸数 も、マブヤマも弱かったので全滅してるんだが、中南部はちょうど激戦中ですからね。そのときにここは後方陣地になっておるときにー。
島袋 ここは休養地になっておったんです。あっちで戦闘して疲れたらこっちで休むという。
糸数 軍と相談して、マブヤマの宇土部隊は弱くてすぐ降参しましたからね、わしらは最後まで山に残っておったんですが。今帰仁整理するときですね、そういった連中、戦闘中にもかかわらず、はやアメリカの軍と一緒なってからに、村をつくるとかなんとかいうもんだから、それで全部整理するとかいってからに、名簿を持って歩きよったんですよね。それをわたしに見せて、誰々を殺す、みんな殺すといって、手帳にねー。
 あんた方、誤解ですよ。これはね、宮里政安さんは戦前から料亭をもって、料亭の女をたくさんかかえておるので、そして一般の婦女子が米軍に強姦されて、たいへんなことになるので、それでその女を提供して慰安所をつくって、婦女子を護ろうという精神からでたものであってですね、決してスパイ活動ではない。こんなりっぱな、住民を守ろうとする考え方に対してね、あんた方もうこれ整理するのか、大変ですよといったら、事実か、そうか、スパイでないかっていってね、追及、わしにさんざんしたんですよ。絶対もう。あんまり早かったので。みんなこっちで村民の若いの徴用して、カンパンなんかに行かして仕事させる計画なんかしておったもんだから、みなスパイだといって、今帰仁整理するといって、みな犠牲者になっとるわけですよ。
島袋 米軍の憲兵隊、今泊の馬場におったんですよ。孫一さんのうちのあたりに上里という店があった。そこが憲兵隊長の事務所だった。
糸数 長田盛徳さんもわたしも山から探して歩きよったです。あれが村長なるから、ぼくも役所人だから、役所にでてからどうするかって、ぼく山から探して歩きよったー。今頃なんかでたら、もう友軍は今帰仁整理するという計画たててるのに、もうすぐやられると思って、わたし逃げまわって、あれらに会わなかったですよ。あのときなんか、あれらと行動をともにしたらね、すぐやられておるーいくらわたしが山で釈明してもね、きかなかったですね。
宮里 気づかなかったらやられていた。こわかったですね。長盛(ママ)さんのときも危機一髪だった。喜睦さんとも知り合いの人ですよ。アクセントで日本兵とわかってすぐ逃げた。
糸数 役所に電話ひとつしかないでですね、役所の職員がスパイをその電話でしはせんかといって、拳銃さげて電話口のところにね、ひとりは警戒しどおしですよ、将校が。役所の職員を疑って。そのとき電話は、村には郵便局と役所しかなかったから。湧川に上陸する寸前ですよ。
宮里 友軍はこわくて。上陸してからアメリカはね、洗濯物もってくるんですよ。洗濯しなさいといって。これもう、洗濯するの、友軍がみたらね。すぐやられますからね。これもう一番こわかったですよ。
糸数 友軍は、敗残兵はずっといたんですよ。
島袋 宇土部隊はね、マブヤマにおったわけですから、あの八重岳の下。一、二回ぐらい戦闘したかしらんが、これはもうあれだから、こちらに転戦したわけです。羽地多野に、大宜味、国頭の山に。そしたもんだからアメリカ軍ー。
宮里 宇土部隊、海軍ともう最後は宇土部隊と一緒になったわけです。陸軍と海軍とみな一緒になってですね、こっち宇土部隊が全滅したといってー。陸軍はマブヤマ、海軍は運天。白石部隊は潜行艇。
糸数 井上部隊はこっちから離れて、泊(那覇)でですね、白兵戦で全滅してるんです。
 ……後略……〉(510~512ページ)
 
 今帰仁村のある本部半島には、半島中央部の山岳地帯(八重岳、真部山)を拠点として宇土部隊(陸軍独立混成第44旅団第2歩兵部隊・隊長宇土武彦大佐)が配置されていた。独立混成第44旅団は、沖縄に派遣される途中、一九四四年六月二九日に米潜水艦の攻撃を受け、乗船していた富山丸が沈没。四〇〇〇人近くの兵員を失った。そのため残った五〇〇人程度の兵員に国頭地区で現地召集した防衛隊員や鉄血勤皇隊員などを加えて部隊を編成していた(私の父も鉄血勤皇隊員として参加)。今帰仁村には他に海軍の特殊潜行艇部隊が運天港に配置されていた。
 宇土部隊は、侵攻する米軍の圧倒的兵力にとうてい太刀打ちできず、四月の中旬には戦闘能力を失い、十七日に八重岳を放棄して羽地村の多野岳に撤退していく。一方で、これまで見てきた住民証言にあるように、陸・海軍部隊の敗残兵が本部半島の山中にひそみ、米軍がいない時を見計らってに降りてくると、食糧を強奪し、米軍と接触のあった村の有志をスパイと決めつけて虐殺している。
 その記憶は村の中で友軍に対する恐怖と反発として語りつがれている。
 なお、座談会の中に慰安所の話が出てくるが、日本軍が駐屯するにともない今帰仁村にも慰安所が設けられた。当時、仲宗根にあった旅館の女性達が、慰安婦として日本兵の相手をさせられている。その後、米軍が上陸し村を占領すると、今度は米兵相手の慰安所が村の有志達によって設けられ、旅館の女性達は今度は米兵の相手をさせられている。座談会で言われているように「一般の婦女子」を米軍から護る、というのがその名目であった。女性達の多くは貧しい家庭に生まれて売られてきた人たちであり、戦争の中でより過酷な状況におかれることになった。このような事実があったことも、決して忘れてはならない。

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