座談会「今帰仁村の戦時状況」には、障害を持った女性が日本軍にスパイの疑いをかけられ、虐待されて死亡したことも語られている。
〈宮里 戦争中に五十代の女の人がね、唖で精神がちょっと異常しとった。友軍がここたずねても、返事できないです。これがスパイだといってね、松にこうして後手にくびって、たいへんやられて、もう半死半生になってね、役所の前からこうして帰っとってね、毎日いじめられとった。あと、役所のうしろに小屋つくってありましたがね、ここに入れて、そして給仕がですね、弁当つくって運んだですよ。その人がここで死んでですね。そしてわたしは給仕と二人で担がしてね、今の金城幸一さんの畑よ、モクマオ植えて密林だったです。そこに埋めさしたわけですね。そしてその人の子孫がね、わたしのうちに来て、あのときに埋葬した人はあんたでしょうかと、場所を教えてくれといってきたんですよ〉(520ページ)
言葉や耳の不自由な人が、日本兵の質問にうまく答えることができず、スパイの疑いをかけられて殺されたという話は少なくない。知的障害を持っていたり、精神に障害をおった人が、日本軍陣地に迷い込んでしまい、スパイの疑いをかけられて殺された例もある。沖縄戦研究者の安仁屋政昭氏は次のように書いている。
〈皇軍の立場から見れば、障害者は作戦の足手まといでした。食糧や医薬品の確保のうえからも、戦闘地域から障害者を排除するというのが軍の方針でした。
とくに全島が戦場となった段階では、障害者は戦場に「置き去りに」されました。障害者の場合、置き去りにすることは確実に「死」を意味しました。肉親や近親のものがそんなことをするはずがない、というのは平和な状態の時の感覚です。戦場における人々の心理は、「人間性を失っている」場合が多いのです。砲火に追われて、障害者や寝たきりの老人を置き去りにし、後になって戻ってみると死んでいたり、皇軍の兵士に虐殺されていたり、行方不明になっていたり、という事例が各地で起きています。皇軍の強制によって、心ならずも戦場に置き去りにした事例も多いのです〉(安仁屋政昭・徳武敏夫『母と子で見る 沖縄戦と教科書』草の根出版会・70ページ)。
〈障害者はスパイの疑いをかけられて処刑されることもあります。とくに、精神障害者は事態の移り変わりを判断できないし、また、「あらぬことを口走る」ために、スパイの疑いをかけられることが多かったのです。皇軍は、精神障害者と知っていても、障害者が米軍に捕まったとき、結果的にスパイの役割を果たすこともあるとして、障害者を殺してしまうこともありました。
聾唖者(聴覚障害者)も精神障害者と同じ運命をたどった例が多いといわれています。口が利けないということは、味方同士のコミュニケーションがないことを意味します。大声でどなる軍隊の命令も聞こえず、人々の叫びにも耳を傾けず、砲爆撃の轟音にも平然としている視聴覚障害者は、不逞の輩(従順でない人びと)ないしスパイとみなされたのです。疑いをかけられて尋問されたときの、身振り手振りの応対は、ますますスパイの疑いを深めることになりました〉(同70~71ページ)
上記の「五十代の女の人」の例も、安仁屋氏が書いている通りのことであろう。松の木に後ろ手にしばられて、役所の前を通るときに見られるようにしてあったというのは、スパイはこうなるぞ、という見せしめでもあったのだろう。このような見せしめで住民に恐怖心を植えつけることは、住民を統制するうえで大きな効果を持ったはずだ。
それまで今帰仁村の住民は、出征兵士を見送ることはあっても、日常的に日本軍の姿を目にすることはなかった。一九四四(昭和十九)年の八月頃から村にやってきた日本軍に対し、住民は当初熱烈に歓迎したであろうし、郷土防衛という意識から軍への協力に努めたであろう。しかし、伊江島の飛行場建設や陣地構築などの徴用の負担は、住民の暮らしを大きく圧迫していく。そして、威圧的な日本軍の行動は、しだいに住民に恐れと反発を生んでいった。日本軍による住民虐殺の背景として、そのような日常的な軍の圧力に苦しむ村の人達の姿も見ておきたい。
〈糸数 ……前略……
村民が一番苦しかったのはですね、駐屯部隊の徴用ですよ。今度は何人、今度は何人といって、役所に、出せといって、これを徴用係、この方がさしておったわけよ。松一さんが。そしたらいっぺん出しえないでですね、何十名といってきてあるの、それだけ出しえないで、そうして連れて行ったら、もう海軍に、貴様はこれでも役所吏員か、やめろとね。顔なぐろうとしよったといって、もう泣いて帰ってきてるわけ。もう村長に、わたしこの仕事、絶対できませんから、今日ぎりでやめますといって辞表を書いて出しているわけですよ。あんたがやめたらこの仕事だれもやりきれないから、わしも激励して、やりなさいやりなさいと言ってさしたんですが、もう、あれこわがって、役所の行き帰りにあれにみられたらやられるとばかりしか思っていませんからね。あれ、会うのもこわがってからね……後略……〉(508ページ)
〈与那 ……前略……
ところで徴用のことですが、役所のほうに徴用割当とか、陣地構築とか何とか言って、海軍がくる、陸軍がきて、軍刀さしてきて、村長は島袋松次郎さんでしたが、刀抜きそうにしてですね。徴用が少ないとかいって。宮里さんが総務課長。はあもう村長さんがもう返答に困りましてですね。徴用は全部あててこなかった。病気の人もいるんですよね。……中略……こっちは員数が足りないといってしかられて、それで毎日のように太刀をもってきては村長さんをおどすし、村長さんも非常に苦労なさったと思うんですよ。あの自分の子どもぐらいの年の兵隊にこんなに太刀でおどされて、悲しいことだねえといって。わたしはきばって下さい、元気を出してください村長さん。戦さが勝ったら金鵄勲章もらえますよ、とわたしは慰めたことがあるんですけどね。それから、十・十空襲から三か月あとですかね。そのとき、また、伊江島からはじまって徴用が多いし、十・十空襲までは何ともなかったですね。
宮里 そのときはもう働ける人は陣地構築ですね。山のほうはずっと本部のあっちまで、全部防空壕でつづいていました。
島袋 当時働ける人は青年学校生以上だからね、うえは六十歳まで。
宮里 うちにいるのは年寄りと子どもだけ。学童までもだされるというふうでした。
島袋 もう地元では軍隊協力があるしね、部隊では伊江島の飛行場があるし、また海軍根拠地があるし、やがてまた防空壕なんかの坑木ね、坑木つくり出しや、山の徴用があるし。もうほとんどうちで農業する人は子持ちと年寄りだけでした。増産することができないくらい年寄り。殺されはしないが、足腰立たないぐらい働かされた〉(519~520ページ)
最近、小林よしのり氏が、沖縄に日本軍が来たのは沖縄戦の一年前なので、住民の統制などできなかった、という主張をしている。日本軍による「集団自決」(強制集団死)の命令・強制を否定するために、住民への軍の影響力を小さく見せたいのだろうが、沖縄戦についてろくに調べもしないで、思いこみを述べているにすぎない。上に引用した座談会のやりとりを見ただけでも、住民の日常生活がいかに日本軍によって統制されていたかが分かる。日本刀で威圧しながら徴用を行う日本軍に、村長がそれを断って住民に独自の行動をとらせることができたか。無論、できるはずもない。そのような日本軍と住民の関係を押さえることは、「集団自決」の問題を考える上で前提である。小林氏はその前提を否定しようとしているわけだが、それは沖縄戦の実相を意図的に無視することによってしか成り立たない。
〈宮里 戦争中に五十代の女の人がね、唖で精神がちょっと異常しとった。友軍がここたずねても、返事できないです。これがスパイだといってね、松にこうして後手にくびって、たいへんやられて、もう半死半生になってね、役所の前からこうして帰っとってね、毎日いじめられとった。あと、役所のうしろに小屋つくってありましたがね、ここに入れて、そして給仕がですね、弁当つくって運んだですよ。その人がここで死んでですね。そしてわたしは給仕と二人で担がしてね、今の金城幸一さんの畑よ、モクマオ植えて密林だったです。そこに埋めさしたわけですね。そしてその人の子孫がね、わたしのうちに来て、あのときに埋葬した人はあんたでしょうかと、場所を教えてくれといってきたんですよ〉(520ページ)
言葉や耳の不自由な人が、日本兵の質問にうまく答えることができず、スパイの疑いをかけられて殺されたという話は少なくない。知的障害を持っていたり、精神に障害をおった人が、日本軍陣地に迷い込んでしまい、スパイの疑いをかけられて殺された例もある。沖縄戦研究者の安仁屋政昭氏は次のように書いている。
〈皇軍の立場から見れば、障害者は作戦の足手まといでした。食糧や医薬品の確保のうえからも、戦闘地域から障害者を排除するというのが軍の方針でした。
とくに全島が戦場となった段階では、障害者は戦場に「置き去りに」されました。障害者の場合、置き去りにすることは確実に「死」を意味しました。肉親や近親のものがそんなことをするはずがない、というのは平和な状態の時の感覚です。戦場における人々の心理は、「人間性を失っている」場合が多いのです。砲火に追われて、障害者や寝たきりの老人を置き去りにし、後になって戻ってみると死んでいたり、皇軍の兵士に虐殺されていたり、行方不明になっていたり、という事例が各地で起きています。皇軍の強制によって、心ならずも戦場に置き去りにした事例も多いのです〉(安仁屋政昭・徳武敏夫『母と子で見る 沖縄戦と教科書』草の根出版会・70ページ)。
〈障害者はスパイの疑いをかけられて処刑されることもあります。とくに、精神障害者は事態の移り変わりを判断できないし、また、「あらぬことを口走る」ために、スパイの疑いをかけられることが多かったのです。皇軍は、精神障害者と知っていても、障害者が米軍に捕まったとき、結果的にスパイの役割を果たすこともあるとして、障害者を殺してしまうこともありました。
聾唖者(聴覚障害者)も精神障害者と同じ運命をたどった例が多いといわれています。口が利けないということは、味方同士のコミュニケーションがないことを意味します。大声でどなる軍隊の命令も聞こえず、人々の叫びにも耳を傾けず、砲爆撃の轟音にも平然としている視聴覚障害者は、不逞の輩(従順でない人びと)ないしスパイとみなされたのです。疑いをかけられて尋問されたときの、身振り手振りの応対は、ますますスパイの疑いを深めることになりました〉(同70~71ページ)
上記の「五十代の女の人」の例も、安仁屋氏が書いている通りのことであろう。松の木に後ろ手にしばられて、役所の前を通るときに見られるようにしてあったというのは、スパイはこうなるぞ、という見せしめでもあったのだろう。このような見せしめで住民に恐怖心を植えつけることは、住民を統制するうえで大きな効果を持ったはずだ。
それまで今帰仁村の住民は、出征兵士を見送ることはあっても、日常的に日本軍の姿を目にすることはなかった。一九四四(昭和十九)年の八月頃から村にやってきた日本軍に対し、住民は当初熱烈に歓迎したであろうし、郷土防衛という意識から軍への協力に努めたであろう。しかし、伊江島の飛行場建設や陣地構築などの徴用の負担は、住民の暮らしを大きく圧迫していく。そして、威圧的な日本軍の行動は、しだいに住民に恐れと反発を生んでいった。日本軍による住民虐殺の背景として、そのような日常的な軍の圧力に苦しむ村の人達の姿も見ておきたい。
〈糸数 ……前略……
村民が一番苦しかったのはですね、駐屯部隊の徴用ですよ。今度は何人、今度は何人といって、役所に、出せといって、これを徴用係、この方がさしておったわけよ。松一さんが。そしたらいっぺん出しえないでですね、何十名といってきてあるの、それだけ出しえないで、そうして連れて行ったら、もう海軍に、貴様はこれでも役所吏員か、やめろとね。顔なぐろうとしよったといって、もう泣いて帰ってきてるわけ。もう村長に、わたしこの仕事、絶対できませんから、今日ぎりでやめますといって辞表を書いて出しているわけですよ。あんたがやめたらこの仕事だれもやりきれないから、わしも激励して、やりなさいやりなさいと言ってさしたんですが、もう、あれこわがって、役所の行き帰りにあれにみられたらやられるとばかりしか思っていませんからね。あれ、会うのもこわがってからね……後略……〉(508ページ)
〈与那 ……前略……
ところで徴用のことですが、役所のほうに徴用割当とか、陣地構築とか何とか言って、海軍がくる、陸軍がきて、軍刀さしてきて、村長は島袋松次郎さんでしたが、刀抜きそうにしてですね。徴用が少ないとかいって。宮里さんが総務課長。はあもう村長さんがもう返答に困りましてですね。徴用は全部あててこなかった。病気の人もいるんですよね。……中略……こっちは員数が足りないといってしかられて、それで毎日のように太刀をもってきては村長さんをおどすし、村長さんも非常に苦労なさったと思うんですよ。あの自分の子どもぐらいの年の兵隊にこんなに太刀でおどされて、悲しいことだねえといって。わたしはきばって下さい、元気を出してください村長さん。戦さが勝ったら金鵄勲章もらえますよ、とわたしは慰めたことがあるんですけどね。それから、十・十空襲から三か月あとですかね。そのとき、また、伊江島からはじまって徴用が多いし、十・十空襲までは何ともなかったですね。
宮里 そのときはもう働ける人は陣地構築ですね。山のほうはずっと本部のあっちまで、全部防空壕でつづいていました。
島袋 当時働ける人は青年学校生以上だからね、うえは六十歳まで。
宮里 うちにいるのは年寄りと子どもだけ。学童までもだされるというふうでした。
島袋 もう地元では軍隊協力があるしね、部隊では伊江島の飛行場があるし、また海軍根拠地があるし、やがてまた防空壕なんかの坑木ね、坑木つくり出しや、山の徴用があるし。もうほとんどうちで農業する人は子持ちと年寄りだけでした。増産することができないくらい年寄り。殺されはしないが、足腰立たないぐらい働かされた〉(519~520ページ)
最近、小林よしのり氏が、沖縄に日本軍が来たのは沖縄戦の一年前なので、住民の統制などできなかった、という主張をしている。日本軍による「集団自決」(強制集団死)の命令・強制を否定するために、住民への軍の影響力を小さく見せたいのだろうが、沖縄戦についてろくに調べもしないで、思いこみを述べているにすぎない。上に引用した座談会のやりとりを見ただけでも、住民の日常生活がいかに日本軍によって統制されていたかが分かる。日本刀で威圧しながら徴用を行う日本軍に、村長がそれを断って住民に独自の行動をとらせることができたか。無論、できるはずもない。そのような日本軍と住民の関係を押さえることは、「集団自決」の問題を考える上で前提である。小林氏はその前提を否定しようとしているわけだが、それは沖縄戦の実相を意図的に無視することによってしか成り立たない。