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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『座間味村史・下巻』より4

2008-01-29 15:40:56 | 日本軍の住民虐殺
 座間味島の阿佐で起こった住民虐殺についてみてみたい。
 沖縄戦当時、座間味島には海上挺身第1戦隊が配置されていた。隊長は梅澤裕少佐である。現在、梅澤氏は大阪地方裁判所に岩波書店と大江健三郎氏を「名誉毀損」で訴え、係争中である。「集団自決」(強制集団死)に関して、自らは命令を出していない、いっさい責任はないと、梅澤氏は主張している。その点については別の機会に論じたいが、同氏は1945年2月以降、座間味島の最高指揮官であった。
 「集団自決」の問題を考える上で、梅澤氏の指揮下にある部隊によって住民虐殺が行われている事実を見落としてはならない。住民が米軍の捕虜となることを許さず、保護された住民をスパイと見なして虐殺する日本軍の論理は、住民を「集団自決」に追い込んでいく論理と同じ根を持つからである。
 梅澤隊長の部隊が本来の作戦通り、マルレに乗り込んで出撃していたら、島に残された住民はどのような行動をとっていたか。梅澤氏は隊長として、あとは住民の自由な選択にまかせようと考えていたのか。当時の状況でそういうことはあり得ないだろう。自分達が出撃したあと、住民は捕虜とならずに「玉砕」するようあらかじめ村の幹部に命令・指導していたと考えるのが順当ではないのか。
 マルレで出撃せずに陸上での戦闘に移行してからあと、梅澤隊長の指揮する部隊が住民に対して捕虜となることを許さず、米軍と接触した者を虐殺して住民を恐怖で縛りつけていたという事実。それが「集団自決」へ住民を追い込み、強制していった日本軍の姿を浮き彫りにするのではないか。
 以下に引用するのは座間味島阿佐の住民・与那嶺清氏(当時三五歳)の証言である。日本軍が島にやってきてからの様子や、米軍の攻撃による住民の犠牲、日本軍による住民虐殺などが証言されている。

〈平和で豊かなこの島が戦火に巻き込まれようなどとは、夢想だにしていなかった。一九四三年(昭和十八)から四四年にかけて、事態は日一日と深刻になり、村当局からの命令で防空訓練、防空壕掘りなど、住民は毎日のように駆りだされていた。
 一九四四年(昭和十九)九月十日の夜、陸軍部隊がはじめて座間味島に上陸してきた。小さな島のため、割合のんきに構えていた村人たちも、軍上陸によって沖縄の最前線基地化が決定的になったのを、身に滲みて感じていた。各部隊は次々と上陸し、九月十六日には兵隊たちの分宿配当が決まった。一家屋に将校四、五名、一般兵士は十五名という割り振りのようであった。
 いよいよ、陣地構築が本格的にはじまった。国民学校の児童生徒は薪取り、一般の人たちは食糧増産に従事することになった。島での水産業の担い手である鰹漁船は、すでに本島軍需部に徴用されていた。二隻の船の代わりに、十五トンの鰹船一隻が、駐屯している部隊の補給用にあたることになった〉(108ページ)

 十月十日、沖縄全土を米軍機が攻撃する。当日、日本軍上陸以来はじめての休養日として、座間味海岸では兵隊と住民の親睦を目的とした演芸会の準備が行われていた。それに使う魚を捕るために出漁した英泉丸が、米軍機の機銃掃射を受け、乗員が亡くなる。
 翌一九四五年(昭和二十)の三月二三日、米軍のグラマン機が座間味島を攻撃する。翌日、翌々日と空襲は続き、二五日からは艦砲射撃も始まる。二六日には米軍が上陸を開始。阿佐の住民はヌンルルーガマやミンジー自然壕、ユヒナ壕などに避難する。そういう中で、日本軍による住民虐殺が起こる。

〈ヌンルルーガマでは、大勢の人たちが玉砕をしようとしたが、一部、玉砕反対論者がどんどん壕を出ていったため残された者は不安になり、とりやめたといういきさつもある。その頃からは、阿真で捕虜になれば、腹一杯の食事が食べられるという話が伝わってきて、飢えに苦しんでいる人たちは、その言葉に導かれるように、歩を阿真へ向けだしていた。
 ところが、同時に、捕虜となったものについては日本軍の目は厳しく、米軍と接触した人は容赦しなかった。マチガー小の上原武造がその一人である。彼は米軍に捕まったあと、米軍の元におれば食糧は不自由しないことがわかり、住民に呼びかけるため、住民たちの避難場所にやってきたのであった。その後、一夜を自宅で明かすつもりで寝ていたところを、友軍は彼をスパイ扱いにして殺してしまったのである。
 また、ユヒナのクビリの山羊小屋にこもっていた石川重義は、これ以上住民への被害が大きくなってはいけないと、友軍、米軍の戦いを止めさせようと出ていったところを、後方から友軍に射殺された。そしてその側にいた座間味の慶留間次夫も、同時に殺されてしまった。
 阿佐民はその後、降参の白旗をかざして山越えで阿真に行ったものや、ユヒナやチシの自然壕に隠れていたのを米軍に見つかって上陸用舟艇で阿真に連れて行かれたものなど、すべて、阿真に集まってきた。
 最後までヌンルルーガマに籠もっていたのが、久吉一家である。大勢の人が阿真に移動していくのを見て、白旗を準備し、ついていったとのことである。
 阿佐住民は、先に射殺された二人を除いて、防衛隊員以外、弾に当たって亡くなった者はいないが、自宅の裏山壕に一人置き去りになった体の不自由な高江洲恵造が、飢えのため、亡くなったのであった〉(111~112ページ)


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