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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

三中学徒之碑慰霊祭

2010-06-24 00:34:01 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 三中学徒之碑は本部町の八重岳に登る道路脇にある。道沿いはヒカンザクラが植えられていて、1月には日本一早い桜祭りが開かれて観光客でにぎわう。





 向かって右側に説明版があり、左側には戦死した学徒の氏名を刻んだ石版の上に、観音菩薩のレリーフがはめ込まれている。



 午前10時過ぎに名護を出たときには薄曇りだったのだが、伊豆味に入ったところから雨が降り出し、八重岳に向かう山道で土砂降りになった。碑に着いた頃には小降りになっていて、海の向こうに伊江島を望むことができた。



 碑の前には真部山がある。真部山からその南の八重岳にかけてが、三中学徒が配属された独立混成第44旅団第二歩兵隊(隊長:宇土武彦大佐)と米軍の戦闘が最も激しく戦われた場所である。





 午前11時過ぎに慰霊祭が始まる。故・大城氏のラッパ吹奏の録音テープにあわせて黙祷をする遺族と元学徒の皆さん。







 遺族、元学徒の順に焼香を行う。再び雨が降り出し、小雨模様の中での焼香となった。



 第33期生の三三会が中心となって慰霊祭は営まれている。会長の永山氏が以下の挨拶を行った。 

 一言、挨拶をいたします。
 今を去る65年前の4月、この地、八重岳、真部山の一帯で、激しい戦闘が展開され、多くの同僚を喪ったことは、まことに遺憾なことであります。親元を離れ、出陣するわが子を見送る兄弟、親の悲痛な叫びは、いかばかりだったでしょう。しかし、われわれ学徒隊は、国家存亡の使命に燃え、何らの辟易することなく勇敢に敵兵と対峙して戦い、不幸にも多数の命を喪ったことは、痛恨の極みであります。
 特に真部山の戦闘において、砲弾の飛び交う中で応戦し、散華した友の姿は、悲痛な思いを禁じ得ません。互いに在学中、大きな希望を胸に学園生活を謳歌した。将来は素晴らしい人生を送ったであろう学友も、今は草葉の陰で平和を願い、永遠の眠りについていることと存じます。
 私たち生存者一同は、戦争の持つ怖さ、非人間性、非情さを後世の人々に伝え、明るく平和な社会の建設に邁進することを誓い、戦場に散った御霊のご冥福を心からお祈り申し上げ、挨拶といたします。





 元学徒隊員の宮城光吉氏ができあがったばかりの手記『少年兵の追憶』を奉納し、参加者に配布した。





 最後に参加者全員で沖縄県立第三中学校校歌を斉唱した。三中校歌は作詞が新屋敷幸繁、作曲が宮良長包で、県立名護高校の校庭(正門を入った正面)に歌碑がある。




 終了後、帰り際に来年の再会を約していた。このあと残った皆さんで直会(なおらい)があり、私も加わって話を聞かせていただいた。

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