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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

名護市屋我地の平和祈願祭

2010-06-23 02:28:21 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 6月22日の午後2時から屋我地島饒平名にある慰霊の塔で、屋我地地区平和祈願祭が行われた。
 私の母は沖縄戦当時屋我地島で生活していた。生まれは今帰仁村の玉城なのだが、1936年頃に祖父が家屋敷を売って屋我地島にわたり、1950年代初め頃まで我部の前垣で暮らしていた。沖縄戦の2年前に祖父が病死し、祖母は女手一つで3名の子供つれて戦火をくぐっている。戦争中の母の体験の一部は、『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK新書)に書いた。
 1944年10月10日の空襲で屋我地島は、海峡をはさんで向かいにある運天港や愛楽園の施設が米軍の集中爆撃にあい、大きな被害を受けた。母から何度か空襲の時の体験を聞いたが、防空壕の一つに爆弾が落ちて、同じ字の14名が犠牲になったという。
 10・10空襲の三日後、で相談の結果、17キロほど離れた源河山に避難したが、生活が不便なため一ヶ月ほどで島に戻ったという。地上戦が始まってからは班の人が森の中に造った壕に入り、多くの住民が2ヶ月余りそこに隠れていたという。





 稲嶺市長のあいさつや議会代表の「追悼の辞」のあと、遺族代表の大城豊重氏が「平和宣言」を行った。

 平和宣言。
 われわれが住んでいる世界を、平和で安全なものにしたいというのは、人類共通の願いである。特にわれわれ沖縄県民は、さる第二次世界大戦で20万余の尊い命と、貴重な文化遺産のほとんどを失い、戦争の悲惨さ、残酷さを身をもって体験した。
 われわれは敗戦を機会に、二度とこのような悲惨な戦争をしないことを、全世界に向けて誓い、平和な暮らしを生活の第一の目標としてきた。
 しかしながら、国家や民族間の武力抗争は後を絶たず、今なお世界の各地で戦争が行われているのが現状である。本来、平和な島であるはずのこの沖縄においても、未だに多くの軍事基地が存在し、われわれの平和を犯している。われわれは軍事基地及び兵器を必要とする軍隊こそが、人類の平和を阻害する最大の要因であることを、みずからの尊い体験を通し知っている。 
 それ故にわれわれは、戦争放棄と世界恒久平和を宣言した日本国憲法の精神と、非核三原則の権利を再確認し、戦争に結びつくすべてのものを否定していかなければならないと考えている。
 よって名護市民は、ここに人類共通の目標である平和を達成するため、努力を傾ける決意を宣言する。
 平成22年6月22日 第33回名護市平和祈願祭
 遺族代表 大城豊重



 続いて屋我地小学校と同中学校の代表が「平和の誓い」を述べた。小学校児童会代表の上地さんの「平和の誓い」を紹介したい。

 平和の誓い。
 私たちにとって戦争とは、関係のない遠い遠い昔の話だと思っていました。昔はアメリカ軍の飛行機が何百機と飛び、空一面飛行機に占領され、多くの人が逃げ、走り、意味もなく人がどんどん死に、犠牲になっていることを、写真集や平和学習で学んでいます。
 でも、私たちは、本当の戦争の恐ろしさ、怖さは体験していないので、どんなものなのか分かりません。でも、これだけは知っています。戦争をして得をした人など一人もいないと思います。
 このような悲しくて意味のない戦争が、二度と起こらないように、平和な世界になるように、多くの友達と仲良く手を取り合い、悲しい戦争を二度と起こさないように頑張りたいと思います。
 屋我地小学校児童会長 上地みき









 市長や遺族、生徒代表などの献花のあと、遺族と参加者の焼香が行われ、戦後65年の屋我地島の平和祈願祭が終わった。
 『沖縄「戦後」ゼロ年』にも書いたが、沖縄戦が終わってしばらくして、当時小学校1年生だった母の弟が事故で亡くなった。祖母はショックから一ヶ月ほど働くこともできず、幼い妹と祖母を小学校5年生の母が支えて生きていた。それが母にとっての「戦後」の始まりだった。屋我地島は私にとって祖父や叔父が亡くなった場所であり、祖母や母が戦前、戦中を生き、「戦後」を生き始めた場所として思い入れがある。



 屋我地島饒平名の慰霊之塔の前の風景。風が吹き渡るサトウキビ畑と木麻黄の防潮林、羽地内海と夏空。



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1 コメント

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語り継ぐこと (りゅうちゅうえ)
2010-06-23 22:54:52
 戦後という言葉さえ消えようとしているかのように見える。戦争を知らない子供たちも60代になり、消費と飽食さえ古い言葉になりつつあるように思う。新たな貧困に覆われ、不信の世界。私たちは私たちの親が体験したことを語り継ぐ責任があると思う。そして、感覚だけではなく、世界と歴史の事実をしっかりと見つめ、原因とからくりをかぎつける耳と眼と嗅覚を育てなければならないと考えるのだ。
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