夕刻の備忘録 より転載です。
何度も何度も繰り返してきたように、靖國問題は国民の問題である。
国家そのものである一億国民が参拝してこその靖國神社である。
これは断じて政治の問題ではない。
ましてや政治家が政局がらみで論じてよいものではない。
ところが、隣国の干渉が起こる度に、政治問題に貶められてしまう。
これこそ彼等の思う壺である。
ノイズに反応して自らがノイズになっている。
「静かにしろ!」と大声で叫んでいる矛盾に気付いていない。
保守議員は「靖国参拝」を口にするな。耐えて黙って参拝せよ。誰に向かっても吠える必要は無い。
自らが参拝という「行動」で示せばそれでよい。それは政治家以前の一国民としての自然な感情である。私人か公人か、などという馬鹿な話ではない。立場によって変わるものではない、ということを強調したいのである。
毎年毎年、この時期になれば、マスコミが「参拝しますか、しませんか」「公人ですか、私人ですか」と繰り返してきた。ところが、この二年は全く様変わりして、マスコミは沈黙しているのである。ならば保守議員も黙ってやり過ごせ。
誰があんな連中に参拝などして欲しいものか。
靖国が穢れるだけではないか。
仮に、誰に向けての人気取りか、突如として首相参拝が実現したとしよう。しかし、首相退任後は絶対に参拝しないのである。それどころか、参拝する政治家を徹底的に非難するだろう。そんな人間に形だけ参拝されては堪らない。現政府の人間は一人残らずお断りである。
如何なる意図があろうとも、政治家が参拝問題を口にすれば、それは政治問題になる。我々国民が心静かに運命の日に想いを馳せようとする時に、それはノイズにしかならない。隣国が干渉するから黙るのではない、元々心静かに時を迎えるのが日本の流儀なのである。参拝を批判する人間も、声高に首相参拝を訴える人間も、この意味では同罪である。
何も語らず声すら挙げず、ただ黙々と列を為して、靖国に詣でればよいのである。
★ ★ ★ ★ ★
マスコミの異常性は、どの社も変わらない。国を愛する多くの人が、最後の期待を寄せている産経にしても同じである。特に靖國参拝問題に関しては、実に不潔なことを平然と書いてきた。麻生内閣の時には、前後四回にも渡って首相参拝を論じ、その執拗さには異様なものを感じさせた。
産経もまた靖國問題を論じる資格が無いのである。選挙目前の麻生内閣を八つ当たり的に批判して、結果的に民主党政権誕生に力を貸した。そして本年「6月25日」の以下の記事を読んで頂ければ、その異様さを改めて確認出来るだろう。
6月25日
▼「菅さんの権力に対する執着心が、自身の再生エネルギーになっている」と渡辺喜美・みんなの党代表はうまいことを言うが、それほどまでに延命したいのなら抄子が知恵をお貸ししよう。霊験あらたかで効果抜群の妙案を。
▼最近の歴代首相は、さきの大戦で亡くなった人々を悼むため6月23日の沖縄を皮切りに広島、長崎を巡り、8月15日の全国戦没者追悼式に参列するのが常である。これに靖国神社参拝を加えればいいだけの話である。
▼ 国のために命を捧げた兵士の霊に首相が頭を垂れるのは、どの国でも当たり前の話である。毎年参拝した小泉純一郎首相が5年の長期政権を全うし、参拝しなかった首相が、いずれも短命に終わっているのは偶然ではない。ひとたび首相が参拝すれば、支持率はアップし、政権延命は間違いない。(2011.6.25
02:35)
産経は靖國問題をオモチャにしているのだ。この記事を書いた人間の品性の下劣さは譬えようもない。靖國参拝が「霊験あらたかで効果抜群」の延命策だとハッキリ書いている。本気なら許せない、冗談ならなお許せない。この程度の認識で、自民党歴代総理の靖國参拝問題を論じ、様々な批判を書き連ねて自民党支持率の低下に貢献してきたのが、彼等の正体だということになる。よくもまあ、「靖國に行けば支持率アップで延命間違いない」などと書けたものである。
★ ★ ★ ★ ★
もう一度書く。保守議員は靖國問題から離れよ!
これは常識の問題である。仮に実弾飛び交う戦闘状態だとしよう。敵は間近まで迫ってきている。その時、彼等は「靖國神社を護れ!」と叫びながら、靖國神社に立て籠もるつもりなのか。靖國を弾避けにして、自らはそこから応戦するつもりなのか。そんなことをしたら神社は格好の標的になって、焼け落ちてしまうではないか。
本気で靖國を護りたいのなら、出来る限りそこから離れて「俺はここに居るぞ!」と敵前で踊ってみせるべきである。陽動作戦を取り、自らを囮として敵を靖國から遠ざけるべきなのである。これは全く常識の問題ではないか。
実弾飛ばぬ言論戦、ネットを使った空中戦においても状況は全く同じである。靖國を護りたければ、沈黙すればよい。左翼の得意技である「話題逸らし」をやって、敵を別件に誘導すればよい。そうして静かに参拝出来る環境を護るのだ。
我々も同様である。大声で参拝を論じる必要は無い。シュプレヒコールは必要無いのである。雄叫びを上げる代わりに、静かに友人知人を誘えばよい。手紙を認め、「久しぶりに会わないか、待ち合わせ場所は、そうだ靖國の前にしよう」と誘えばよいのである。言論空間にどれほどの言説が流れているかではない、九段の駅にどれほどの人が溢れているかが問題なのである。それこそが敵の心臓を射貫く最終兵器なのである。
靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。
何度も何度も繰り返してきたように、靖國問題は国民の問題である。
国家そのものである一億国民が参拝してこその靖國神社である。
これは断じて政治の問題ではない。
ましてや政治家が政局がらみで論じてよいものではない。
ところが、隣国の干渉が起こる度に、政治問題に貶められてしまう。
これこそ彼等の思う壺である。
ノイズに反応して自らがノイズになっている。
「静かにしろ!」と大声で叫んでいる矛盾に気付いていない。
保守議員は「靖国参拝」を口にするな。耐えて黙って参拝せよ。誰に向かっても吠える必要は無い。
自らが参拝という「行動」で示せばそれでよい。それは政治家以前の一国民としての自然な感情である。私人か公人か、などという馬鹿な話ではない。立場によって変わるものではない、ということを強調したいのである。
毎年毎年、この時期になれば、マスコミが「参拝しますか、しませんか」「公人ですか、私人ですか」と繰り返してきた。ところが、この二年は全く様変わりして、マスコミは沈黙しているのである。ならば保守議員も黙ってやり過ごせ。
誰があんな連中に参拝などして欲しいものか。
靖国が穢れるだけではないか。
仮に、誰に向けての人気取りか、突如として首相参拝が実現したとしよう。しかし、首相退任後は絶対に参拝しないのである。それどころか、参拝する政治家を徹底的に非難するだろう。そんな人間に形だけ参拝されては堪らない。現政府の人間は一人残らずお断りである。
如何なる意図があろうとも、政治家が参拝問題を口にすれば、それは政治問題になる。我々国民が心静かに運命の日に想いを馳せようとする時に、それはノイズにしかならない。隣国が干渉するから黙るのではない、元々心静かに時を迎えるのが日本の流儀なのである。参拝を批判する人間も、声高に首相参拝を訴える人間も、この意味では同罪である。
何も語らず声すら挙げず、ただ黙々と列を為して、靖国に詣でればよいのである。
★ ★ ★ ★ ★
マスコミの異常性は、どの社も変わらない。国を愛する多くの人が、最後の期待を寄せている産経にしても同じである。特に靖國参拝問題に関しては、実に不潔なことを平然と書いてきた。麻生内閣の時には、前後四回にも渡って首相参拝を論じ、その執拗さには異様なものを感じさせた。
産経もまた靖國問題を論じる資格が無いのである。選挙目前の麻生内閣を八つ当たり的に批判して、結果的に民主党政権誕生に力を貸した。そして本年「6月25日」の以下の記事を読んで頂ければ、その異様さを改めて確認出来るだろう。
6月25日
▼「菅さんの権力に対する執着心が、自身の再生エネルギーになっている」と渡辺喜美・みんなの党代表はうまいことを言うが、それほどまでに延命したいのなら抄子が知恵をお貸ししよう。霊験あらたかで効果抜群の妙案を。
▼最近の歴代首相は、さきの大戦で亡くなった人々を悼むため6月23日の沖縄を皮切りに広島、長崎を巡り、8月15日の全国戦没者追悼式に参列するのが常である。これに靖国神社参拝を加えればいいだけの話である。
▼ 国のために命を捧げた兵士の霊に首相が頭を垂れるのは、どの国でも当たり前の話である。毎年参拝した小泉純一郎首相が5年の長期政権を全うし、参拝しなかった首相が、いずれも短命に終わっているのは偶然ではない。ひとたび首相が参拝すれば、支持率はアップし、政権延命は間違いない。(2011.6.25
02:35)
産経は靖國問題をオモチャにしているのだ。この記事を書いた人間の品性の下劣さは譬えようもない。靖國参拝が「霊験あらたかで効果抜群」の延命策だとハッキリ書いている。本気なら許せない、冗談ならなお許せない。この程度の認識で、自民党歴代総理の靖國参拝問題を論じ、様々な批判を書き連ねて自民党支持率の低下に貢献してきたのが、彼等の正体だということになる。よくもまあ、「靖國に行けば支持率アップで延命間違いない」などと書けたものである。
★ ★ ★ ★ ★
もう一度書く。保守議員は靖國問題から離れよ!
これは常識の問題である。仮に実弾飛び交う戦闘状態だとしよう。敵は間近まで迫ってきている。その時、彼等は「靖國神社を護れ!」と叫びながら、靖國神社に立て籠もるつもりなのか。靖國を弾避けにして、自らはそこから応戦するつもりなのか。そんなことをしたら神社は格好の標的になって、焼け落ちてしまうではないか。
本気で靖國を護りたいのなら、出来る限りそこから離れて「俺はここに居るぞ!」と敵前で踊ってみせるべきである。陽動作戦を取り、自らを囮として敵を靖國から遠ざけるべきなのである。これは全く常識の問題ではないか。
実弾飛ばぬ言論戦、ネットを使った空中戦においても状況は全く同じである。靖國を護りたければ、沈黙すればよい。左翼の得意技である「話題逸らし」をやって、敵を別件に誘導すればよい。そうして静かに参拝出来る環境を護るのだ。
我々も同様である。大声で参拝を論じる必要は無い。シュプレヒコールは必要無いのである。雄叫びを上げる代わりに、静かに友人知人を誘えばよい。手紙を認め、「久しぶりに会わないか、待ち合わせ場所は、そうだ靖國の前にしよう」と誘えばよいのである。言論空間にどれほどの言説が流れているかではない、九段の駅にどれほどの人が溢れているかが問題なのである。それこそが敵の心臓を射貫く最終兵器なのである。
靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。