現実がシビアであればあるほど、逃避では無いが、本の世界に没頭したくなる癖が私にはあるようで、子どもの頃は押し入れに隠れてでもいろんな本に読みふけっては、親によく叱られていたものだった。
そして、最近もなぜかまたその癖が復活したようで、忙しいにも関わらず本が手放せない。
読みかけの本が手元にいっぱいあるのだが、その中ですでに読了した下記の本をご紹介する。
『夢行脚 俳人・諸九の恋』(中央公論社/浮穴みみ著)
白石さんという方がこの本の書評を書いておられたので、そこからあらすじなど、下記一部引用させていただく。
……………………………………………………………………………
江戸中期、『奥の細道』で松尾芭蕉が歩いた道を、老齢の身でたどった実在の女性俳諧師がいた。
それがこの物語の主人公・永松なみこと諸九(しょきゅう)である。
彼女は庄屋の妻の座を捨て、俳諧の宗匠・有井湖白(ありいこはく)とかけおちをしたという過去を持つ。
その湖白が亡くなると出家し、やがて女宗匠になっていくーー
そんな波瀾に満ちた生涯を描いた評伝小説だ。
(中略)
なみは湖白との逃避行のとき<人の一生は夢>であり、その夢に生きることが俳諧師の仕事だと受け止める。
そこに<本当の、わたくし>があるのだと。
そんな愛と俳諧と夢に生きた一途な女性の物語。
どこまでも<本当の、わたくし>の心の赴くまま、前へと進む姿は、透明な水のひと筋のようにすがすがしい。
…………………………………………………………………………
以上、引用抜粋終わり。
この時代の不義密通は重罪、死罪にも価するぐらいだったのに、この物語(史実が織り交ぜられている)においては何と二人は無事逃げ仰せて生き延び、奇跡的に添い遂げることが出来、晩年は俳諧師としても成功し、幸せな人生を全うするという、現代だって難しいような「ハッピーエンド」を迎えるところが、何と言っても気に入る。
そんな「夢のようなこと」を達成するのは、至難の技なのに、一体どうやって!?と、まるで推理小説のようなスリルとドキドキを覚えるが、この評者も書いているように、「あくまでも端正な文章で淡く美しく描かれている」ために、安心して読めるのだ。
そしてだからこそ、まっことに「すがすがしい」気持ちのいい読後感を得ることが出来る。
もしもこのところ鬱々として過ごしておられる人がいたら、一服の清涼剤のように、この本をぜひお薦めしたい。
読み終わったら「よし、自分も夢に生きよう!」と勇気が湧いて来るかもしれない。
私の亡父(大正初め頃の生まれ)もまたそのような「夢に生きた人」だった。
けれども父は男だったゆえに、夢だけに生きるわけにはいかず、親や妻子や兄弟姉妹たちを養うために、「夢と共に生きた」というべきか、うまくバランスを取りながら夢と現実を両立させていたようにも思える。
それでも父にはどこか常にさみしさがあったように思う。
それは諸九のように夢だけを選び、その夢を貫いて徹底して夢に生き抜くということが出来なかったからかもしれない。
もし父が生前にこの本に巡り会っていたら、果たしてどう感じたことだろうか。
父に倣って私も俳句を始めたあの十代の頃が無性になつかしい、、。
父と、この本を中にして共に語り合ってみたかったなぁ!と、しみじみ思う。
ちなみに父もまた俳句を50年以上も(死ぬ間際まで)続けていた風流人であったから。
私は俳句を途中で止めて、現実だけに生き、その後、30代の初めに川柳の師・時実新子に巡り遇って以降、再び夢に生き始めたのだった。
けれどもその夢も、師の死で半ばにして終わり、夢から覚めてみれば現実のただ中に浮き沈みしている私の姿ばかりが見える。
アズミックアートという夢、絵の夢、音楽の夢、それらも今や風前の灯火?のように、「現実」の前に揺らいで今にも儚く消えてしまいそうだ。
あぁ、私も諸九のように、尼さんになって旅をしてみたい!
あちこち、好きなところに滞在し、、漂泊の旅の途上で人生を終えるのもいいかもしれない。
なんてことを考えていると、亡くなった友達の声や師の声がふと聞こえて来そうだ。
「自己憐憫は止めなさい!それよりもさっさと行動しなさい!!」と。
ほんとにその通り。夢に生きるというのは、ただ坐ってぼぉ~と夢見ていることでは決して無い。
何よりもその夢をしっかり胸に抱きながら「現実」のただ中で行動し、生き抜く(生き延びる)こと。
それは、「現実」もまた「夢」だと悟っているからこそ!
夢を忘れかけている人、夢に生きたくても「現実」に阻まれて苦しんでいる人、どうやって夢に生きることが出来るのかを具体的に知りたい人、自分には夢なんか無いと思い込んでいる人、そして、「今更この年でそんな夢なんて!」と最初からあきらめている人、、そんな人たちにぜひ読んでもらいたい本である。
下記はアズミックアートの宇宙画『ミルキーウェイ』です。
無断転載、コピー等はご遠慮ください。
そして、最近もなぜかまたその癖が復活したようで、忙しいにも関わらず本が手放せない。
読みかけの本が手元にいっぱいあるのだが、その中ですでに読了した下記の本をご紹介する。
『夢行脚 俳人・諸九の恋』(中央公論社/浮穴みみ著)
白石さんという方がこの本の書評を書いておられたので、そこからあらすじなど、下記一部引用させていただく。
……………………………………………………………………………
江戸中期、『奥の細道』で松尾芭蕉が歩いた道を、老齢の身でたどった実在の女性俳諧師がいた。
それがこの物語の主人公・永松なみこと諸九(しょきゅう)である。
彼女は庄屋の妻の座を捨て、俳諧の宗匠・有井湖白(ありいこはく)とかけおちをしたという過去を持つ。
その湖白が亡くなると出家し、やがて女宗匠になっていくーー
そんな波瀾に満ちた生涯を描いた評伝小説だ。
(中略)
なみは湖白との逃避行のとき<人の一生は夢>であり、その夢に生きることが俳諧師の仕事だと受け止める。
そこに<本当の、わたくし>があるのだと。
そんな愛と俳諧と夢に生きた一途な女性の物語。
どこまでも<本当の、わたくし>の心の赴くまま、前へと進む姿は、透明な水のひと筋のようにすがすがしい。
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以上、引用抜粋終わり。
この時代の不義密通は重罪、死罪にも価するぐらいだったのに、この物語(史実が織り交ぜられている)においては何と二人は無事逃げ仰せて生き延び、奇跡的に添い遂げることが出来、晩年は俳諧師としても成功し、幸せな人生を全うするという、現代だって難しいような「ハッピーエンド」を迎えるところが、何と言っても気に入る。
そんな「夢のようなこと」を達成するのは、至難の技なのに、一体どうやって!?と、まるで推理小説のようなスリルとドキドキを覚えるが、この評者も書いているように、「あくまでも端正な文章で淡く美しく描かれている」ために、安心して読めるのだ。
そしてだからこそ、まっことに「すがすがしい」気持ちのいい読後感を得ることが出来る。
もしもこのところ鬱々として過ごしておられる人がいたら、一服の清涼剤のように、この本をぜひお薦めしたい。
読み終わったら「よし、自分も夢に生きよう!」と勇気が湧いて来るかもしれない。
私の亡父(大正初め頃の生まれ)もまたそのような「夢に生きた人」だった。
けれども父は男だったゆえに、夢だけに生きるわけにはいかず、親や妻子や兄弟姉妹たちを養うために、「夢と共に生きた」というべきか、うまくバランスを取りながら夢と現実を両立させていたようにも思える。
それでも父にはどこか常にさみしさがあったように思う。
それは諸九のように夢だけを選び、その夢を貫いて徹底して夢に生き抜くということが出来なかったからかもしれない。
もし父が生前にこの本に巡り会っていたら、果たしてどう感じたことだろうか。
父に倣って私も俳句を始めたあの十代の頃が無性になつかしい、、。
父と、この本を中にして共に語り合ってみたかったなぁ!と、しみじみ思う。
ちなみに父もまた俳句を50年以上も(死ぬ間際まで)続けていた風流人であったから。
私は俳句を途中で止めて、現実だけに生き、その後、30代の初めに川柳の師・時実新子に巡り遇って以降、再び夢に生き始めたのだった。
けれどもその夢も、師の死で半ばにして終わり、夢から覚めてみれば現実のただ中に浮き沈みしている私の姿ばかりが見える。
アズミックアートという夢、絵の夢、音楽の夢、それらも今や風前の灯火?のように、「現実」の前に揺らいで今にも儚く消えてしまいそうだ。
あぁ、私も諸九のように、尼さんになって旅をしてみたい!
あちこち、好きなところに滞在し、、漂泊の旅の途上で人生を終えるのもいいかもしれない。
なんてことを考えていると、亡くなった友達の声や師の声がふと聞こえて来そうだ。
「自己憐憫は止めなさい!それよりもさっさと行動しなさい!!」と。
ほんとにその通り。夢に生きるというのは、ただ坐ってぼぉ~と夢見ていることでは決して無い。
何よりもその夢をしっかり胸に抱きながら「現実」のただ中で行動し、生き抜く(生き延びる)こと。
それは、「現実」もまた「夢」だと悟っているからこそ!
夢を忘れかけている人、夢に生きたくても「現実」に阻まれて苦しんでいる人、どうやって夢に生きることが出来るのかを具体的に知りたい人、自分には夢なんか無いと思い込んでいる人、そして、「今更この年でそんな夢なんて!」と最初からあきらめている人、、そんな人たちにぜひ読んでもらいたい本である。
下記はアズミックアートの宇宙画『ミルキーウェイ』です。
無断転載、コピー等はご遠慮ください。