「夢に生きる」というテーマの続きで、私の経験を書いてみます。
子どもがまだ小さかった頃のこと、ある時私は肺炎にかかってしまいました。
単なる風邪と思っていたら、長く微熱が続き、受診して初めてわかったのです。
すぐに入院を~と言われたのですが、その時は病室が空いていず、入院待ちということで一旦家に帰りました。
それからしばらく日中もずっと自宅で寝ている日々が続いたのですが、その時、近くに住むおば(父の妹)が、「昔自分も肋膜炎を患ったことがあるけれど、、」と言って、「こんにゃく湿布」を教えてくれたのです。
それはこんにゃくを温めてタオルに包み、それを患部に当てるという単純な手当法でしたが、簡単なこともあってやりやすく、その治療を続けながら(病室が空くのを待つ間に)私はいろんなことを想っていました。
その中でも一番想ったことは、「このまま死ぬとしたら、それまでに何をしたいか」ということでした。
それを考えた時に、ふと三つのやりたいことが浮かんで来ました。
一つは、その頃なぜか頭の中に勝手に物語が浮かび、寝ていてもストーリーがひとりでに出来上がり、物語の最初から最後まで全部暗記しているというか、頭の中ですらすらとその全てが書けたのですが、それをあるところに投稿することでした。
またもう一つは、2度訪れたことのあるSwedenのことでした。
私は高校の時からのペンパルがたまたまスウェーデン人だったので、彼女からもらった素敵なクリスマスカードやプレゼント等もあり、また27歳と29歳の時に旅をした折りのお土産や、彼女の家に滞在させてもらったりした時にいただいた想い出の品や旅の記念写真、地図、コイン、その他絵本など、たくさんの資料がありました。
その頃(1970年代)はまだ北欧はあまり日本では一般に知られておらず、私の持っている「宝もの」をみんなに見てもらいたいと思ったのです。
もしも私がこのまま死んでしまったら、それこそ「宝の持ち腐れ」になってしまってもったいないと感じたのです。
それで、「小さな旅」というタイトルで、チケット(招待状のような感じで)も手作りし、ある喫茶店を借りて、展示と交流の集いを計画したのです。
来てもらうのはほとんど知り合いか友人たちですが、その頃住んでいた街のタウン誌にもお知らせと案内を載せてもらいました。
そして、最後の一つは、『女ならやってみな!』という映画の自主上映運動で知り合った仲間たちと一緒に、女性のたまり場「フリースペース」を開くことでした。
それはその頃流行り出していたリサイクルショップを兼ねたものでもあったのです。
もちろんこれら三つのことを実行に移したのは、実際に体が元気になってからでしたが、そのイメージのほとんどは寝ている時に頭の中で出来上がっていたのです。
そしてそういうことを毎日考えていろいろ想像しているうちに、自分が肺炎にかかっていることなどすっかり忘れ、なぜかいつのまにか熱も下がり、病室が空くまでに肺炎はすっかり平癒してしまったのでした!
(「こんにゃく湿布」も効いたかもしれませんが、、)
家で寝付いていたその安静期間はほんの十日間ぐらいだったかと思います。
その病気をきっかけにして、(その頃30代の前半だった)私は、まるで「不死鳥」のように蘇ったのでした!
ちなみに「肺炎」という病気は、ルイーズ・ヘイさんの『ライフ・ヒーリング』という本によりますと、「肺」は「生」を取り入れたり出したりするところで、「肺に問題があるのはふつう生を取り入れるのがこわいからです。あるいは思う存分に生きてはいけないと思い込んでいるからかもしれません」と書いてありました。
つまり、彼女の言によれば、「これまで女性は息をひそめて生きてきました。第二級市民のように生活空間を持つ権利も、時には生きる権利さえも取り上げられているのだと思い込んで」いたことが、その病の底にはあるらしいのです。
だからこそ、「女性は社会の一員として自分の空間を持ち、息を深く胸一杯吸い込んで」自分らしく生きることで、元気になっていくのですね♪
もちろんこのようなことをその頃の私は理論的に解っていたわけでは無いし、その当時は、病気に対してこのような「スピリチュアルな見方」やアプローチが出来るなんてことは、全く知られていませんでした。
まして、そのような女性の置かれた社会的立場の「息苦しさ」(生き苦しさ)が肺を傷めるなんて思ってもみませんでした。(誰にとってもそれがその病気の全ての原因とは言いませんが、、)
けれども当時の自分の状況を思い返してみると、まさにその通りの環境にありました。
それまでずっと保育士(昔は保母さんと呼ばれていた)として正職員(公務員)でバリバリ働いていた私が、夫の仕事の都合で転居したためにその仕事を辞めざるを得ず、その頃は年齢制限もあり、一旦辞めると再び正職員になるのは難しく、また子どもの幼稚園の送り迎えなどもあって、ほんの短時間のパートで働くぐらいしか出来なかったのです。
なので、私の場合は、そういう悶々とした思いが積もって、胸の塞がれた状態が長く続き、それがそのような「肺」の病として外に現れ出たのかもしれません。
だからこそ何か新しいことを思い付き、女性の仲間たちと共に新鮮な空気や時代の新しい流れに触れて、どんどん元気と勇気を取り戻していったのかもしれません。
その頃の自分の勢いを思い返してみると、もしかしたらあれは「躁状態」!?だったのではと思うぐらいに、すっかりはじけていた気がします。今のおとなしい?私から見ると、同じ自分とは思えないぐらいです(笑)。
ところで、話が長くなりましたが、本題はここからです。
夢の実現の「ポイント」というか、ヒントなんですが、最近読んだPHP5月号(No.780)の小冊子の中のエッセイにとても参考になることが書いてありました。
(麻生圭子さんの「京都、日々是いいかげん」という連載エッセイの五です)
その中から下記、一部抜粋引用します。
「何が好きかより、何ができるか」
…………………………………………………………………
好きなことを自由に仕事にできればいいですよね。
その好きなことが、人からも求めれるなら、いうことなしです。
(中略)
うつわを見ていると、土をいじっていると、無心になれる。やさしい気持ちになれる、しあわせだ、好きだ、それはみんな主観です。
自分がどう感じるか、です。
それは自由で、美しいことだけれど、それだけでは仕事にならない。
仕事というのは、客観的に、それを評価してくれる人がいて、はじめて成り立つものだからです。
でも、得意なこと、というのは、客観です。
自分は何ができるのか。
何をするとき、自分はいちばん生きるのか。役に立てるのか。
(中略)
ちなみに私は、好きなことより、得意なことを優先することで、仕事を得てきた。
……………………………………………………………………
以上引用抜粋終わり。
この一文を読んで、なるほど、そうだったのか!と深く納得がいきました。
私もよく「好きなことを仕事に出来ていいね」と羨ましがられたりすることも多いのですが、考えてみると、私は絵は元々好きで美術館にもよく行ったりしていましたが、そんな関係の仕事をしようとか、美大に行きたいとか、そんなことは一度も思ったこともありませんでした。
大学を出て就職をする時は今よりももっと女性には求人すらほとんど来なかった時代です。
女性の仕事と言えば保母さんとか、看護婦さんとか、学校の先生ぐらいしか無かったし、もしも例えばスチュワーデスに憧れたとしても、容姿端麗、自宅通勤、おまけに身長などの厳しい条件があり、私にはとても無理でした。
世界中を旅してみたいとか、通訳や翻訳の仕事をしてみたいと思ったこともありましたが、それはほんとにただ単純に好きというだけで、本気でそれについて「どうしたらそうなれるのか」調べたり、努力したりしたこともなかったのです。
中でも本は「本の虫」と言われるぐらい好きで、「活字中毒」ぐらいに、ご飯を食べる時でも何か活字を見ながら、、というそんな感じでしたが、それでも出版社に勤めようとか、図書館で働きたいとか、そういうことは全く思いもしませんでした。
今から思えば司書の仕事等、資格も取れた筈なのに、ほんとに不思議です。
ともかく、好きなことよりも、「自分に出来ること」をするしかなかったのです。
そういうわけでしたので、子どもは好きでしたが、だから保母さんになったわけでは全く無くて、その時の自分にはそれしか出来ることが無かったからなのです。
その時の私の願いはただ、ただ、「家を出て自活したい」というその一点のみでした。
ともかくどんなところであれ、どんな仕事であれ、雇ってくれるところがあれば、就職して何とか一人で食べていければそれでいいと真剣に思っていたのです。
そして一旦就職したらそこを変わるとか、辞めるなんて、全く考えたこともなかったのです。
とにかく一生働いて一人で食べていきたいというのが、その頃の私の何よりの願いと覚悟だったのです。
それが「自由」の基本だと信じていたからです。
そんな私が今のような仕事をするようになったなんて!?
1995年(平成7年)の阪神淡路大震災がきっかけとなって、その後「自動書記」による絵は描き続けてはいても、それが仕事になるとか、仕事にしようなんてまさか思ってもみず、それが「突然のリストラ」にあったことでこの道で食べていくようになったのですから、ほんとに人生はわからないものですね。
だから、麻生さんが書いておられることにとっても共感したのです。
「夢に生きる」ことは、実は「自分に出来ることをする」ということでもあるのかもしれませんね?
『夢行脚』の諸九(しょきゅう)だって、そうだったのです。
俳諧で生活の糧を得ていけるなんて、そんな夢みたいなこと、初めは思ってもみなかったのです。
ただ、「自分に出来ること」として、ほんとうにそれしかなかったからなのです。
それも最初からそれが得意だったのでは無く、俳諧を知ってから長い年月をかけて少しずつ学んでいったのです。
そしてそれがどんどん好きになり、その好きを追求していった果てにそれが、仕事となっていったのです。
決して「これを仕事にしてやろう!」と思って、句を詠んでいたわけではなかったのです。
彼女は、ただ、ただ、置かれたその環境の中で「自分に出来ること」として精一杯目の前のことに集中し、それを句にすることに打ち込んでいく中で、その句が評価され、周囲の人たちに喜ばれ、やがてその存在が広く知られていったのです。
そんな彼女の生き方の素晴らしいところは、決してそれを止めなかったことだと思います。
夢に生きることを決してあきらめなかったからこそ、生涯を「夢に生きる」ことが出来たのではないでしょうか。
随分長くなってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます♪
子どもがまだ小さかった頃のこと、ある時私は肺炎にかかってしまいました。
単なる風邪と思っていたら、長く微熱が続き、受診して初めてわかったのです。
すぐに入院を~と言われたのですが、その時は病室が空いていず、入院待ちということで一旦家に帰りました。
それからしばらく日中もずっと自宅で寝ている日々が続いたのですが、その時、近くに住むおば(父の妹)が、「昔自分も肋膜炎を患ったことがあるけれど、、」と言って、「こんにゃく湿布」を教えてくれたのです。
それはこんにゃくを温めてタオルに包み、それを患部に当てるという単純な手当法でしたが、簡単なこともあってやりやすく、その治療を続けながら(病室が空くのを待つ間に)私はいろんなことを想っていました。
その中でも一番想ったことは、「このまま死ぬとしたら、それまでに何をしたいか」ということでした。
それを考えた時に、ふと三つのやりたいことが浮かんで来ました。
一つは、その頃なぜか頭の中に勝手に物語が浮かび、寝ていてもストーリーがひとりでに出来上がり、物語の最初から最後まで全部暗記しているというか、頭の中ですらすらとその全てが書けたのですが、それをあるところに投稿することでした。
またもう一つは、2度訪れたことのあるSwedenのことでした。
私は高校の時からのペンパルがたまたまスウェーデン人だったので、彼女からもらった素敵なクリスマスカードやプレゼント等もあり、また27歳と29歳の時に旅をした折りのお土産や、彼女の家に滞在させてもらったりした時にいただいた想い出の品や旅の記念写真、地図、コイン、その他絵本など、たくさんの資料がありました。
その頃(1970年代)はまだ北欧はあまり日本では一般に知られておらず、私の持っている「宝もの」をみんなに見てもらいたいと思ったのです。
もしも私がこのまま死んでしまったら、それこそ「宝の持ち腐れ」になってしまってもったいないと感じたのです。
それで、「小さな旅」というタイトルで、チケット(招待状のような感じで)も手作りし、ある喫茶店を借りて、展示と交流の集いを計画したのです。
来てもらうのはほとんど知り合いか友人たちですが、その頃住んでいた街のタウン誌にもお知らせと案内を載せてもらいました。
そして、最後の一つは、『女ならやってみな!』という映画の自主上映運動で知り合った仲間たちと一緒に、女性のたまり場「フリースペース」を開くことでした。
それはその頃流行り出していたリサイクルショップを兼ねたものでもあったのです。
もちろんこれら三つのことを実行に移したのは、実際に体が元気になってからでしたが、そのイメージのほとんどは寝ている時に頭の中で出来上がっていたのです。
そしてそういうことを毎日考えていろいろ想像しているうちに、自分が肺炎にかかっていることなどすっかり忘れ、なぜかいつのまにか熱も下がり、病室が空くまでに肺炎はすっかり平癒してしまったのでした!
(「こんにゃく湿布」も効いたかもしれませんが、、)
家で寝付いていたその安静期間はほんの十日間ぐらいだったかと思います。
その病気をきっかけにして、(その頃30代の前半だった)私は、まるで「不死鳥」のように蘇ったのでした!
ちなみに「肺炎」という病気は、ルイーズ・ヘイさんの『ライフ・ヒーリング』という本によりますと、「肺」は「生」を取り入れたり出したりするところで、「肺に問題があるのはふつう生を取り入れるのがこわいからです。あるいは思う存分に生きてはいけないと思い込んでいるからかもしれません」と書いてありました。
つまり、彼女の言によれば、「これまで女性は息をひそめて生きてきました。第二級市民のように生活空間を持つ権利も、時には生きる権利さえも取り上げられているのだと思い込んで」いたことが、その病の底にはあるらしいのです。
だからこそ、「女性は社会の一員として自分の空間を持ち、息を深く胸一杯吸い込んで」自分らしく生きることで、元気になっていくのですね♪
もちろんこのようなことをその頃の私は理論的に解っていたわけでは無いし、その当時は、病気に対してこのような「スピリチュアルな見方」やアプローチが出来るなんてことは、全く知られていませんでした。
まして、そのような女性の置かれた社会的立場の「息苦しさ」(生き苦しさ)が肺を傷めるなんて思ってもみませんでした。(誰にとってもそれがその病気の全ての原因とは言いませんが、、)
けれども当時の自分の状況を思い返してみると、まさにその通りの環境にありました。
それまでずっと保育士(昔は保母さんと呼ばれていた)として正職員(公務員)でバリバリ働いていた私が、夫の仕事の都合で転居したためにその仕事を辞めざるを得ず、その頃は年齢制限もあり、一旦辞めると再び正職員になるのは難しく、また子どもの幼稚園の送り迎えなどもあって、ほんの短時間のパートで働くぐらいしか出来なかったのです。
なので、私の場合は、そういう悶々とした思いが積もって、胸の塞がれた状態が長く続き、それがそのような「肺」の病として外に現れ出たのかもしれません。
だからこそ何か新しいことを思い付き、女性の仲間たちと共に新鮮な空気や時代の新しい流れに触れて、どんどん元気と勇気を取り戻していったのかもしれません。
その頃の自分の勢いを思い返してみると、もしかしたらあれは「躁状態」!?だったのではと思うぐらいに、すっかりはじけていた気がします。今のおとなしい?私から見ると、同じ自分とは思えないぐらいです(笑)。
ところで、話が長くなりましたが、本題はここからです。
夢の実現の「ポイント」というか、ヒントなんですが、最近読んだPHP5月号(No.780)の小冊子の中のエッセイにとても参考になることが書いてありました。
(麻生圭子さんの「京都、日々是いいかげん」という連載エッセイの五です)
その中から下記、一部抜粋引用します。
「何が好きかより、何ができるか」
…………………………………………………………………
好きなことを自由に仕事にできればいいですよね。
その好きなことが、人からも求めれるなら、いうことなしです。
(中略)
うつわを見ていると、土をいじっていると、無心になれる。やさしい気持ちになれる、しあわせだ、好きだ、それはみんな主観です。
自分がどう感じるか、です。
それは自由で、美しいことだけれど、それだけでは仕事にならない。
仕事というのは、客観的に、それを評価してくれる人がいて、はじめて成り立つものだからです。
でも、得意なこと、というのは、客観です。
自分は何ができるのか。
何をするとき、自分はいちばん生きるのか。役に立てるのか。
(中略)
ちなみに私は、好きなことより、得意なことを優先することで、仕事を得てきた。
……………………………………………………………………
以上引用抜粋終わり。
この一文を読んで、なるほど、そうだったのか!と深く納得がいきました。
私もよく「好きなことを仕事に出来ていいね」と羨ましがられたりすることも多いのですが、考えてみると、私は絵は元々好きで美術館にもよく行ったりしていましたが、そんな関係の仕事をしようとか、美大に行きたいとか、そんなことは一度も思ったこともありませんでした。
大学を出て就職をする時は今よりももっと女性には求人すらほとんど来なかった時代です。
女性の仕事と言えば保母さんとか、看護婦さんとか、学校の先生ぐらいしか無かったし、もしも例えばスチュワーデスに憧れたとしても、容姿端麗、自宅通勤、おまけに身長などの厳しい条件があり、私にはとても無理でした。
世界中を旅してみたいとか、通訳や翻訳の仕事をしてみたいと思ったこともありましたが、それはほんとにただ単純に好きというだけで、本気でそれについて「どうしたらそうなれるのか」調べたり、努力したりしたこともなかったのです。
中でも本は「本の虫」と言われるぐらい好きで、「活字中毒」ぐらいに、ご飯を食べる時でも何か活字を見ながら、、というそんな感じでしたが、それでも出版社に勤めようとか、図書館で働きたいとか、そういうことは全く思いもしませんでした。
今から思えば司書の仕事等、資格も取れた筈なのに、ほんとに不思議です。
ともかく、好きなことよりも、「自分に出来ること」をするしかなかったのです。
そういうわけでしたので、子どもは好きでしたが、だから保母さんになったわけでは全く無くて、その時の自分にはそれしか出来ることが無かったからなのです。
その時の私の願いはただ、ただ、「家を出て自活したい」というその一点のみでした。
ともかくどんなところであれ、どんな仕事であれ、雇ってくれるところがあれば、就職して何とか一人で食べていければそれでいいと真剣に思っていたのです。
そして一旦就職したらそこを変わるとか、辞めるなんて、全く考えたこともなかったのです。
とにかく一生働いて一人で食べていきたいというのが、その頃の私の何よりの願いと覚悟だったのです。
それが「自由」の基本だと信じていたからです。
そんな私が今のような仕事をするようになったなんて!?
1995年(平成7年)の阪神淡路大震災がきっかけとなって、その後「自動書記」による絵は描き続けてはいても、それが仕事になるとか、仕事にしようなんてまさか思ってもみず、それが「突然のリストラ」にあったことでこの道で食べていくようになったのですから、ほんとに人生はわからないものですね。
だから、麻生さんが書いておられることにとっても共感したのです。
「夢に生きる」ことは、実は「自分に出来ることをする」ということでもあるのかもしれませんね?
『夢行脚』の諸九(しょきゅう)だって、そうだったのです。
俳諧で生活の糧を得ていけるなんて、そんな夢みたいなこと、初めは思ってもみなかったのです。
ただ、「自分に出来ること」として、ほんとうにそれしかなかったからなのです。
それも最初からそれが得意だったのでは無く、俳諧を知ってから長い年月をかけて少しずつ学んでいったのです。
そしてそれがどんどん好きになり、その好きを追求していった果てにそれが、仕事となっていったのです。
決して「これを仕事にしてやろう!」と思って、句を詠んでいたわけではなかったのです。
彼女は、ただ、ただ、置かれたその環境の中で「自分に出来ること」として精一杯目の前のことに集中し、それを句にすることに打ち込んでいく中で、その句が評価され、周囲の人たちに喜ばれ、やがてその存在が広く知られていったのです。
そんな彼女の生き方の素晴らしいところは、決してそれを止めなかったことだと思います。
夢に生きることを決してあきらめなかったからこそ、生涯を「夢に生きる」ことが出来たのではないでしょうか。
随分長くなってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます♪