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先日のテレビを見ていると、大学生の大半が小説とかの本を読まなくなっているとか。

スマフォやタブレットなどのデジタルアイテムに掛かりっきりなのかも・・。
そのツールを介して、小説なりを読む場合もあるだろうか。
尊敬してやまない池波文学。

その中のエッセイ集は、今の世の中で忘れられかけていることが多く掲載されている。
特に若い人に、若いうちに読んでもらうと、生きるための光明も見いだせる・・・と、思われる。
「人間という生きものは矛盾の塊なんだよ。死ぬがために生まれてきて、死ぬがために毎日飯を食って・・・そうでしょう、こんな矛盾の存在というのはないんだ。そういう矛盾だらけの人間が形成している社会もまた矛盾の社会なんだよ、すべてが」(男の作法より)
このように矛盾で成り立っている人間社会。
理論づくめで、白と黒に振り分けることばかりでは、世の中を生きていけない。
白と黒の間の色合いが分からないといけない。
つまり、それが“融通”というものである。
ところが、その“融通”だけを優先することでは、またやっていけない。
これが、池波小説の一つのベースである。

したがって、「理論や計算に基づいた厳しい姿勢と、そこにきかせる人間的な融通と、どちらか一方だけではだめなんだよ」(男の作法より)と、なるわけである。
その典型が「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵の生きざまそのものである。
それこそが、池波正太郎先生の生きざまでもあるから、多くの人生訓を学ぶには最高の著書である。

それらのエッセイ集や小説群を読み解くと、「気働き」も出てくる。
これは、最近特にいいまわされている
“お・も・て・な・し”
にも通ずることである。
「例えば炊事洗濯など、昔はいっぺんに二つも三つものことを全部やらなければならない。頭の中にいつもいくつかのことがあって、それを同時進行でこなしてゆくのが気働きですよね」(男の系譜より)
「今は、電気がまのスイッチを入れるだけだから、気働きがいらないため鈍化しちゃうんですね。対人関係でも気を使わなくなっている」(男の系譜より)
「一つのことをやりながら、つねに他のことにも気を配る、そういう訓練がいまの人にはなくなっちゃった。こういう神経のまわりかたというのは、結局、身体で覚えて行くものでね、それも早いうちからやらなきゃ駄目なんだよ」(男の作法より)
「同じ時間に二つのことをやる・・・」(男の作法より)
つまり、あらゆるものが次々と便利になっている現代。
それは悪いことではないが、気働きというようなものがなくなってしまうから、やはり困ってしまうと・・・。

この“気働き”こそが日本人に連綿として受け継がれてきたことであったろうが、戦後教育の荒廃で薄らいできている。
その“気働き”がなかったら、「おもてなし」もできない。
今の社会ではそのなさが、如実に表れている場面が多くなってきた。
自分さえよければ、何でもいい・・・。
盗撮、オレオレ詐欺、ストーカー行為、無差別殺人へと連鎖してきている。

人は生まれた日から死ぬるところへ向かって歩んでいる。
だからこそ、気働きを学び、人間形成をなし限りある命を有意義に生きなければならない・・・と、いうことであろう。
これが、なかなかに真似のできないことであるが、生きんがための指標なのかも知れない。(夫)
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