たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

寺社の規律と独立 <宗教界 介入の影に警戒・・・教義提供で>と<3億円詐欺で共犯に問われた住職と檀家総代が法廷バトル>を読みながら

2018-04-06 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

180406 寺社の規律と独立 <宗教界 介入の影に警戒・・・教義提供で>と<3億円詐欺で共犯に問われた住職と檀家総代が法廷バトル>を読みながら

 

寺社は、日本人のみならず外国人にも人気のスポットになっていますね。ある放送で、外国人に説明する中で、神社で言えば鳥居、寺でいえば山門(大門)が世俗と清浄な空間を仕切る結界といった趣旨の解説があり、そこをくぐる前にそれぞれ礼をを尽くすとともに、そこから一歩入ると、浄界に入っていくことになり、それに応じた備えとしきたりがあるというのです。玉砂利もそうでしょう。

 

そういった仕組みというか仕掛けというか、社寺がもつ雰囲気を醸しだし、実際、心ある人は次第に浄化されていくのでしょうね。しかし、そういった神社仏閣も人間が営むわけですから、人間の中にはなかなか世俗の汚れを払いきれない人も少なくないですね。

 

今日の産経ウェブ記事<3億円詐欺で共犯に問われた住職と檀家総代が法廷バトル…「信じたのが間違い」VS「利用された」>は、以前、このブログでも少し取り上げた松山市の黄檗宗の寺院「安城寺」を舞台に黄檗宗大本山「萬福寺」まで巻き込んだ事件で、共犯者とされた両者が法廷でバトルを演じているようです。

 

共犯事件では、よくあるパターンで、仲間割れというか、どちらがだました、だまされたという話でしょうか。

<寺の住職と檀家(だんか)総代。二人三脚で数億円を集金したとされる男2人は、公判では手のひらを返すように真っ向から対立している。黄檗(おうばく)宗寺院「安城寺」(松山市)の土地・建物を担保に1億5千万円の融資を受けた不動産会社に損害を与えたなどとして、背任や詐欺罪などに問われた住職、片井徳久(57)と檀家総代の宇都宮貞史(42)両被告の裁判。>

 

<2人はそれぞれ「宗教家であることを宇都宮被告に利用された」「住職(片井被告)を信じたのが間違いだった」と主張している。寺を舞台にした巨額詐欺事件の真相は何だったのか。審理は佳境を迎えている。>

 

詳細は記事をご覧ください。私がこの件を取り上げたのは、寺の不動産を担保提供すること自体、宗教法人法のルールが無視されている印象を持ったからです。宗教法人法上、23条の財産処分の一つに当たり、公告をはじめ厳格な手続きが必要ですし、別に定める規則で責任役員の決定事項とされたり、総代会への報告事項とされたりして、一定の民主的コントロールのような世俗の原理を用意していますが、はたしてこのような手続きが厳格に運用されていたか疑問です。

 

宗教法人法は、一方で宗教団体や構成員の信仰の自由を尊重しつつ、世俗的な民主的合理的な管理ルールを定めていますが、実際の寺社などでこのルールを厳格に遵守しているところは多くない印象です。むろん一般企業が企業法務をしっかり遵守しているかというと、大企業ですら問題があるわけですから、宗教法人だけを責めるわけにはいかないかもしれません。

 

とはいえ、オウム真理教事件を含め、さまざまな宗教団体による問題行動が起こってきたため、その都度、一定の法規制がされてきましたが、その法規制が遵守されているか監督行政において生ぬるい印象を感じています。それが直ちにこの詐欺・背任事件に結びつくとはいえませんが、温床になりうるとは思うのです。

 

さてもう一つの裁判に関係すると見られる?話題が先日の毎日記事です。<宗教界介入の影に警戒 国補助研究、教義提供で 京都仏教会が反対決議>とのタイトルで、

<国の宗教法人審議会元会長で憲法学者の大石眞・京都大名誉教授らによる「国法と宗教法人の自治」をテーマにした研究が、宗教界に波紋を広げている。>というのです。

 

それは<研究グループは宗教団体に教義や規則など内部文書の提供を求めた>ことが原因です。そうですね、教義は一般には公開されていませんね。私は仕事上、いくつかの宗派の教義を知っていますが、難解で、それを現代の規範に当てはめるといった作業というか、解釈は必要でしょうね。

 

もう一つの規則は、宗教法人法で規定している規則でしたら、所轄官庁の認証対象ですから、行政はすべて当然保持していますが、国の補助を得た機関であっても提供の対象にはならないのでしょうね。ただ、同法で認証を受ける規則にはあまり信仰の教義に関係するような内容は含まれていないように思います。これを研究対象として利用できることくらいは寛容であってもよいと思うのですが、どうでしょう。

 

<国の補助金を受け、宗教行政を所管する文化庁宗務課の職員も加わるなどしていたためだ。宗派を超えた京都の寺院でつくる京都仏教会が「国家権力が介入する道を開く」と反対を決議する事態になっている。【宮川佐知子】>ということですが、たしかに教義まで求めるとなると、その機関の中立性・独立性の担保が必要でしょうね。

 

ただ、記事を読むと提出を求めたのは<自治権行使の現状を調べるとして、宗教法人・団体の「規則集一式」の提供を求める内容だった。>ということで、その規則集の中には、宗教法人法が求めているもの以外も含まれているのでしょう。

 

その提出を求める合理的な理由・必要性があるかも検討されるべきでしょう。

<研究に関する資料では、研究の背景について「オウム事件以後、宗教法人法改正で宗教法人への国法(国の法令)の関与が強まり、自治権と運営の適正確保の要請との調整が重要な問題になった」と説明。その上で「どのように調整すべきかは、宗教法人・団体の自治規範の具体的内容を理解しなければ検討できない」としている。>

 

趣旨は抽象的にはわかりますが、<自治権と運営の適正確保の要請との調整>ということであれば、そのような目的に絞った規則に限定して提出を求めるべきではないかと思うのです。教義に関わるような内容は除外するとか、宗教法人において任意に選別できるとかを明示すべきでしょうね。

 

<大石氏は「学術研究目的で、私には何の公権力もない。協力できない宗教法人には強制しておらず、説明にも応じている」と話している。>とのことですが、宗教法人としては過去の糾弾された、強制された歴史がありますから、より丁寧なアプローチがあってもよかったのではと思うのです。

 

また、<大石氏は宗教と法令の「調整」が課題になる一例として、日本カトリック司教協議会が「公職受諾を禁じる教会法に抵触する」として聖職者の裁判員辞退を最高裁に申し入れた例などを挙げている。>ことを取り上げているようですが、そのことから、教義自体の提出を求める根拠としてはいかがかと思うのです。

 

その点では<島薗教授は「教団の規範が宗教の社会性にどう影響しているかは興味深いが、さまざまな当事者の立場を考慮して理解を得ることが大切だ」とし、調査方法などの見直しを求める。>という意見に賛同します。

 

ただ、認証規則については、基本、世俗のルールに類するものに近いといえますし、それがきちんと実態に合った形で規則の変更などが行われていなかったり、規則通りに管理が行われていないところもあるのが実情ではないかと思います。そのような実態把握こそ、むしろ必要ではないでしょうか。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


日報と外付けHD <陸自イラク日報隠蔽 危うい文民統制>などを読みながら

2018-04-06 | 知る権利・プライバシー保護と情報収集・管理の適正化

180406 日報と外付けHD <陸自イラク日報隠蔽 危うい文民統制>などを読みながら

 

今朝も田中陽希さんのグレートラバース、大台ヶ原、伊吹山、荒島岳を見ました。彼は行動計画をしっかりと立てながらも、好奇心旺盛な若者らしく彦根城を訪ねたり、小谷城跡に立ち寄ったりと見ているフォロアーを楽しませてくれます。アクシデントもリアルです。舗装道路を長距離で走り歩いて、ついに足に痛みが走り動けなくなったときも、道路脇に座り込みマッサージしたりして、痛みの緩和をはかります。彼一人ではありません。助け人が現れます。彼の計画を知った地元の人がフルーツを持ってきて、苦しんでいる彼に話しかけフルーツを食べさせます。そういったことの一端もまた、彼は日誌に書き込むのでしょう。

 

世界で最も熾烈で厳しいレースといってもよい、アドベンチャーレースに参加する田中さんは、そういった経験を日誌に残すことにより、自然の変化、自分の能力や事故対応などを書いて、今後の参考にしているのではないでしょうか。

 

日誌なり、日報は、危険に対峙するとききわめて大切です。いや、日常業務においても必須でしょう。少し飛びますが、維新後日本で生まれたさまざまな企業があっという間に世界水準に到達できたのは、その要因の一つとして、江戸時代に活躍した商人の商業帳簿ではなかったかと思うのです。これはむろん手書きですが、克明に日々の業務内容、仕入れ、販売、保管などを記載してきたのだと思います。訂正するときもその訂正後が残るようにしてきたのだと思います。

 

この商業帳簿の証明力は、現在の裁判においても高い信憑性を持っています。それが渋沢栄一が常に大事にした、商いは信用を基本にするという、基盤になるものでしょう。それがなければ言葉だけです。日々の行いを克明に記録に残す、後から振り返って、その良し悪しを検討できますし、判断した責任の所在も明確になるでしょう。近代合理主義は、江戸時代にすでに芽生えていたか、ほぼ確立していたかもしれません。

 

武士社会においても、現在も残る日誌は、それに匹敵するものといえるでしょうし、農業社会における多くの農書に書かれた内容もまた、記録を残して、未来の世代の参考に供することを大事にしていました。

 

さて翻って、戦前の軍部が統帥権を標榜して、上層部の机上の空論にたって、それに反するような真正な日報を兵隊に書かさず、虚構の事実を報道させてきた事実は、文民統制の徹底をはかった日本国憲法下で、どの程度実現しているのか、最近の状況は懸念することばかりです。

 

事実の詳細は、新聞やTV放送、あるいはネット情報で、フォローすれば、私が適当なニュースのピックアップをするより、有効でしょう。

 

ただ、私がそういったニュースを見ていて気になったのは、指示系統の曖昧さと外付けハードディスクのことです。

 

クローズアップ2018陸自イラク日報隠蔽 危うい文民統制 緩い指示、緩い調査>では、前者については指摘されているかと思います。

 

<陸上自衛隊のイラク派遣時の日報が、防衛相が捜すよう指示したにもかかわらず、発見から1年以上も報告されていなかった問題で、防衛省・自衛隊は5日も厳しい批判にさらされた。陸上自衛隊研究本部(現在の教育訓練研究本部)で見つかった日報の存在が、なぜ報告されなかったのか疑惑は深まるばかり。>

 

国会答弁とその後の指示について、防衛省・陸自内の受け止め方に大きな齟齬が感じられます。

<防衛省にイラクの日報について最初の問い合わせがあったのは昨年2月16日。「廃棄した」はずの南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報が統合幕僚監部で見つかった問題が国会で取り上げられる中、野党議員からイラク派遣時の日報についての資料請求があった。回答期限は「当日中」で、部隊運用に関する国会答弁を担当する背広組の統幕参事官が陸上幕僚監部などの運用担当課に照会した。各課ですぐに見つからず、「不存在」と回答した。稲田氏も同20日の衆院予算委で「残っていないことを確認した」と答弁した。

 

回答期限を当日中に求めたこと自体、どのような意図だったか疑問を感じます。むろん答弁側も、当日中の調査でわかるものが限られていることは明瞭であり、それに応じた回答をすべきなのに、断言したのはきわめて疑問です。

 

その後に再び稲田大臣の指示がありますが、不明確な内容であり、これでは全体を統率する内容になっていません。

 

で。こういった大臣指示の内容、背広組と制服組の意識の齟齬、さらには末端までの指揮系統がおざなりになっている点は、大いに検証して、再発防止を図ってもらいたいと思うのです。

 

で、長々と前置きを書きましたが、私が取り上げたいのは日報そのもののあり方と外付けハードディスクの問題です。

 

わたしが外付けHDを使うようになったのは20年以上前で、たしか1ギガバイトくらいしかなかったと思います。それを2個とか3個連結して使っていましたか。それでもせいぜい3ギガバイトですね。当時はそれでも大変な容量と思っていました。

 

でも現在は外付けHDでも2テラバイトとか3テラバイトで、しかも当時の大きさの3分の1とか、それに重さを感じない軽さですね。とても便利です。でもこれが問題ではにですね。

 

要は、日報をはじめ原票、原資料は大切ですから、万が一に備えて、スキャナーなり、あるいはタイピングないし音声入力で、PCのハードディスクに保存するか、直ちに中央本部にデータ送信されるのではないかと思います。そして同時に、安全のために外付けHDなり、外部にもデータが何重にも保存されているのが本来ではないでしょうか。

 

他方で、この外付けHDが直ちに明らかにされなかった点に問題があるように思うのです。だれがどのような場合に作成しだれが保管し、それをどのような場合に利用できるかが適切にルール化されていない印象を受けるのです。そんなことでは情報管理がずさんと言われても仕方がないと思うのです。

 

さて、日報の存在を確認すると言うことは、最低限、そこまで調べることがなされないと意味がないと思うのです。それは大臣たるものそのようなチェックを徹底していたのか気になります。もし日報の存在を明らかにしたくないという潜在的な意識が大臣、内閣の中で、隠れた意図として存在していたとすると、大臣以下の担当者の中にそのような忖度が働いてもおかしくはないように思うのです。限定解釈といったことがまかり通るということです。それは大臣自身がそのような徹底指示をしていなかったことの結果でもあるでしょう。

 

では日報は、早期に廃棄されないといけないものでしょうか。先に商業帳簿を含め業務日誌は克明に記録して長期にわたって保存すべきと書きましたが、まさに日報もそのような重要な意味をもっていると思うのです。

 

それは隊員一人一人、あるいはその部隊全員の活動に関係するわけですから、今後の活動にもさまざまな検証対象となるわけで、それを簡単に廃棄するようなことがあっていいはずがないと思います。

 

また、あまり日報の記載内容について言及したものを見たことがないので、的確なことをいえるわけではありませんが、日報の記載内容もまた、多くの検証にさらされるだけの必要な記載事項とし、またデータ化が容易なように、工夫改善されるべきでしょう。

 

いま隠蔽云々が問題になっていますが、それは誰から誰への指示、それをどう受け止めたかをきちんと明確にして解明してもらいたいと思います。他方で、今述べた日報のあり方と外付けHDのあり方もこんごの取り扱いとして検討してもらいたいものです。