たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

認知症高齢者との触れ合い(5) <ユマニチュード・立つこと>を考える

2018-04-14 | 医療・介護・後見

180414 認知症高齢者との触れ合い(5) <ユマニチュード・立つこと>を考える

 

赤ちゃんが初めて立てたとき、親は言いようのない感動を覚えるでしょうね。私もそうでした。何かを発語したときもそうですね。でも人間という生物にとって立つということは、初めて他の生物にない高度な機能を発揮できる機会を得るようになるのでしょうね。人間の歴史が物語っているのでしょう。

 

ユマニチュードでは「立つことは知性の根幹」と言っています。

 

赤ちゃんが立つようになり、成長を重ね、あるとき健康を害した、あるいは高齢化の影響で、立てなくなったとき、ケアする立場の人は立つことの意味を正確に理解しておかないといけないというのです。

 

「立位は骨や関節、呼吸器、心臓などの循環器系、皮膚などに影響を与えています。」と人間の様々な機能への影響を指摘しています。

 

それぞれの器官への影響を丁寧に説明してます。申し訳ないですが、そのまま引用させてもらいます。

 

まず関節の動きをなめらかにする軟骨が取り上げられています。立ったとき膝の軟骨にどのような影響を与えるか次のように述べています。

「軟骨の80パーセントは水分です。そのため膝であれば、立ち上がると軟骨に圧力がかかり、水がギュッと押し出されます。その水はどこへ行くかというと、骨の中です。骨には栄養分が多く含まれており、そこに水が浸透していきます。かかっていた圧力が弱まると今度は水に溶けた栄養分が軟骨に吸引されます。つまり負荷がかかることによって、軟骨に栄養が行き渡るメカニズムなのです。」

 

立つ→軟骨に圧力→その中の水分が押し出される→栄養分が含まれている骨に浸透→圧力が弱まる(座る・寝る?)→水に溶けた栄養分が軟骨に吸引されるメカニズム

 

逆に立たないとか、「動くことがなければ、軟骨は栄養不足に陥ります。」

 

それでは「全身の関節に栄養を行き渡らせたい。さて、どうすればいいでしょうか?立って歩けばいいのです。わずかな時間、ほんの数歩でも立って歩くことは骨や関節に重みをかけることができ、全身の運動になります。」

 

それほど立つと言うことは体の関節一つとっても大切なことなのですね。

 

さらに立つということは、栄養分の供給だけではないというのです。

 

48時間、寝たままでいると靭帯は固まり、関節の可動範囲が狭まってきます。」この理屈もわかるような気がします。

 

「筋肉はどうでしょうか。80歳を過ぎた人が1週間動かないと、筋力は15パーセント低下し、それが3週間になると45パーセント程度低下します。筋肉を維持するには、やはり歩く必要があります。」

 

靱帯や筋肉は定期的に動かし続けていないと、機能低下するのはわかりますね。立つこと、さらに歩くことの重要性はわかります。

 

骨も大きな影響を受けることは予想できますね。

「力が加わったときにその負荷をキャッチするセンサーが骨に備わっています。圧力に応じて骨は自ら強くしようと働きます。やはり固い骨をつくろうと思うなら立って歩かなければいけません。」

 

立位が呼吸機能に影響することもわかりますね。

「寝たきりの状態になると呼吸機能は低下します。立ったり、歩いたりすると肺の容積は広がり、機能が活発になります。そうすることで肺炎のリスクを減らすことができます。」

 

肺の働きも、人間が立っていること、歩いていることを前提に、呼吸機能を十全に働かすことができるように、長い年月を経てできあがっているように思えるのです。

 

循環器系も同じですね。心臓のポンプは基本的なエンジンですが、立つことによって、また歩くことによって、血液の循環がきちんと働くようにできていると思うのです。

 

「血液は心臓によって圧力をかけられて血管を流れていきます。ただし、静脈には圧力はかかっていません。足の裏には静脈網が広がっており、立って歩くと、そこに圧力がかかります。足の裏の静脈のポンプが立って歩くことで押さえつけられ、その圧力によって血液が上がっていきます。さらに脚の筋肉の収縮運動によって下肢の血液は心臓へと環流します。つまり、血流のために立つこと、歩くことは欠かせないのです。」というのです。

 

皮膚への影響もわかりやすいですね。

「入院の大きな問題のひとつが褥瘡です。これは血の流れの停滞が原因です。歩いていれば、血液は体をちゃんと巡りますから、褥瘡はできません。」

 

歩かなくても立つだけでも違うでしょう。歩けばさらによいことは確かでしょう。皮膚にとっては褥瘡だけではないでしょうね。歩いたり、走ったりして、汗をかくのも皮膚にとってはいいでしょう。

 

逆に拘束はいけないことと明言しています。徘徊を抑える薬の服用も同様としています。これが意外にできていない介護施設が多いのではと思うのです。

 

さらに重要なことを述べています。

「人間にとって、立って歩くことは知性の要でもあります。」と。さらに「人間であることの証でもあるのです。」とも断言しています。

 

それはどういうことか。この章では明確な指摘はありません。この答えはもう少し先に考えてみたいと思います。

 

立つことについて、もう一つ違った表現をしています。

 

「人は死を迎える日まで、立つことができる」と。

 

「歩ける状態で入院しても、高齢者だと寝たきりになるのに3日から3週間で十分です。私の推測では、病院で寝たきりになっている人のうち8090パーセントは、本来なら寝たきりにならずに済んでいるはずです。」とまで言い切っています。

 

他方で、「これまでの経験から一日のうちで20分立つことができたら、寝たきりには決してならない、言い換えれば亡くなるその日まで立つ機能を保てることがわかっています。」というのですから、すごいですね。

 

たしか日野原重明氏はそれに近かったのではないでしょうか。

 

私の母親などを比較しては失礼に当たりますが、母は自宅療養ですので、ベッドで寝ていません。いまは一人で立ち上がることができませんが、つい最近まで立ち上がろうとしました。それは強い信念というか、本能のようなものでしょうか。両手で支えて、安心と思えば立ちます。それくらい立つことにこだわっていたように思うのです。

 

人間にとっては、立つこと、そして歩くことは人間性に裏付けられる本質的なことで、それができなくなると途端に、体の機能が弱っていくように思います。

 

わが家ではいくら徘徊しても、拘束や薬の服用をすることがないので、いまははいはい歩きをしながら、そして手押し車?を押して少しずつ歩くこともできるようです。本当はいつまでも立つことができ、歩くことができる状態に保つような状況をつくれればよかったのですが、それでも自分で食べることができ、耳をよく聞こえ、話もできます。私が誰かとか、記憶が遠のいていますが、それでも元気に健康であることが助かります。

 

それはいくら認知症になって、妄想や徘徊しても、拘束したり薬の服用で行動制限するような方法をとらないでいるからではないかと思っています。当然のことですが、それが介護施設に入ると、立つことができなくなるようになるのが早いように思うのです。

 

死を迎えるそのときまで、立っていられるようにと、本人はそうありたいとおもうでしょうし、ケアする人もそのつもりでその手助けをすることが必要だと、イブ&ロゼットは述べています。

 

これまでは技術的な面を中心に紹介してきましたが、明日からはもう少し精神面というか、人間性というか、触れ合いの中身について、学んでいければと思います。

 

今日はこれにておしまい。また明日。