180411 認知症高齢者との触れ合い(2) <ユマニチュード・見ることとは>を考える
今日、ある老健に私が後見人を担当している方を訪ねて出かけてきました。この方は認知症ですが、ある程度のことは理解できます。といって私がどの程度この方を理解できているか、いつも会うたびに気になっています。
それでも最初に目を合わして挨拶すると、にっこりしてくれるので、私のことはだいたいわかってくれているのだろうなと思って、一安心です。いま私はユマニチュードを学びながら、この方と接したり、たまに実家に帰ったときに母親に接していこうかと思っています。
で、今日はまず、ユマニチュードの一つの柱、「見る」ということを丁寧に学んでいこうかと思っています。
イブ&ロゼット(『「ユマニチュード」という革命』の著者であり、実践者です、略称で呼ばせてもらいます)は、見るということを、なぜ見ることが重要で、見るとはどういうことかなど、多面的に解説しています。
見ることについて、端的な解説では「水平の視線は相手に平等な関係性を伝える。また、正面からしっかり見ることで正直さが伝わる。近くから、水平に、正面から、長いあいだ、瞳と瞳を合わせるという見方が、ポジティブさ、愛情を表現する。」という風に技術的な、また哲学的な意義づけをしています。
ここでは「見ることは愛の表現」であることを強調されているように思います。その見るとは、垂直から視線ではなく、水平の視線であることとしています。それは、ベッドの上から、車いすの上から、テーブルいすの上からの垂直の目線ではいけないというのです。あなたと私は平等の関係ですという表現方法だというのです。何かをしてあげるとかではないのです。認知症高齢者の人間性、尊厳を尊重し、その自由意思を大事にすることを、この目線を通じて、見ることを通じて表すというのです。
その見る目線の角度を意識して、水平に保ち、平等の関係性を理解してもらうのです。その上で、正面からじっと見るというのです。
イブ&ロゼットは、「瞳を合わせて正面からしっかり見たとき、正直だということを示しています。自分が大好きだ、大切だ、と思う人には、近くから長いあいだ見つめています。」
ま、自分の母親でもこれはなかなか難しいかもしれません。ましてや他人に対してとなるとどうでしょう。でも気持ちはなんとなくわかります。
その時間まで言及しています。「アイコンタクトはユマニチュードでは0・5秒以上必要だと考えています。」と。ま、0.5秒ならなんとかできるでしょうか。
その理由もあるのです。「これは相手に見られていることを自分が認識するのに必要な時間です。」と。そうなのです。多くの認知症高齢者は、自宅介護でも、デイケアでも、介護施設でも、しっかり自分を見てもらっていないと思うのです。介護施設職員などに話を聞くと、多くの施設利用者に対して介護サービスのメニューが決まっていて、その作業をすることで大変で、一人に時間をかけていると、ほかの人が待ってくれないというか迷惑を受けると感じているようです。おむつを替えるときは下肢を中心に、口腔ケアをするときは口周辺を見るだけで、精一杯なのかもしれません。それは介護職だけでなく、医療関係者も同じでしょう。
それでは介護を受ける人を見る、人間として見ることにはつながらないというのです。
イブ&ロゼットはきっぱりと「見ないとは、「あなたは存在しない」と告げること」と断言しています。
とくに認知症高齢者のなかで、暴言を吐いたり、暴力を振るったりする人がいたりすると、見ることを怠ってしまうのが自然の意識かもしれません。
イブ&ロゼットは「特に、非常に攻撃的な認知症高齢者を相手にするような厳しい状況では、ケアをする人は相手の瞳を見つめることはありません。入浴のケアでも視線を合わせようとはしません。それどころか無意識のうちに爪先立ちになり、体を伸ばして「上から目線」にしようとしているのです。相手の攻撃性に対して、自然とそのような姿勢を取ってしまっています。」と指摘します。
そしてそういう高齢者は実は攻撃しているのではない、防御しているのだというのです。これは驚きですが、なんとなく同感します。
「ケアを受ける高齢者は長年瞳を合わせられていません。「あなたは大切だ。価値ある人だ」と言われていないのと同じです。裸にされても、なお瞳を合わせられていないのです。こういう攻撃的なケアをされたと感じた体験が感情記憶に残るのですから、ケアを受ける側も攻撃的になります。しかし、それは攻撃ではなく、自分を守っているだけなのです。」
だからこそ、上記に述べたような方法で、また気持ちを投入して見ることが不可欠なのですね。「私は何者で、眼前の人は誰なのか。私たちの関係はどういうものか。」という問いかけをしながら見ることで、初めて両者の絆が生まれ、触れ合いがようやくできるといえるのではと思うのです。そして本当の触れ合いはさらなるステップが必要です。
それはまた明日。