180407 柳川堀割物語と高畑勲 <余録 後にスタジオジブリ代表になる鈴木敏夫さんが…>を読みながらふと思う
もう30年近く前でしたか。東京弁護士会公害環境委員会で川の問題をテーマにシンポをすることにして、なにか一般の人にアピールするものがないかと考える中で、だれかが映画「柳川堀割物語」を提案し、これは面白いということで、上映することになりました。映画は自主上映という形で、各地で人気を呼びつつあった時期でした。そのとき監督だった高畑勲氏に話を伺いにいくことになったと記憶していますが、私は何かの都合で参加しませんでした。これまたあいまいな記憶ですが、高畑氏の話を聞いたメンバーからその情熱に引き込まれたということで、改めてどんな内容かと期待したのです。
上映は、まだ現在の弁護会館が建つ前ですから、古い趣のある建物3階で行われました。私の知り合いも来てくれ、感覚的には狭い会場一杯で200人近かった印象です。大盛況だったと思います。そしてその内容は、しびれるほど素晴らしものでした。柳川の堀割がもつ機能をアニメーションでわかりやすく説明されているだけでなく、随所にユーモアあふれる動画になっていました。生活の中に堀割の水が役立ち、洪水調整、利水にと役立ってきた歴史が語られていました。
ところが高度成長とともに、次第に見捨てられていき、アオコが一杯になったり、悪臭が放たれて、また、ゴミの捨て場にもなっていました。その結果、埋め立てろといった意見が高まっていくのです。これは70年代頃、どこにでもあった光景ですね。
それを一人の役人が立ち上がり、臭い水の中に入って、青草を刈り取り、ゴミを拾い上げるなどの作業を始めるのです。それが次第に市民の中に広がっていき、堀割が復活するのです。その立ち上がった役人こそ、広松伝さんでした。高畑さんも広松さんと会い、彼の熱意に惹かれたのでしょう。彼の創作意欲が見事に傑出したのだと思います。
高畑さんが亡くなられて、ジブリ作品として評判を博した、著名な映画がいつも取り上げられますが、私にとっては最高の作品は「柳川堀割物語」だと、いまでも思っています。残念ながら、一回きりの上映で、それ以後見る機会がないため、記憶が曖昧ですが、私にとってはきわめて印象的な作品です。
広松伝さんという人物が、普通の役人(たしかこの作業を始めた頃は係長か主任だったでしょうか)ですが、傑物ですね。こういう役人がいるから、日本はもっていると思うのそういう人ですね。私は映画を見た後、しばらくして日弁連調査で柳川市に行く機会があり、広松さんとは会食をしながら2時間くらい話をすることができました。恥じらうような態度をしつつ、朴訥ですが、信念を曲げない、男の中の男という感じでした。その彼も亡くなって時が流れました。
ところで、高畑氏も宮崎駿氏も一度もお会いする機会がありませんが、その作品にはいつも魅了されてきました。そういえば鞆の浦世界遺産訴訟では、原告団の代表から宮崎さんが宿泊したところとか見せてもらったり、宮崎さんの話を伺ったりして、鞆の浦の景観をとても大事にされているのだなと感じました。ぴょにょの舞台も、宮崎さんが滞在した場所に設定が似ていて、そこからイメージしたのかと思うくらいです。
で、毎日の<余録後にスタジオジブリ代表になる鈴木敏夫さんが…>で指摘している鈴木さん、高畑さん、宮崎さん、3者の「なりそめ」を知ると、いずれも「とても面白い」を通り越して、子供のように夢中になり貫徹する能力、それを受け入れるだけの懐の深さを感じさせてくれます。その部分を引用させてもらいます(原文は岩波新書ですね)。
<後にスタジオジブリ代表になる鈴木敏夫(すずき・としお)さんがアニメ誌の記者として電話で取材を申し込んだのが、高畑勲(たかはた・いさお)さんとの「出会い」だった。高畑さんはなぜ取材に応じないかを1時間話し、隣の宮崎駿(みやざき・はやお)さんに代わった▲今度は宮崎さんが、取材で聞いてほしいことがありすぎて16ページは誌面がほしいと30分話す。ちょっとしたコメントがほしかった鈴木さんはさすがにあきれ、1時間半もの電話は一行の記事にもならなかった(「仕事道楽」岩波新書)>
映画「柳川堀割物語」が生まれたいきさつ、その内容はウィキペディアで簡潔に紹介されていますので、関心のある方はどうぞ。余録で紹介されている関係が見事に映画に結びついていると思うのです。
そういえば、さきほど私の友人から先日の長電話の成果(作品化)が出そうだとお礼の電話がありました。鈴木・高畑・宮崎の傑物3者の見事な融合関係による世界的な作品になるようなことはむろん期待すべくもありませんが、うまくいくよう成果を期待したいと思っています。
今日はこの辺でおしまい。また明日。