180418 認知症高齢者との触れ合い(9) <ユマニチュード・人間としてケアするとは>を考える
いまようやくある交通事故の事故解析が終わったところです。事故当事者双方の保険会社が協定で損害保険リサーチに依頼して調査・報告してもらったのですが、相手方がその結果に同意せず、真逆の結論に固執するので、結局、私がこの件を担当することになりました。
その報告書を利用できると思っていたら、事故原因や過失割合の判断については報告から除外されていたため、自分で双方の車の損傷部位程度、接触後塀に接触しているので、その接触痕などを踏まえて、速度、距離など、多角的に検討していたら、結構時間がかかりました。簡単に白黒つくこともありますが、そうでないことの方が多いから、結局、弁護士が入るのでしょうね。それでも簡単ではないですね。どれだけ説得力のある解析ができるかが決め手でしょうか。
さて、報道では財務省事務次官のセクハラ発言、それに麻生大臣のややこしい言い回し(ま、時代錯誤的感覚ですね)、さらには新潟県知事の援助交際に伴う辞任?発表があったとか、いそがしや・いそがしや ですね。しかし、北朝鮮問題以外に、東日本大震災や熊本大震災などの被災者のこと、原発廃炉問題、モリ・カケ問題と、問題山積みの中で、行政のトップがこんなことでいいのと思ってしまいます。しかも東大卒のトップエリートの女性に対する差別的な性根には驚き以上に、情けなく思うのは日本人全員ではないでしょうか。
ま、そんなことをいっても、なかなか簡単には変わりそうもないですので、話題を戻して、ユマニチュードをもう少し学ぶことを続けてみようかと今日も書くことにしました。
そろそろ終わりにしようかと思いつつ、まだほんとにわかっていないなと実感しているので、また本を取り上げました。実は、今日、後見人となっている方の健康診断に付き添ったのですが、少し待ち時間があったりしたので、話しかける努力をしてみたのです。
精神疾患のため上下肢がほぼ動かない状態で、発語もわずかしかできません。聞き取ることはできるのですが、どの程度意味がわかっているかは、ある程度わかってはいるのですが、その程度は一つ一つ確かめないとなんともいえないのです。それでも少しでも笑顔になってもらえると、こちらもうれしく感じるのですが、さてさてケアってなんでしょうねと思うのです。
イブ&ロゼットは、「患者中心のケア」と、わが国でも一般に周知している言葉を使っています。
ある事例を提供します。
「認知症の人が寝ているとします。世界中の病院や施設では、食事やおむつ交換のためといった理由から本人を起こしてしまいます。ケアする側の都合で寝かしつけて、ケアする側の都合で起こす。それがケアを受ける人を中心に置いたケアの現実です。ユマニチュードにおいては、患者が眠っているあいだは無理に起こさないという原則があります。
認知症の中核症状のひとつが記憶障害です口記憶は寝ているあいだに脳内で再構築されます。睡眠を邪魔すると記憶が悪化します。医療関係者はそのことを知識として理解しながらも実践に結びつけていないのです。 ケアをする人は、ケアを受ける人の健康を害してはならないという鉄則があるのに、それが実行できていないのです。」
しかし、患者中心のケアをしていると、ケアする側が燃え尽き症候群になるというのです。それは理解できます。「ケアをする人の具合がよくなければ、本人の具合もよくなりません。」というのもよくわかります。それで、ケアする人をケアしないといけないかと問題提起するのです。
そうではないのですね。
「それよりも、自分の仕事をしながら、それが楽しく幸せだと感じるようにする。そこが問題の本質のはずです。
そして最初の命題の意味が提示されるのです。
「ケアをする相手との絆ができてこそ互いに幸せになれます。ケアを受ける人を中心に置いても、ケアをする人を中心に置いても間違いが起きます。中心に置くべきものは、相手とのポジティブな関係の「絆」なのです。」と、私がタイトルにあげた触れ合いといってもいいかもしれません。
患者、利用者を尊重する、ということはわが国でも最近では割と理解されてきたように思うのですが、それはどういうことかとなると意外とむずかしいですね。イブ&ロゼットは「、相手を人間として認めること」と断定しています。
ではここでいう「人間とは何か」です、それが問題ですね。
そこでいろいろな例を挙げていますが、基本は「何かを行うたびに、私たちは聞い直さなければなりません。これは、人としての特徴を考慮して行っているケアだろうか?このように問い、そして解決法を探していくのです。」と。
答えは自らその場で相手の背景であり本質の人間性という具体の特徴・内容を掘り下げ、それに応じたケアをして、反応を見ながらフィードバックするしかないのではと感じています。
人間の尊厳についても言及し、「尊厳は十全性に基づく」というのです。一体なんでしょう。人間は欠陥だらけだから人間ではないかと私なんかつい思ってしまいます。ま、先に挙げた福田氏や米山氏、さらに言えば麻生氏、いずれもちょっと(いや、桁外れにかも)行き過ぎですね。
でもなぜかイブ&ロゼットは「心理的にも身体的にも人間らしさが保たれている。何ひとつ欠けていない。つまり、人間であることの「十全性」が守られているとき、尊厳が生まれます。その反対に、その感覚を取り除くことも可能です。」
ここで取り上げている「十全性」が、人間としての身体的・精神的な機能に一切問題がないとか、いわゆる欠点などが一切ないということではないと思うのです。
尊厳について次のような指摘をしています。
「心や体が傷つけられたとき、尊厳の感覚は奪われます。罵倒する。寝たきりにさせる。動かないように命令し、実際に拘束すれば、尊厳の感覚は失われます。」
本人自身ではなく、ケアする側が傷つける、行動制限するなどすることをいうのでしょうか。そのことによって尊厳が奪われたり、傷つけられるということなんでしょう。
その意味では次の言葉はより明快で、賛同します。
「心や体が傷つけられたとき、尊厳の感覚は奪われます。罵倒する。寝たきりにさせる。動かないように命令し、実際に拘束すれば、尊厳の感覚は失われます。」
でも介護施設などに入所する方はすでにさまざまな自由を奪われています。
「認知症によって一部の人は文化に基づいた食事の仕方を忘れてしまいます。ベッドに裸で寝て、二本足で立つこともできない。話すこともできません。」と。
そのときこそ、人間の尊厳をしっかり見つめることの大事さを指摘しているのではないかと思うのです。
「そのような高齢者を見て、人間の特徴として残っているのはどれかと探しても、なかなかわからない。だから、「もう人間ではないのだ」と思ってしまうのです。でも、それは本人が望んでそうなったわけではありません。」
それでは具体的にどうするのでしょう。
イブ&ロゼットは「ユマニチュードはその人の“いま” に注目する」というのです。
それはどういうことでしょう。
これは答えがあるような、ないような、しかし、ことばにするより、現場での実践で見いだすのでしょう。
「いま、この人をケアします。宇宙人に、「この人は人間だ」と説明できないとすれば、それは私がその人を人間として認識できていないということです。」と強調するのですから。
それこそ人にこだわる、こだわり続けるのです。違う言葉でいえば、
「「あなたが私を好きだと言ってくれる。ここから始まるすべての行いが、「私は人間である」と認めることを可能にしてくれるのです。」と。
むずかしく考えるのではなく、心のあり方でしょうか、そして実践ですね。
やはり難しい、けれど魅力を感じます。
今日はこれにておしまい。また明日。