たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

認知症高齢者との触れ合い(9) <ユマニチュード・人間としてケアするとは>を考える

2018-04-18 | 医療・介護・後見

180418 認知症高齢者との触れ合い(9) <ユマニチュード・人間としてケアするとは>を考える

 

いまようやくある交通事故の事故解析が終わったところです。事故当事者双方の保険会社が協定で損害保険リサーチに依頼して調査・報告してもらったのですが、相手方がその結果に同意せず、真逆の結論に固執するので、結局、私がこの件を担当することになりました。

 

その報告書を利用できると思っていたら、事故原因や過失割合の判断については報告から除外されていたため、自分で双方の車の損傷部位程度、接触後塀に接触しているので、その接触痕などを踏まえて、速度、距離など、多角的に検討していたら、結構時間がかかりました。簡単に白黒つくこともありますが、そうでないことの方が多いから、結局、弁護士が入るのでしょうね。それでも簡単ではないですね。どれだけ説得力のある解析ができるかが決め手でしょうか。

 

さて、報道では財務省事務次官のセクハラ発言、それに麻生大臣のややこしい言い回し(ま、時代錯誤的感覚ですね)、さらには新潟県知事の援助交際に伴う辞任?発表があったとか、いそがしや・いそがしや ですね。しかし、北朝鮮問題以外に、東日本大震災や熊本大震災などの被災者のこと、原発廃炉問題、モリ・カケ問題と、問題山積みの中で、行政のトップがこんなことでいいのと思ってしまいます。しかも東大卒のトップエリートの女性に対する差別的な性根には驚き以上に、情けなく思うのは日本人全員ではないでしょうか。

 

ま、そんなことをいっても、なかなか簡単には変わりそうもないですので、話題を戻して、ユマニチュードをもう少し学ぶことを続けてみようかと今日も書くことにしました。

 

そろそろ終わりにしようかと思いつつ、まだほんとにわかっていないなと実感しているので、また本を取り上げました。実は、今日、後見人となっている方の健康診断に付き添ったのですが、少し待ち時間があったりしたので、話しかける努力をしてみたのです。

 

精神疾患のため上下肢がほぼ動かない状態で、発語もわずかしかできません。聞き取ることはできるのですが、どの程度意味がわかっているかは、ある程度わかってはいるのですが、その程度は一つ一つ確かめないとなんともいえないのです。それでも少しでも笑顔になってもらえると、こちらもうれしく感じるのですが、さてさてケアってなんでしょうねと思うのです。

 

イブ&ロゼットは、「患者中心のケア」と、わが国でも一般に周知している言葉を使っています。

 

ある事例を提供します。

「認知症の人が寝ているとします。世界中の病院や施設では、食事やおむつ交換のためといった理由から本人を起こしてしまいます。ケアする側の都合で寝かしつけて、ケアする側の都合で起こす。それがケアを受ける人を中心に置いたケアの現実です。ユマニチュードにおいては、患者が眠っているあいだは無理に起こさないという原則があります。

認知症の中核症状のひとつが記憶障害です口記憶は寝ているあいだに脳内で再構築されます。睡眠を邪魔すると記憶が悪化します。医療関係者はそのことを知識として理解しながらも実践に結びつけていないのです。 ケアをする人は、ケアを受ける人の健康を害してはならないという鉄則があるのに、それが実行できていないのです。」

 

しかし、患者中心のケアをしていると、ケアする側が燃え尽き症候群になるというのです。それは理解できます。「ケアをする人の具合がよくなければ、本人の具合もよくなりません。」というのもよくわかります。それで、ケアする人をケアしないといけないかと問題提起するのです。

 

そうではないのですね。

「それよりも、自分の仕事をしながら、それが楽しく幸せだと感じるようにする。そこが問題の本質のはずです。

 

そして最初の命題の意味が提示されるのです。

「ケアをする相手との絆ができてこそ互いに幸せになれます。ケアを受ける人を中心に置いても、ケアをする人を中心に置いても間違いが起きます。中心に置くべきものは、相手とのポジティブな関係の「絆」なのです。」と、私がタイトルにあげた触れ合いといってもいいかもしれません。

 

患者、利用者を尊重する、ということはわが国でも最近では割と理解されてきたように思うのですが、それはどういうことかとなると意外とむずかしいですね。イブ&ロゼットは「、相手を人間として認めること」と断定しています。

 

ではここでいう「人間とは何か」です、それが問題ですね。

 

そこでいろいろな例を挙げていますが、基本は「何かを行うたびに、私たちは聞い直さなければなりません。これは、人としての特徴を考慮して行っているケアだろうか?このように問い、そして解決法を探していくのです。」と。

 

答えは自らその場で相手の背景であり本質の人間性という具体の特徴・内容を掘り下げ、それに応じたケアをして、反応を見ながらフィードバックするしかないのではと感じています。

 

 

人間の尊厳についても言及し、「尊厳は十全性に基づく」というのです。一体なんでしょう。人間は欠陥だらけだから人間ではないかと私なんかつい思ってしまいます。ま、先に挙げた福田氏や米山氏、さらに言えば麻生氏、いずれもちょっと(いや、桁外れにかも)行き過ぎですね。

 

でもなぜかイブ&ロゼットは「心理的にも身体的にも人間らしさが保たれている。何ひとつ欠けていない。つまり、人間であることの「十全性」が守られているとき、尊厳が生まれます。その反対に、その感覚を取り除くことも可能です。」

 

ここで取り上げている「十全性」が、人間としての身体的・精神的な機能に一切問題がないとか、いわゆる欠点などが一切ないということではないと思うのです。

 

尊厳について次のような指摘をしています。

「心や体が傷つけられたとき、尊厳の感覚は奪われます。罵倒する。寝たきりにさせる。動かないように命令し、実際に拘束すれば、尊厳の感覚は失われます。」

 

本人自身ではなく、ケアする側が傷つける、行動制限するなどすることをいうのでしょうか。そのことによって尊厳が奪われたり、傷つけられるということなんでしょう。

 

その意味では次の言葉はより明快で、賛同します。

「心や体が傷つけられたとき、尊厳の感覚は奪われます。罵倒する。寝たきりにさせる。動かないように命令し、実際に拘束すれば、尊厳の感覚は失われます。」

 

でも介護施設などに入所する方はすでにさまざまな自由を奪われています。

「認知症によって一部の人は文化に基づいた食事の仕方を忘れてしまいます。ベッドに裸で寝て、二本足で立つこともできない。話すこともできません。」と。

 

そのときこそ、人間の尊厳をしっかり見つめることの大事さを指摘しているのではないかと思うのです。

「そのような高齢者を見て、人間の特徴として残っているのはどれかと探しても、なかなかわからない。だから、「もう人間ではないのだ」と思ってしまうのです。でも、それは本人が望んでそうなったわけではありません。」

 

それでは具体的にどうするのでしょう。

イブ&ロゼットは「ユマニチュードはその人の“いま” に注目する」というのです。

 

それはどういうことでしょう。

これは答えがあるような、ないような、しかし、ことばにするより、現場での実践で見いだすのでしょう。

 

「いま、この人をケアします。宇宙人に、「この人は人間だ」と説明できないとすれば、それは私がその人を人間として認識できていないということです。」と強調するのですから。

 

それこそ人にこだわる、こだわり続けるのです。違う言葉でいえば、

 

「「あなたが私を好きだと言ってくれる。ここから始まるすべての行いが、「私は人間である」と認めることを可能にしてくれるのです。」と。

 

むずかしく考えるのではなく、心のあり方でしょうか、そして実践ですね。

 

やはり難しい、けれど魅力を感じます。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


日本の自律性 <対米地位協定 独伊と差・・・主体的に事故調査/国内法で飛行管理>などを読みながら

2018-04-18 | 戦争・安全保障・人と国家

180418 日本の自律性 <対米地位協定 独伊と差・・・主体的に事故調査/国内法で飛行管理>などを読みながら

 

横田基地、厚木基地、横須賀基地を調査したり、近くで眺めたりしてきました。私の場合はジェット機のきーんと耳をというか、神経をなで斬りするような音は何回も聞いたことがないですし、そのとき限りでした。

 

それが日常的に聞かされる住民は普通の生活ができなくなるでしょう。元々居住していた人も、後から転居してきた人も本質的に大きな違いはないと思います。法律論として区別する議論は合理的根拠を失っていると思います。

 

でもそんなことより、米軍が日本の空(米軍基地周辺一帯を広大に)を自国の空域として3次元で独占支配している状況、それを前提に自由奔放に活動している状況は、本土以上に、沖縄では深刻な被害を招いていることはこれまで何十年と報道されてきました。

 

米軍の活動に対するコントールだけでなく、米軍人の違法不当行為についても、日本法の支配下に及ばない状況は、本土ではさほど問題にならなくなってきましたが(実際は現在も起こっていますが)、沖縄の現在はまさに危機的状況ではないでしょうか。

 

この法的根拠たる日米地位協定は、アメリカの他国での基地管理において、極めて異常であることはずいぶん昔から指摘され、報道されたり、情報提供されてきました。今回は沖縄県が独自に調査した結果を毎日が<対米地位協定独伊と差 日本にない権限、沖縄県比較 主体的に事故調査/国内法で飛行管理>と本日朝刊で掲載したのです。

 

その比較表によれば、日本が異質であることがわかります。

 

 

<ドイツ南西部、在欧州米空軍司令部が置かれるラムシュタイン基地。米軍にもドイツの航空法が適用され、午後10時~午前6時は原則として飛行が制限される。基地内にドイツの警官2人が常駐して警察権を行使するほか、「騒音軽減委員会」が設置されている。

 同委には米軍司令官や周辺5自治体の首長、市民団体の代表者ら20人以上が参加し、米軍から深夜・早朝の航空機の離着陸回数などのデータが報告される。地元市長は沖縄県の調査に「米軍の騒音軽減の取り組みにはポジティブな印象を持っている」と語った。>

 

これに対し<日米地位協定では原則、米軍に国内法が適用されない。航空法は地上の人や物、航空機の安全を確保するため最低安全高度(市街地300メートル)を定めているが、米軍機は対象外だ。政府には米軍の訓練・演習を規制する権限もない。全国の米軍専用施設の約7割が集中する沖縄では、騒音軽減のための日米合意さえも守られない状況が常態化している。>

 

<96年、日米両政府は嘉手納基地(嘉手納町など)と普天間飛行場(宜野湾市)について、午後10時~午前6時の飛行を原則として制限する航空機騒音規制措置(騒音防止協定)に合意した。だが、防衛省沖縄防衛局の目視調査では、2017年度(今年2月末現在)の飛行制限時間帯の離着陸などの回数は1420回に上る。嘉手納町では騒音などへの住民の苦情件数が同期間で940件もあり、既に前年度の3・6倍に達している。町によると、最新鋭ステルス戦闘機F35A12機が嘉手納基地に暫定配備された昨年11月以降、苦情が激増している。町基地渉外課の我謝(がじゃ)治彦課長は「寝静まっている時間帯に米軍機が飛ぶことに住民は不満を抱いている。米軍へ抗議しても状況は変わらない」と話す。>

 

普天間が危険なのは米軍の基地活動を彼が住民保護を視野に入れず、軍事目的を恣意的に解釈して自由奔放に活動しているからで、それを許容しているという問題が根本にあるでしょう。

 

わが国では、首都圏でも、首根っこの横須賀基地に原子力空母が入港すると、夜間の発着訓練が相当激しく行われます。私が鎌倉に住んでいるとき、普段は静かなのに、突然、上空をもの凄い轟音が鳴り響いて、木造家屋が壊れるのではないかと思うほどの経験をしたことがあります。ま、この程度の騒音・振動は基地周辺の人にとっては日常茶飯事なんでしょうけど、それを許すわが国というのは、本当に自律した国家といえるのかと自問する時期をとっくに過ぎているようにも思えるのです。

 

アメリカの支配下で米軍が規律されているのであれば、その法制度を利用して果敢に戦った事件もありました。日本版NEPANational Environmental Policy Act)訴訟です。横須賀の呉東弁護士という優秀で強靱な精神力をもつ彼が中心にアセス法違反を裁判で追求したのはもう四半世紀以上前でしたか。

 

その後も彼は10数年前に原子力空母横須賀基地寄港の違法性を追求した訴訟を提起しましたが、その揺るぎない法の支配に対する努力は、わが国の司法のあり方、自律のあり方を問うてきたとも思うのです。

 

安倍首相はトランプ大統領と北朝鮮問題や貿易問題などを議論するため訪米して会談するとのことですが、いくらなお友達外交をしても、法的にいびつで不公正なくさびを改善できない限り、対等外交なんてものは、トランプ大統領緒のツイッター一言で裏切られても、断固とした抗議でそれを覆せない、状況にあると思わざるを得ません。

 

むろん、ドイツ・イタリアなどのアメリカの地位協定と、わが国のおかれた条件は異なるからとの理由で、一緒にすることができないというのが、軍事専門家の意見かもしれません。はたして北朝鮮・中国脅威論は、不平等な日米地位協定を合理化できるものでしょうか。慎重な検討を今後していくべきではないかと思うのです。

 

今朝の一面記事<沖縄・宜野湾の米軍ヘリ窓落下普天間、児童避難216回 米軍機、接近やまず 1日23回の日も>の状況は、自分の子供が通っていたら、許せますか。いやどこかに引っ越せばいいじゃないかという意見には賛成できません。

 

沖縄は、日本軍が侵した戦争の惨禍を本土防衛という屁理屈で、甘受させられ、何も言えず死を受け入れ、耐えてきた遺族たちの住むところです。故郷を大事にするのが日本人というのであれば、それはすべての人の故郷を自分の生活条件と同じように守るという意識があってこそ成り立つように思うのです。