たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

認知症高齢者との触れ合い(7) <ユマニチュード・認知症高齢者は暴力的か?>を考える

2018-04-16 | 医療・介護・後見

180416 認知症高齢者との触れ合い(7) <ユマニチュード・認知症高齢者は暴力的か?>を考える

 

生け花を飾るようになってどのくらいになるのでしょう。まだ一年あまりでしょうか。自宅の庭に花の苗を植えだしたのが2年か、3年前でしたか。最初は邪道と思いつつ、いつか野生の花園をとつい思ったのが、一向に前進しないまま、今日に至っています。

 

最近は生け花を事務所に飾り、枯れかけたら、それを庭に植え替えることをしています。ま、これを生け花とはいわないのでしょうが・・・で、適当に水を遣り続けているにもかかわらず、結構いろんな花が長生きするので、他方で、毎週のように買っているため、時折、事務所が花で一杯になることもあります。それはいいのですが、やはり花の専門家というか、そこまでいかなくても店員さんにアドバイスをもらうのもいいですね。自己流では花もかわいそうです。

 

それはガクアジサイに似た美しいアジサイを2度買ったことがあり、いずれも2日目にしょぼんとしおれてしまいました。葉っぱが青々としているのに、分けがわからず、一度目はすぐ自宅の庭に植えたのですが、まったくだめでした。なんだろうと思いつつ、あまりきれいなので、ついまた買ってしまいました。やはり2日目にはしおれてしまい、今度は絶対買わないぞと思ったのです。

 

それで別の花を2つ、3つ買いにでかけたのですが、そこにはまたあのガクアジサイのような、それ以上に花がきれいなのが一杯置かれていました。それでつい店員さんを見つけ(常連ですのでね)、この花なぜか2日でしおれるんですがなぜでしょうかと尋ねたのです。

 

店員さんもおかしいですね。水はちゃんとやっているのでしょうと聞くので、たくさんやっていますと答えました。ま、他の花と同じかそれ以上というレベルですが。店員さん、少し頭をひねりながら、アジサイは水をどんどん吸収しますからね、水の入ったバケツの中に入れて置くといいかもしれませんよとアドバイスしてくれました。

 

すぐに事務所で試してみました。すると翌日には少し花が開いてきました。その翌々日には満開になりました。生き生きとしているのです。そうか、そんなに水が欲しかったのかと、花の特性を初めて少しわかった気になりました。やはり花のことをわかっている人に聞かないといけないと改めて思ったのです。いまはこのアジサイに満足です。本当は庭で大きく咲かせたいですが、当分は事務所でやすらぎをいただこうと思っています。

 

ところで、私のような花に対する誤った対応と同じことを、認知症高齢者に対してやっていないか、それをイブ&ロゼットから学ぼうと思います。

 

認知症高齢者といってもその状態はいろいろですね。でも介護施設で見かける人の中には、表情がほとんどなかったり、言葉を発しなかったり、ほとんど眠っているような状態であったり、他方で、暴言を吐いたり、暴力的であったりする人が少なくないのではないかと思うのです。この後者の暴力的な人に対して、抗精神薬を投与したり、拘束したりして対応する施設もまだまだ残っているのではないでしょうか。その結果として前者のような状態になっている可能性も考えておく必要を感じています。

 

イブ&ロゼットは「認知症高齢者は暴力的か?」と問いかけています。あるいは攻撃的なのはなぜか、それは変わらないものかとも問いかけているように思います。

 

その「攻撃的な行動とは、ケアしようとすると認知症の高齢者がひっかいたり、暴言を吐く。あるいは食事をせずに投げ散らかす。窓から逃げようとする。看護師のお尻を触るといった、攻撃的な行動により業務を妨げるようなことです。」というのです。こういった攻撃的な行動のいくつかはたいていの介護士は経験していることではないでしょうか。

 

イブ&ロゼットは「認知症の患者で攻撃的な人はいない」と断言しています。これをそのまま信じることのできる人はどのくらいいるでしょう。

 

でもイブ&ロゼットは冷静に説明します。「攻撃的になるのはどういうときでしょうか。」と質問を投げかけます。

 

「たとえば相手の腕をグッと掴むと人は自然に筋肉に力を入れ、筋肉は固くなります。また、陰部の洗浄では看護師は当然のこととして患者の脚を広げますが、多くの場合相手は膝を閉じて抵抗します。ケアをする人は学校で習った通りのことをしています。しかし、実はこれでは相手を緊張させ、身を固くさせてしまっているのです。」と問題を明らかにしていきます。

 

さらに説明が進みます。「親密でもない人に触られるというのはたいへんなことなのです。認知症であれ誰であれ、無造作に掴まれたり、脚を広げられたりしたらとても屈辱に感じます。まして床を掃除するみたいに陰部を洗浄されるのであれば、暴力的で粗野だと感じます。」と介護する人の方法を問題にするのです。

 

つまり従来当たり前のように行っていた介護の作業がまさに暴力に当たるというのです。

「私たちが他人の陰部に触れることができるのは、相手がそれを望むときだけです。だからこそ無理やり触れることを暴行と呼ぶのです。それをケア業界ではわかっていない人が多いように思います。 自分の業務を遂行することで頭がいっぱいだからです。

認知症高齢者に原因があると考えてしまうのは、ケアする側は「相手にとって常にいいことをしているはずだ」という思い込みがあるからです。」というのです。

 

カナダで見た介護する人は「「動かないでください。洗いますから。すぐに終わります」といって無理やり脚を広げて押さえつけていました。当然、相手は噛んだり、ひっかいたりします。そこで担当している看護師は「ケアしようとしているのにひっかかれた。攻撃的な態度だ」と報告します。」と、誤った見方で自分の行為を暴力的とは見ず、逆に、相手を暴力的と見るというのです。

 

ではケアする場合に、相手に暴力的だと感じさせない方法があるのでしょうか。それを簡潔に説明しています。

 

「私とロゼットが開発した技術では、正面から脚を無理やり聞かせるようなことはしません。側臥位にして膝を屈曲させることで、陰部に自然にアプローチできるようにします。このやり方であれば心理的な抵抗も少なく、穏やかに洗浄ができます。」と。むろん、その前提に、これまでに取り上げた、5つのステップを踏み、4つの柱、見る、話す、触れる、立つ、を適切に行うことの中で、それぞれのケアタイプに応じて対応するのですね。

 

今日はこれで一時間弱、ちょうどよい時間となりました。また明日。

 


トイレ洋式化考 <教育の窓 小学校、進むトイレ洋式化>を読みながら

2018-04-16 | 教育 学校 社会

180416 トイレ洋式化考 <教育の窓 小学校、進むトイレ洋式化>を読みながら

 

今朝も田中陽希のグレート・トラバースを見ながら室内ジョギングを1時間続けました。まだまだしんどい思いをしながらやっていますが、陽希さんのあのタフさに元気をもらってなんとか1時間もっています。

 

陽希さんの登山技術とかは特別並外れたものを感じませんが(だいたい高山植物をあまりよくわかっていないのは登山と言うよりはレース中心だったのでしょう)、スピードと持続力はすごさを感じさせます。コース時間を半分とか大幅に短縮するスピードは、彼の年齢であれば一つくらいの山なら結構達成できる人はいると思います。でもこれだけの持続力があるかというとたいていはギブアップするのではないかと思います。

 

凍結した氷上を歩いたりする技術も、あまり経験がないようで、最初はおぼつかない感じもありましたが、次第に慣れていく、その順応力もすばらしいですね。そうそう彼はクロスカントリスキーの選手だったとかで、スキーの腕も相当なものと思うのですが、一度みたいものです。他方で、カヤックの方は、沖縄から本土に向けた海上でのパドリングは、特別技術が優れている印象はありませんが、しっかり漕いでることと持続力はやはり並ではないですね。

 

なによりも素晴らしいと思うのは真のアドベンチャーに向かって進む彼の総合力ですね。リスクの想定をできるだけ予想して、その是非を検討し、できるだけ回避するその判断力は、将来すぐれた真のアドベンチャーになる能力を持っていると思うのです。

 

さてそのアドベンチャーにとっても排泄は必ず日々対応しないといけませんね。むろんNHK放送ではそこは取り上げないですが、トイレなどの施設がない場合の、いわゆる立ちション、野糞です。キャンプ場といったところではトイレ施設はありますが、そうでないところでは、屋外排泄への対応が求められますね。登山家にとっては、その作法が求められますね。これは文化的生活の中にいても、いつ災害が起こるかもしれない災害列島日本では常に考えておいてもよいのではと思うのです。そういうことを子供の頃から学んでおくことも重要かなと思うのです。

 

ところで、今朝の毎日記事<教育の窓小学校、進むトイレ洋式化>では、小学校のトイレの全国調査で、和式から洋式に変更する流れがよくわかります。それも東京都のように60%近いところもあれば、30%と低迷している地方の県もあるのですね。和歌山県は近畿圏で最低の31%となっています。

 

この洋式化の動きは、家庭での洋式化と、小学校での排便が恥ずかしいという抵抗感の払拭などを理由としているとのことです。さらに災害時小学校が避難時として利用され、高齢者・障害者の利便性を高める狙いもあるとのこと。

 

私自身の経験は半世紀を優に超えることと、当時はもちろん和式でしたので、ほとんど意味をなさないです。ただ、子供が小学校での排泄をいやがっていたのは覚えています。やはり幼い頃から洋式トイレに慣れている中、小学校での和式トイレは対応できなかったのかもしれません。

 

また、<学校のトイレは「5K(汚い、くさい、暗い、怖い、壊れている)」の印象が定着していた。>ということも、和式トイレが原因だという理解でしょうか、洋式化の普及の要因のようです。

 

ところで私がこのトレイを話題にしたのは、洋式化もいいけど、もっと考えないといけないことはないかということです。

 

この5Kは、和式だけの問題でしょうかね。汚くなるのは、その使い方に問題があるのではと思うのです。洋式トイレでも公衆トイレの場合見かけます。臭いのはたしかに和式の方が少し軍配が上がると思いますが、臭いを嫌悪することも一度見直ししてもいいかと思います。暗いとか怖いとかは、環境条件がひどい昔のもののようで、現在ではかなりよくなっているように思いますし、容易に改善できると思われます。

 

で、洋式化がすべていいとは思わないのです。和式スタイルは少し大変ですが、健康であれば筋力維持など有効な面もあるかと思うのです。一部くらいは残してもいいかなと思うのです。それに排便で自分の健康状態を理解する一歩になる?と思うのです。というか、排便を毛嫌いすることへの抵抗感を再考してみてはどうかと思うのです。

 

以前のブログで、尿も便も、有効活用の可能性や処理のあり方について、少し触れました。子供の頃から、人間にとって大切な事柄に、嫌なものとする考え方から脱皮する必要を感じています。それが万が一の災害時でも、動揺することが軽減できるのではと思うのです。

 

ましてや学校での排便を億劫になる現状は、洋式化してもさほど大きな変化がないとも書かれていることに注目したいと思うのです。人間にとって死ぬまで対処しなければならない一つの課題です。その行為の持つ意味をまじめに考えてもいい、学校でそのことを学ぶ機会にすることを考えてもらいたいと思うのです。

 

それは高齢者になり、オムツが必要になったと父母、祖父母に対して、子、孫がそんなことで動揺するのではない、しっかりした考え方、心構えをもっておくための、ハードではないソフトを理解するために教育が担う部分ではないかと思うのです。それもまたある種の道徳教育かもしれません。

 

むろん性的少数者への配慮や考え方を学ぶ機会とすることも大事でしょう。男子トイレ、女子トイレといった区別に変わるものは近い将来になくならないとしても、性差のないトイレがより普及することが重要ではないかと思うのです。障害者トイレがより普及することが求められますが、それは身体障害といった概念ではなく、心の垣根を取り払う、そんな真のバリアフリー・トイレが普及することが必要であり、子供の心にもそのような気持ちを育ててあげることが大事ではないかと思うのです。

 

30分で仕上げるつもりが、1時間になってしまいました。仕事にかからないと・・・