180413 認知症高齢者との触れ合い(4) <ユマニチュード・触れるとは>を考える
見る、話す、そして今回は「触れる」です。触れるというのは簡単なようで、難しいですね。最近では、セクハラ行為になるリスクもありますね。とはいえ、触れるということは、人間にとって、見る・話す以上に、本質的な行為かもしれないと思っています。そしてそれが的確であれば,真の触れ合いが可能ではと思ったりします。
ではユマニチュードではどのような「触れる」ことが求められているのでしょう。
「優しさを相手に伝える触れ方」というのです。ここで優しさは心で思うだけでは足りないというか、そうではないというのです。「優しさというのは心がこもっていればいいというものではなく、物理的なものなのです。」
赤ちゃんに触れる、そういう触れ方です。
「技術的にいうと、広く、柔らかく、ゆっくり撫でながら包み込むように触れます。このように広範囲に触れるとやさしい触れ方になります。たとえば同じ日キロの力を使うとしても、指先で触るのと、手全体で触るのでは違います。触れる面積の違いは、単位面積あたりにかかる力の違いとなります。そして、それは相手に届く優しさの表現の違いでもあります。」
そして相手の体のセンシティブさを理解して、順序ややり方を考えないといけないというのです。相手の感受性をしっかり受け止めながら、対処する必要があるのでしょう。
「手や顔は感覚のセンサーの数が多い部位です。神経が豊富にあり、少し触れただけでも大量の情報が脳に送られます。「ちょっと触っただけなのに患者が叫び出した」といった場合、そうした敏感なところに触れてしまった可能性があります。本人にとって、「すごくたくさん触られた」という感覚になっています。つまり「触れる」と「触れられている」という事実にズレがあるかもしれないということです。」とそのずれをなくす、最小化するような繊細な注意と技能が必要なのでしょう。
相手のために行っている介護サービスであっても、その感受性をしっかり受け止めないと、攻撃されていると受け止められ、爪を立てられたり、叩かれたり、といった自分を守るための正当防衛行為が無意識的に行われるのかもしれません。
「話しかけない、瞳を合わせない、力尽くで腕を掴んで上げさせる。これは相手を罰しようとするときの行いです。」というのはまさに正鵠を射ているでしょうね。
さらに「まして女性に近づき、おむつを確認しようと脚を聞かせたらどうでしょう。そのとき相手が閉じようとしたら、それは「嫌だ」という表明です。それでも無理やり聞こうとしたら、それはレイプです。 つまり彼女にとってはオムツ交換のたびに毎回レイプされているのと同じなのです。」ここまで意識できる方はどのくらいいるでしょうか。でも私は納得させられました。
また「体に触れることは、脳に触れること」ともイブ&ロゼットは指摘しています。
このことを意識した上で、触れる順番があるというのです。
「相手とよい関係を築くためには、一定の手順があります。そのために知っておくべきは、最初は顔や胸、陰部といったプライベートゾーンにいきなり触れてはいけない、ということです。」
「それは、私たちが触れているのは皮膚ではなく、ある意味では「脳」だからです。皮膚を通じて脳が理解し、「この相手は危険なのか。それとも身を預けてもいいのか」を判断しています。」皮膚が脳神経と直結しているから、皮膚の中でもあまり敏感でないところから、挨拶をはじめて、慣れてきてから次第に触れる対象を広げていくというのです。
それは「実際、体の部位と脳の領域はつながっており、特に顔や手からの情報はその他の部位からの情報量もより多くの脳細胞が使われています。つまり、感覚が鋭いのです。感覚が鋭いために、馴染みのない誰かがいきなり顔を触ることに対して拒絶反応が起きるのです。一方、背中や肩は単位面積あたりの神経が少ない。つまり、顔や手に比べると鈍いのです。」とそれぞれの部位の感受性の違いを理解する必要があるのですね。
その上で、触れる順番は
「相手からの信頼を得るために段階を置いて触れるにあたっては、まず背中からはじめて肩、腕、腹、胸と進み、最後は手、顔というふうに進んだほうがいいのです。」ということです。
そして「「触れる」の3つの意味」を理解しておくことも大切です。
まずは「認証」です。「相手に受け入れられ、意味や喜びを分かち合う触れ方です。」
次は「攻撃」です。こういう受け止め方がされる触れるものがあるということです。「怒りに任せて掴んだり、ゆさぶったりするなど、相手からの同意を得ずに粗暴に扱います。」とんでもないことですが、これは触れるとは言わないかもしれませんね。私は別のところで書かれている順番を誤った触れ方、たとえば最初に顔を触れるといったことが攻撃にあたるように思うのです。
3つめは「必要性のある」触れ方というのです。「病院へ行けば医師に体を触れられます。触られたくない部位でそれを不快に感じても、「必要なのだ」と思えば合意はできます。」ここで、余計な話ですが、合理性のある節度を持ったものとの制約付きで賛成します。いくら医師でも、必要性があったとしても、触れ方が節度がなかったり、合理的根拠を欠いていたり(乳がんを確認する場合にでも合理性が常にあるとは限らないと思うのです)すれば、アウトでしょう。
必要性があっても、今度は触れる技術が求められています。
「まず、親指をかけて鷲掴みにしない。指先だけで触れない。」というのです。前者はすぐわかりますね。後者はたしかにそうだなと理解できます。要は「強制力を感じさせ、圧力が高くなるような、攻撃を意味する触れ方はしてはいけません。」
次は順番です。「ついで最も敏感ではないところから順に触れます。清拭は背中からはじめて、次に腕そして脚へと移ります。」と。
その上で肝心なことがあるのです。「常に触れていることです。人というのは、感覚的な関係を結んだときにそれが断絶されるのが好きではありません。ずっと継続してほしいと思うのです。」触れる側は、岩登りのときに安全を確保する三点確保ではないですが、そのような意識で触れ続けることを肝に銘じるのですね。
「広く、ゆっくり触ることが肝心です。」ということも大事なのですね。
「触れる場所を選ぶ口とにかく優しく、広く触れる。これがユマニチュードの触れ方です。」
この「触れる」という項目で、最後に「触れることが自由をもたらす」というタイトルがありますが、いまひとつ理解できていません。
「触れたら相手が喜んでいるのか痛がっているのか、わかるようになった」という話が組み込まれていますが、それ自体はわかるような気がします。ただ、このような触れることで相手の気持ちがわかるようになることが、「看護師や介護士の人たちはすごく自由に感じているのです。」ということになると、ちょっと飛躍を感じてしまいます。が、そうかもしれないとも思うのです。それが自分の行っていることに、その影響・成果を気づくことで、真の自由を得られるのかなと、今のところ思っています。ただ、実践してみないとどうでしょうね。
途中で仕事の電話が入り、一時間を経過しました。今日はこれでおしまい。また明日。