たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

認知症高齢者との触れ合い(4) <ユマニチュード・触れるとは>を考える

2018-04-13 | 医療・介護・後見

180413 認知症高齢者との触れ合い(4) <ユマニチュード・触れるとは>を考える

 

見る、話す、そして今回は「触れる」です。触れるというのは簡単なようで、難しいですね。最近では、セクハラ行為になるリスクもありますね。とはいえ、触れるということは、人間にとって、見る・話す以上に、本質的な行為かもしれないと思っています。そしてそれが的確であれば,真の触れ合いが可能ではと思ったりします。

 

ではユマニチュードではどのような「触れる」ことが求められているのでしょう。

 

「優しさを相手に伝える触れ方」というのです。ここで優しさは心で思うだけでは足りないというか、そうではないというのです。「優しさというのは心がこもっていればいいというものではなく、物理的なものなのです。」

 

赤ちゃんに触れる、そういう触れ方です。

「技術的にいうと、広く、柔らかく、ゆっくり撫でながら包み込むように触れます。このように広範囲に触れるとやさしい触れ方になります。たとえば同じ日キロの力を使うとしても、指先で触るのと、手全体で触るのでは違います。触れる面積の違いは、単位面積あたりにかかる力の違いとなります。そして、それは相手に届く優しさの表現の違いでもあります。」

 

そして相手の体のセンシティブさを理解して、順序ややり方を考えないといけないというのです。相手の感受性をしっかり受け止めながら、対処する必要があるのでしょう。

 

「手や顔は感覚のセンサーの数が多い部位です。神経が豊富にあり、少し触れただけでも大量の情報が脳に送られます。「ちょっと触っただけなのに患者が叫び出した」といった場合、そうした敏感なところに触れてしまった可能性があります。本人にとって、「すごくたくさん触られた」という感覚になっています。つまり「触れる」と「触れられている」という事実にズレがあるかもしれないということです。」とそのずれをなくす、最小化するような繊細な注意と技能が必要なのでしょう。

 

相手のために行っている介護サービスであっても、その感受性をしっかり受け止めないと、攻撃されていると受け止められ、爪を立てられたり、叩かれたり、といった自分を守るための正当防衛行為が無意識的に行われるのかもしれません。

 

「話しかけない、瞳を合わせない、力尽くで腕を掴んで上げさせる。これは相手を罰しようとするときの行いです。」というのはまさに正鵠を射ているでしょうね。

さらに「まして女性に近づき、おむつを確認しようと脚を聞かせたらどうでしょう。そのとき相手が閉じようとしたら、それは「嫌だ」という表明です。それでも無理やり聞こうとしたら、それはレイプです。 つまり彼女にとってはオムツ交換のたびに毎回レイプされているのと同じなのです。」ここまで意識できる方はどのくらいいるでしょうか。でも私は納得させられました。

 

また「体に触れることは、脳に触れること」ともイブ&ロゼットは指摘しています。

 

このことを意識した上で、触れる順番があるというのです。

 

「相手とよい関係を築くためには、一定の手順があります。そのために知っておくべきは、最初は顔や胸、陰部といったプライベートゾーンにいきなり触れてはいけない、ということです。」

 

「それは、私たちが触れているのは皮膚ではなく、ある意味では「脳」だからです。皮膚を通じて脳が理解し、「この相手は危険なのか。それとも身を預けてもいいのか」を判断しています。」皮膚が脳神経と直結しているから、皮膚の中でもあまり敏感でないところから、挨拶をはじめて、慣れてきてから次第に触れる対象を広げていくというのです。

 

それは「実際、体の部位と脳の領域はつながっており、特に顔や手からの情報はその他の部位からの情報量もより多くの脳細胞が使われています。つまり、感覚が鋭いのです。感覚が鋭いために、馴染みのない誰かがいきなり顔を触ることに対して拒絶反応が起きるのです。一方、背中や肩は単位面積あたりの神経が少ない。つまり、顔や手に比べると鈍いのです。」とそれぞれの部位の感受性の違いを理解する必要があるのですね。

 

その上で、触れる順番は

「相手からの信頼を得るために段階を置いて触れるにあたっては、まず背中からはじめて肩、腕、腹、胸と進み、最後は手、顔というふうに進んだほうがいいのです。」ということです。

 

そして「「触れる」の3つの意味」を理解しておくことも大切です。

 

まずは「認証」です。「相手に受け入れられ、意味や喜びを分かち合う触れ方です。」

 

次は「攻撃」です。こういう受け止め方がされる触れるものがあるということです。「怒りに任せて掴んだり、ゆさぶったりするなど、相手からの同意を得ずに粗暴に扱います。」とんでもないことですが、これは触れるとは言わないかもしれませんね。私は別のところで書かれている順番を誤った触れ方、たとえば最初に顔を触れるといったことが攻撃にあたるように思うのです。

 

3つめは「必要性のある」触れ方というのです。「病院へ行けば医師に体を触れられます。触られたくない部位でそれを不快に感じても、「必要なのだ」と思えば合意はできます。」ここで、余計な話ですが、合理性のある節度を持ったものとの制約付きで賛成します。いくら医師でも、必要性があったとしても、触れ方が節度がなかったり、合理的根拠を欠いていたり(乳がんを確認する場合にでも合理性が常にあるとは限らないと思うのです)すれば、アウトでしょう。

 

必要性があっても、今度は触れる技術が求められています。

 

「まず、親指をかけて鷲掴みにしない。指先だけで触れない。」というのです。前者はすぐわかりますね。後者はたしかにそうだなと理解できます。要は「強制力を感じさせ、圧力が高くなるような、攻撃を意味する触れ方はしてはいけません。」

 

次は順番です。「ついで最も敏感ではないところから順に触れます。清拭は背中からはじめて、次に腕そして脚へと移ります。」と。

 

その上で肝心なことがあるのです。「常に触れていることです。人というのは、感覚的な関係を結んだときにそれが断絶されるのが好きではありません。ずっと継続してほしいと思うのです。」触れる側は、岩登りのときに安全を確保する三点確保ではないですが、そのような意識で触れ続けることを肝に銘じるのですね。

 

「広く、ゆっくり触ることが肝心です。」ということも大事なのですね。

 

「触れる場所を選ぶ口とにかく優しく、広く触れる。これがユマニチュードの触れ方です。」

 

この「触れる」という項目で、最後に「触れることが自由をもたらす」というタイトルがありますが、いまひとつ理解できていません。

 

「触れたら相手が喜んでいるのか痛がっているのか、わかるようになった」という話が組み込まれていますが、それ自体はわかるような気がします。ただ、このような触れることで相手の気持ちがわかるようになることが、「看護師や介護士の人たちはすごく自由に感じているのです。」ということになると、ちょっと飛躍を感じてしまいます。が、そうかもしれないとも思うのです。それが自分の行っていることに、その影響・成果を気づくことで、真の自由を得られるのかなと、今のところ思っています。ただ、実践してみないとどうでしょうね。

 

途中で仕事の電話が入り、一時間を経過しました。今日はこれでおしまい。また明日。


古墳設計とピタゴラス <大山古墳 40メートル長かった>などを読みながら

2018-04-13 | 古代を考える

180413 古墳設計とピタゴラス <大山古墳 40メートル長かった>などを読みながら

 

今朝の毎日社会面で<仁徳陵40メートル長かった 宮内庁、周濠部分を測量し判明>と大きく扱っていました。

 

考古学の世界では「大山古墳」とされていますが、仁徳陵というほうが私の世代に限らず一般受けするのでしょう。

 

それにしても全長468mとされてきたのが、今回の宮内庁による測量40mも長い、525mであることがわかったというのですから、大きな話題でしょうね。モリ・カケ問題と比較するのもなんですが、まさに事実に基づく正確な話でしょう。

 

とりあえず記事を引用します。

<宮内庁書陵部が水に覆われた周濠(しゅうごう)部分の地形を初めて測量し、判明した。>ということで、いままで周濠部分の深層部分まで測量していなかったのですね。信じられないというとまた問題になりそうです。

 

ともかく毎日記事では、従来の測量が墳丘部(水面上?に出ている部分)だけの全長にとどまり、墳丘が周濠の基底に到達している部分を測量していなかったというのですね。絵入りで紹介していますが、ほとんかいなと思ってしまいます。

 

というのは、ちょっと別の話と言えば別なんですが、土地の境界でよく問題になる一つが、石垣部分です。石垣はお城などでもそうですが、一定の角度をもっていますね。それぞれのお城特有(中にはいくつもの石垣の種類がありますが)の形状となっていて,城郭専門家の講釈がでそうな領域です。

 

その石垣の基底部というのは、外部から見える地点からはかなり下まで延びていて、つまりは土地境界で言えば、小さな石垣でも30㎝くらい張り出していて、そこが境界線となるのです。

 

元に戻って、墳丘もまた、傾斜を持ち、基底部は水面上に現れているところから、周濠の深さに応じて、その基底地盤の下まで延びていないと安定を保てないはずです。つまりは墳丘の大きさを測る場合に、基底部を考えないで測量するなんてことは正確でないというのは常識的な話ではないかと思うのですが、これはいままで考えなかったのか、あるいは墳丘は別扱いと考えてきたのか、どうでしょうね。

 

ともかく記事に戻ってみますと、

<486メートルとしている現在の全長は、大正時代の測量に基づく。>というのです。

 

そして<約1600年の月日で堆積(たいせき)したヘドロの下には、さらに墳丘が広がっている可能性もある。また3重になっている周濠のうち、一番内側だけでも、標準的な25メートルプール700杯分に当たる約34万立方メートルの水があることも分かった。>と余分な話まで提供してくれています。

 

もう一つの記事<大山古墳40メートル大きかった 築造当時、全長525メートル 宮内庁測量 周濠の水面下にも墳丘>によりますと、

 

<調査は2016年12月に実施した。宮内庁は、将来的に周濠の水を全部抜き、浸食が続く墳丘の護岸工事をする方向で検討しており、排水計画を立てるため、ボートに載せた機器から音波やレーザーを発する方法で水面下の地形を調べ、水量も計測した。水に覆われた部分にも、墳丘の裾部分が広がることを確認した。>

 

どうやら水抜き前ですので、音波やレーザー測量で、墳丘の基底部地形の位置を確認したようですね。水抜きして、改めて実測するのでしょうか。

 

ま、長さが40mも長くなったことがどういう意味を持つのか、それはこれからまた検討されるのでしょうけど、他方で、他の周濠付き古墳でも同じような問題というか、全長が延びる可能性を含んでいることが示唆されますね。

 

ところで、この40m大きかったという記事を見て、NHK「歴史への招待12」で古墳を扱った中で、古墳設計図について考古学研究家として椚国男さんが登場していたのを思い出したのです。椚(くぬぎ)さんは城郭研究家で、各地の城郭を研究されていて、八王子城趾については著作もあり、現地でいろいろ教えを受けたことがありますが、古墳まで研究していたのかと驚いたものでした。この書物では椚さんも若々しい姿ですが。

 

で椚さんが紹介しているのは「日本の巨大古墳の中にもこの四十五度、三十度、二十二・五度、十五度の角が使われているんです。」と述べられて、自作のコンパスを用意してそれを実証するのです。そしてこの古墳時代にピタゴラスの定理がわが国にも導入されて使われていた可能性を指摘するのです。面白いですね。

 

さて大山古墳の被葬者についてはどのように考えられていたのでしょうか、椚さんに伺ってみたいものです。