紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

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2006-08-22 23:49:53 | ファミリー
 お盆は、ほぼ仕事でぎっしりだったし実家も忙しかったしで、今日やっと実家に立ち寄ることができた。

 10年ばかり前、実家がすべて建て替えられた。

 私が小学生の頃、天井に煤がついている上、すきま風が入る年代物の家が、建て増し&一部リフォームされた。
 しかし私の結婚後の工事は、全面的な建て替えだったので、もはや「実家」といえど、「帰って来た」という感慨は大幅に減少した。帰るたび、少し胸に辛い風が吹き抜けるときすらある。

 庭先の木々も変わった。

 円形に刈り込まれた紅葉の周りを、よく三輪車で回った。前栽にはゴールデン・ウイークの頃になると、野趣あるアヤメ科のシャガに囲まれ、ツツジの木が見事な純白の花をつけた。その奥には真っ赤な花をつけるサツキの木もあった。柿やイチジクや枇杷の木も、実をつける季節を楽しみにしていたし、季節がくれば青梅を落とす手伝いもしていた。木犀や八重の梅や棕櫚など、ウチの木々は幼なじみのように親しいものだった。

 それらの庭木もほとんどが消えてしまったわけだが、夏休みの終わりを告げる赤いサルスベリの花は、変わらず足元にこぼれていた。ままごとで、紅ショウガにみたてた花である。

 そんな風だが、失うまでには余裕があり、別れを惜しみ、必要なものはわけてもらえる時間はあったのだから、まだしも幸せなのかもしれない。ある日突然家を無くしてしまう方の悲しみと喪失感はいかばかりかと、胸が痛くなる。

 夢で実家を見る時は、必ず子どもの頃住んでいた状態の家なのだ。おばあちゃん(夫の母)にいわせれば、どうもみんながそうらしい。それほどに記憶の中の「生まれ育った家」は自分で思っている以上に重要なものなのかもしれない。住居は同時にタイムカプセルのように作用する。それは自分の家だけでなく、自然や遊び場や隣近所や親戚の家も含まれる。それらが失われるたびに、胸の中の井戸に小石を落とすような切ない欠落感が音をたてるのだ。

 ツクツクボウシがついに鳴き出した。夏休みがまもなく終了する合図である。

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